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中村空襲 証言2

証言3(6月30日) 西井平さん 昭和9年生れ 85歳 

当時川登小学校6年生。真上の空に、南からいつもアメリカの飛行機が次々にやってきて集まっていた。B29が中心だが、護衛の戦闘機グラマンなども付いていた。午前中だった。

ここが集合場所になっているらしく、反時計回りにぐるぐる旋回したあと、数がまとまったら北や東西、あちこちの方向に向かって行き、1時間か1時間半ぐらい後に戻ってきた。

グラマンの操縦士の顔がわかるくらいの低空飛行をしていたこともある。一度だけ、日本機と空中戦をしているのを見た。

自分たちは、通学班を組んで朝7~8時ごろ学校へ行く。空襲警報が鳴ると学校へ行かなくていいことになっていたので、草の中で遊んだ。

その日も通学のときサイレンが鳴ったので上を見ると、南から3機が三角形の編隊で飛んできた。その日は、護衛機はなかった。

そのうちの右の1機が急に東に旋回し、ネズミのくそのようなものをパラパラと落とすのが見えた。すぐ後に、ドド~ンと体を引き込まれるような地響きがあり、山の向こうから、黒い煙があがった。

沖縄が陥落してから飛来機がふえた。学校でサイレンが鳴ると、机をかついて山のほうに逃げた。養蚕場、お寺、お宮へ。山に桑の葉を入れる横穴を掘っていたので、防空壕がわりにそこにも逃げた。

兵隊もやってきた。ニシク部隊? 機関銃1丁、契機2、敵弾頭2ぐらいしかもっていなかった。

そのあとケンザン部隊?も来た。まともな銃はもっていなかった。木銃なども。40~50歳くらいの補充兵で、おんちゃんばかりだった。明らかに知能障害があるような、動作のにぶい兵もいて、いつもなぐられていた。

翌年(昭和21年)、旧制中村中学に入った。最後の入学組。大神宮前に爆弾池があった。

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証言4 伊与田譲さん(6月30日)  昭和5年生れ 88歳

川登生まれ。口頭試問のみで旧制中学に川登から1人だけ入った。田舎者なのでドキドキして入学した。中村の子はハキハキしていた。足にゲートルを巻き、上級生には敬礼をした。

自分は軍国少年だった。将来何になりたいかと聞かれ、軍人になり天皇陛下のために命を捧げますと答えた。

配属将校が来ていた。少尉より下の階級。尾﨑栄さんも来ていた。教練があった。

右山に下宿していた。周りに池があり、夜、食用ガエルの声が大きいので、空襲警報と間違えて目が覚めたことが何度もあった。

学校に行く通路、いまの文化センターのところに女学校があったがその前は避けて通った(恥ずかしくて)。女学校運動会を古城山から(こっそり)見た友人がいた。

学校では、陸軍士官学校、陸軍幼年学校志願の生徒向けに早朝補修授業をしていた。自分もそれを受けていた。

そこでサイレンが鳴った。北へ向かっていたB29が1機戻って来て爆弾を落とした。爆弾にプロペラがついているのが見えた。あわてて校舎の隅に掘ってあったタコツボ(天井のない防空壕)に4人(藤原、坂本、弟)で飛び込んだ。

一番近い爆弾は100mくらい先、拘置所(中村高校弓道場となり)の山側に落ちた。もうもうとした土煙。耳と目を塞いだ。電線が切れた。爆弾の破片が校庭に飛び散っていた。破片があたったら死んでいた。「助かった~」というのが一番先に思った。

その後、奥御前の中の長い防空壕に逃げた。しばらくそこにいてから、学校からの命令で、古城山に登ってから下宿に帰った。

B29は学校を狙ったのだろう。それが外れた。

「中村高校百年史」か「八十年史」には、早朝始業前だったので生徒に犠牲者はなかったと書いているが、実際は、自分ら生徒は来ていた。

爆弾は4発落ちたものと思っていたが、今日の展示を見ると、大神宮奧にも落ちているので、5発だったのだろう。

田辺散髪屋は庭の防空壕を直撃したので、一家3人全滅だった。時限爆弾が2つあり、ひとつが中学の農場に落ちあとで爆発し、隣の出雲神社神官1人死んだ。もう一つは本町のタクマ先生の庭で爆発。(計18人死亡。)

農場にはネギを植えていたので、爆風でなぎ倒されていた。

グラマンかP38が鉄橋下をくぐりぬけるのを見た。飛行士の顔が見えた。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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