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小野道一(1)

幸徳秋水にさまざまな影響を与えた親戚一族として、安岡、桑原に続き小野について書きたい。 


1.大学南校から中央官吏へ

小野は秋水母多治の実家である。小野家は士族格をもつ山路村庄屋であったが、多治の父雲了(亮輔)は三男であり中村に出て医師になっていた。雲了の妻は同じ小野の伊田(旧大方町)分家雲平の娘須武子(澄)であり、その姉の教は蕨岡伊才原大庄屋桑原義厚に嫁いでいた。

雲了、須武子の子は娘二人、多治と嘉弥であった。普通ならどちらかに婿をとるのであろうが、多治は商家幸徳に、妹の嘉弥は雲了の姉菊が嫁いでいた郷士安岡の次男良哲(長男は良亮)に出し、小野家養子として桑原義厚、教の次男道一を迎えた。道一の兄は本誌五号に書いた桑原戒平である。

道一は嘉永三年生(戒平の六歳下)。兄同様、安岡良亮に学問を、樋口真吉に剣術を学んだ。郷土史家上岡正五郎先生が書いた「中村市史」では、道一は明治初年、谷干城に従って上京、大学南校(東京帝大前身)で法律を学んだとある。干城、良亮、戒平は維新東征迅衝隊の幹部であったという関係が背景にあったと推測されるが、上京の詳しい経緯や時期等についてははっきりしない。道一はその後も生涯にわたり干城と深いかかわりをもつ。

安岡良亮は新政府入りのため明治二年一家で上京。道一も官に入り、明治三年、東京で良亮次女の英と結婚した。いとこ同士であった。(良亮の長女の芳も桑原戒平妻になっていた。桑原兄弟と安岡姉妹が結婚。)

道一、英の末の娘に岡崎輝がおり、英が昭和十二年大阪府豊中市の岡崎家で没したあと書いた「小野英子年譜」があるので、以下の道一の事績はこれに基づいている。

明治六年、道一は度會県(のち三重県)警察部長として赴任中、長男新が伊勢の官舎で生まれた。同時期、良亮は同県参事であり、小野新たに興るべしと命名。隣の官舎には尾崎行正夫妻(咢堂父母)がおり、新婚夫婦の世話をしてくれた。

その後、三潴県(福岡)警察部長を経て、明治九年、熊本県令の良亮が神風連の乱で斬られた時は鹿児島裁判所判事になっていた。

翌年、西南戦争で西郷軍に与し、上奏に加わったことで長崎に軟禁。その後解かれ、東京に戻り大審院に入った。

しかし、明治十二年、二十九才で官を辞し、中村に帰る。理由は養父雲了の老後をみるためと書かれているが、兄桑原戒平も西南戦争後熊本から帰っていたので、私は兄弟で申し合わせたものと推測する。(雲了は明治十七年没)

続く


「文芸はた」6号
2019年7月発行

辛抱治郎

先月のことになるが、7月30日、四万十市民大学で、キャスター・ニュース解説者、辛抱治郎「~情報の正しい判断~ 報道現場から」の講演があった。

同氏は、読売テレビ(大阪)のアナウンサー、キャスターであるが、関西だけでなく日本テレビネットワークを通して全国的にも有名なようで、私も珍しいその名前を知っていたので、どんな話をするのかと思って興味があり、聞きに行った。

早口でペラペラしゃべるので、少し聞きとりにくい面はあるが、逆にそれを売りにしているのだろう。笑いをとりながら(・・・これがミソ)、社会問題等につてもバシっと斬り込む(・・・ように聞こえる)。堅い話をわかりやすい(・・・ように)、巧みな話術で聴衆を引き付ける。

出た話題。

・やしきたかじん番組の裏話。二人の舌禍(失言)をチェックするために、収録してから編集する。東京局は発言に神経質、関西局は割とおおらか。

・世間を騒がした(笑わせた)失言の例。雪印社長、大阪吉兆の女将、伊勢赤福社長(良い対応例)。

・運転免許証返納制度はおかしい。警察の責任転嫁。持ち続けて、不安になれば、使わなければよいだけ。

・長生きのリスク、年金問題。若者が支えられなくなる。

・本庶佑(たすく)のノーベル賞を予言した。山中伸弥とも親しい。自慢話。

・神奈川県で怪奇的な殺人事件が多いのは、核家族が多いから。


これらの話題はたしかに聴いていておもしろい。間違ったことは言っていない。納得できる内容だ。

しかし、笑いをとることが大きな目的であるため、真剣さ、誠実さが伝わってこない。奥様向けのワイドショーか、漫談か、落語をきいている感じ。

そんな話ぶりでも、それだけならば、おもしろかった、で終わるのだが、危険と思ったのは問題発言、異常な発言が混ぜっこにされていたことだ。

例えば

・失言問題・・・「麻生太郎は失言がフリー」、「鳩山首相を<宇宙人>と言ったら、8ヶ月で首相を辞めてしまった」

・差別用語問題・・・○○は狂っていると言ったらカットされた。しかし、「時計が狂っている」という言い方はあるではないか、と笑いをとったのに続いて、「朝日は狂っている」「文在寅(ムンジェイン)は狂っている」「習近平は狂っている」と突然発した。

・テレビ番組企画で太平洋をヨットで進んでいるとき、クジラに衝突しヨットが沈んだ有名な事故にあったが、あれはクジラではなく、「中国の潜水艦だった」。また、自衛隊機に間一髪で救助されたことへの感謝をことさらに強調。


これらのフレーズは、笑いをとるために、冗談半分に発したように装いながら、実は、計画的、意図的なものであると思う。アジテーション(扇動)、プロパガンダだ。理由を説明しない、言いっ放し。質問は受け付けないと開会前に司会からクギをさされている。だから、不誠実、タチが悪い。

私が恐ろしくなったのは、こうした話題が会場から受けていたことだ。みな冗談だと思っているのだろうが、実はこれはヘイトのようなものであり、こうしたことが知らず知らずのうちに、世論を形成していく。本人はそれがわかっている。

実際、会場にはたくさんの人が来ていた。400人ぐらいか。最近の市民大学でこれだけ集まったことはない。しかも、いつもは見かけない若い人が多かった。みんな満足そうな顔をしていた。私は、恐ろしくなった。

某テレビ局を退職した私の学生時代の友人は、辛坊治郎のことを「クーラーの効いているスタジオで、誰かが書いた原稿用紙に唐辛子をかけて読むのを商売にしているような奴」と書いているのを、講演後見つけた。言いえて妙。

市民大学は学ぶためである。しかし、この内容は、偏った社会の見方の紹介であり、学ぶどころか弊害が多いと思う。しかも、本人も冒頭あいさつで言っていたように、13年前にも呼ばれており、2回目だ。なぜ、公平であるべき市教育委員会がこのような人選をしたのか疑う。

辛坊治郎は要注意人物である。

津賀ダム 日韓交流

津賀ダムは、四万十川支流梼原川にかかるダムで、アジア太平洋戦争下の昭和15~19年、朝鮮人強制連行や徴用工を使ってつくられた。場所は旧大正町(現四万十町)で、昨年9月、このブログで紹介した。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-461.html

ダム湖の上に、2009年6月14日、「津賀ダム平和祈念碑」が建てられた。幡多高校生ゼミナールに参加する、日韓の高校生たちの手によって。

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祈念碑建立から10周年にあたり、8月4日、韓国の高校生も参加して同地で記念の集いがあった。私は、7月22日~26日、韓国を訪問してから帰ってきた直後であり、日韓交流の重要性を強く感じたことから、参加をした。

幡多高校生ゼミナールは、1983年、幡多地域の高校生たちが「足もとから平和と青春の生き方を見つめる」ことを目的につくった自主的サークルで、地域に埋もれた歴史を発掘してきた。

最初、高知県に多く存在した、アメリカのビキニ水爆実験による被災船の調査から始まり、1990年からは津賀ダム朝鮮人強制連行調査を行ってきた。

93年からは韓国ソウル、釜山等へ出向き、韓国高校生との交流をおこなっている。そのもようは、「ビキニの海は忘れない」に続くドキュメント映画第2作「渡川」に収録されている。

津賀ダムにどれだけの数の朝鮮人が連れて来られたかについては、昭和19年、大正町役場資料の中に、男子554人、家族を含めて666人という記録がある。彼らは「募集の名目のもと強制連行された」「石を担いで運んだり、トンネルの発破の作業を行うなど、きつい、汚い、危険な、仕事を主としていた」「現場の下流の両岸にある狭い仮住宅にぎゅうぎゅうづめの状態で生活」「逃亡する者も多く、監視が厳しかった」と書かれている。(「大正町史」、2006年刊)

ここで亡くなった人も多くいたようだが、その数は不明であり、下道集落の墓地の片隅に石を置いただけの墓が3つ確認されているだけ。その石の前で、家族らしき人が、アイゴー、アイゴーと、地に伏して泣いていたのを見たという証言がある。

今回の集いには、韓国釜山の高校生4人(同伴者も4人、計8人)を迎えた。2日前に到着し、宿毛市と四万十町で地元高校生たちと交流をおこなった。

平和祈念碑前での集会には、約70人が参加。挨拶は、実行委員長(山本氏)、四万十町長(メッセージ代読)、韓国民団高知支部代表、地元下道集落代表(中平氏)。アリランの笛演奏の中、全員が献花。

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続いて、韓国高校生4人(全員女性)による現代版振付のアリランの歌と踊り。びっくりしたが、これがすばらしかった。

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韓国高校生代表による挨拶。最近の日韓情勢がおかしくなっているため、韓国では私たちの訪問を心配する人がいた。しかし、私たちは歴史を共有して平和を守る活動を継続していかなけれならない。津賀ダムは過去の傷痕を癒して、平和と共生の未来へと導く橋渡しとなっている。・・・驚くほどしっかりした言葉だ。

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締めは、幡多ゼミOBで現四万十町議の村井真菜さんによる閉会あいさつ。これもすばらしかった。

今回は、日韓関係が最悪の状況下での集いであったので、どんな妨害が入るかもわからいという心配から、事前に警察にも連絡をしておいたそうだが、幸い何のトラブルもなく、集いは終わった。韓国高校生たちも、その日のうちに窪川駅から帰って行った。

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今年は、日本による朝鮮支配から韓国の人たちが立ち上がった3.1事件から100年であり、戦後、韓国解放からも74年たつ。

最近の日韓問題の発端は、徴用工への補償問題。まさに、津賀ダムのようなケースが問題になっているのだ。

日本側は1965年の日韓請求権協定で解決済みと主張いている。しかし、この協定は国と国レベルの内容であり、民間からの請求権までは否定しているものではないということを、日本政府も過去の国会答弁で認めている。

しかも、今回は韓国最高裁判所の決定である。日本も韓国も三権分立。行政は司法に介入できない。なのに、日本政府は韓国行政になんとかしろと追及。法の秩序を破れと言っているのだ。逆の立場で、日本の最高裁判所の決定に外国から異を唱えられていたら、日本政府はどうするだろうか。

日韓請求権協定にしても、当時の韓国は李承晩軍事独裁政権当時であり、真に国民を代表する政権ではなかった。

結局、日本政府は中途半端な形でしか、戦後処理をしこなかった、過去の朝鮮支配への心からの反省がないままである。そのツケが、いままた来ている。

両国の過去の歴史を共有し、真摯に向き合う。この姿勢がないと、同じ問題かこれから先も何度も繰り返されるだろう。

68824818_2693453420689004_8815988715177377792_n.jpg   幡多ゼミ5 高知新聞 津賀ダム交流


八束中学野球部

母校八束中学の野球部が休部になる。

同校のグランドは私の家の前。いつもネット越しに、練習する子供たちの元気な声が聞こえていた。時には、うるさいほどに。しかし、その声が明日からもう聞けなくなると思うと、さみしい。

生徒数の減少とともに野球部員も年々減り、今年は5人(全員3年生)。ここ2年、試合は三原中学と連合を組んでたたかってきた。

今年度の公式試合がきのうの県選手権大会で終わった。1回戦(羽根・吉良川連合)2回戦(旭)と勝ち進んだが、3回戦(西部)で負けてしまった。

私は、きのうが最後になるかもしれないということで、高知市営球場まで応援に出かけた。3点先制し、これはいけると思ったが、生憎の雨、ぬかるんできたマウンドで、大黒柱でエースの山本秀虎君がコントロールを乱し、最終的に3-16という6回コールド負けしてしまった。

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最後の試合にしては、残念無念な結果に終わった。良いグランドコンデションでやらせてやりたかった。悔いが残る。

スタンドには、選手父兄などがたくさん応援に来ていた。毎年、この大会が3年生にとっては最後になるのだが、今年は八束中学にとっも、野球部最後の試合になってしまった。

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現在1,2年生の部員はいない。学校そのものも2年後には中村西中に統合されることが決まっている。休部はやむをえないのだ。

私は昭和43年卒業。そのころは、ソフトボール部はあったが、野球部はなかった。周辺中学もソフトボールが中心であった。(私は軟式テニス部だった。)

ソフトから野球部に転換したのは、はっきりきいていないが、おそらく昭和50年前後だと思う。以来、小さい学校ながら、八束と言えば野球と言われるくらいに強くなり、卒業生には中村高校、高知高校、明徳義塾高校から甲子園に出た選手もいる(中村高校がセンバツ準優勝した時の4番バッター植木謙造君など)

八束中学が主催をして、大文字野球大会を毎年春開き、幡多郡内各校を集めていた。私もたびたび観戦した。

しかし、子どもの数が減るのは、どうしようもない。最近は中学だけでなく、高校でも連合チームが多くなってきた。

八束中学は、ここ2年間は部員5人。それでも黙々と練習をしていた。9人揃わないで練習するのは、モチベーションを維持するのは大変だったと思う。指導の先生も同じだ。

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それでも今年の連合チームは結構強く、春の幡多郡大会で優勝。県大会でも3回戦まで進んだのだから、大したものだ。

特に山本―川添のバッテリーは、八束スポーツ少年団時代からのコンビであり、将来有望だ。ぜひとも、二人で中村高校に進んで、甲子園をめざしてほしい。

約40年の八束中学野球部の歴史の最後のページにしっかりと名を刻んでくれた5人にお礼を言いたい。写真はきのうの試合終了後、高知市営球場で。ピース。

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文子を追っかけ韓国日記(5)

5日目、帰国後まとめ

最終日7月26日は8:25発高松行きなので、帰るだけ。まだ薄暗い5時半タクシーでホテルを出た。仁川空港まで、高速を使い1時間で料金は5900円だから、やっぱり安い。

来るときとは違い、あとは学習効果でスムーズ。10:05高松着。あっけない。外国から帰ってきたというような感じがしない。

これで旅は終わったので、まとめ、感想を書いておきたい。

大変中身の濃い充実した旅になった。ひとえに、金昌徳さんをはじめ韓国、国民文化研究所のみなさんの温かい心のこもった受け入れ体制のおかげである。東京の亀田博さんにも大変お世話になった。

最初にも書いたように、この旅が実現したのは、幸徳秋水と金子文子の導きによる。韓国独立3.1事件から100年の年、日韓関係が悪化の状態の渦中というのも、運命的なものを感じた。

秋水らが逮捕された大逆事件と同じ年(1910年)、日本は韓国を併合。それから100年以上たつというのに、日本政府は植民地支配への、心からの反省がいまだできていない、中途半端な形でしか、戦後処理をしこなかった、そのツケがいま来ている。

今回のことの発端は、徴用工への補償問題。日本側は1965年の日韓請求権協定で解決済みと主張している。しかし、この協定は国と国の締結であり、被害者個人からの請求権までは否定しているものではないということを、日本政府も過去の国会答弁で認めている。

しかも、今回は韓国最高裁判所の決定である。日本も韓国も三権分立。行政は司法に介入できない。なのに、日本政府は韓国行政になんとかしろと追及。法の秩序を破れと言っているのだ。逆の立場で、日本の最高裁判所の決定に外国から異を唱えられたら、日本政府はどうするだろうか。

こんな情勢下、初めての韓国訪問であったから、韓国の反日ムードも高まっているだろうと心配していた。

ところが、まったくそうではなかった。これは日本の報道の仕方に問題がある。もちろん一部には反日の人たちもいるだろうが、日本ではそうした部分だけを、さも国民全体がそうであるかのように、過剰に報道している。それによって反韓、嫌韓をあおる。日本政府がそれを望んでいるからである。対外的な危機をあおれば、国民は結束するから当該政権に有利に働く。

恥ずかしながら、私は最近まで、金子文子の墓が韓国にあり、毎年追悼式を韓国の人たちがおこなってくれていることを知らなかった。

今回、追悼式に初めて参加をして、私は韓国の人たちのこころの広さ、懐の深さを痛感した。日本人の文子を顕彰し、朴烈義士記念館の1Fフロアーいっぱいに詳しい展示をしてくれている。その詳細さは、朴烈以上であった。

今回、私らはソウルからチャーターバスに乗り、聞慶市での追悼式に参加してホテルに泊まり、翌日も同じバスで文子が暮らしていた芙江にも連れていってもらった。これらの費用はすべて韓国側持ちであり、私ら日本人10人は招待された形になっていた。

文子追悼式関連のイベントについては、国からの補助金が出ており、おみやげ(記念タオル、文子をデザインしたマグカップ、メモ帳)まで、持たせてもたった。

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2日目、芙江での歓迎式費用は、地元の一人の実業家がいっさいを出してくれていると聞いた。歓迎するとなれば、まるごと。それが韓国流なのだと同行の日本人から聞かされた。

聞慶は朴烈の生地ではあるが、文子は住んだことがない。しかし、芙江には7年間住んでいた。

文子は手記に書いているように、芙江では日本人が地元民を虐待し、差別してきたのをみている。普通に考えれば、いまも芙江に人たちは日本人がにくいはず、少なくとも良い思いはもっていないはずである。

なのに、われわれを歓迎してくれる。文子が暮らした足跡をいまも調べ続け、詳しく案内してくれる。芙江では、これまで地元出身の有名人がいないこともあり、文子をまちのシンボル、英雄として、広く知ってもらおうと力を入れているのだと聞いたが、日本ではありえないことだろう。

このことは、安重根義士記念館、西大門刑務所跡の展示を見ても感じた。日帝支配の歴史を忘れてならないと、生々しい展示に徹底している。学校でもこのことを教えているという。

なのに、われわれに対しては極めて友好的である。それは今回受け入れてくださった方々ばかりでなく、ホテルの人、レストランの人、おみやげ店の人、みなそのように思う。反日の人はいったいどこにいるの?

韓国人は国家として、日帝を憎んでいる。しかし、その場合の日帝とは為政者のことであり、日本国民一般ではない。そこをきちんと分けて考えている。なんと、心が広いことだろう。

逆の立場の日本人では、ありえないこと。日本が戦後アメリカに7年間軍事占領されていたこと(サンフランシスコ条約締結まで)とは、問題の深さが異なる。

日本は島国であった。しかし、韓国は、過去の歴史においても、周りの大国(中国)から干渉を受け続けた試練、苦難の歴史があり、いまも南北に分断されている。民族としての鍛えられ方が日本とは違うのだ。大人の対応だ。

私は韓国の人たち=反日、というイメージをずっともってきた。私には、過去の日本が与えた強制、迫害、差別への負い目がある。その裏返しと自己分析している。

しかし、今回の旅で、韓国の人たちの本当の心が幾分なりともわかったような気がする。だから、いま日本政府が仕掛けている対立の構図が許せない。

両国の歴史をきちんと学び、知り、真摯に向きあう。これが大事だと思う。知らないことは怖しい。

韓国の人たちは言っていた。いま、両国は対立しているが、私らの友好は深いし永遠であると。その通りだと思う。

いまの対立を早く克服できるよう、私も今回教えてもらった韓国の人たちに思いを、ひろく日本人に伝えていく努力をしたい。(終り)

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国民文化研究所 李鉉盆副会長


文子を追っかけ韓国日記(4)

4日目

金子文子関係のイベントは2日間で終わったので、この日はフリー。翌日の帰国は早朝便なので、残りは実質この日だけ。

私はかねてより、韓国に行くのならば、戦前、日本が支配した痕跡を訪ねたいと思っていた。韓国では、その時代の日本のことを日帝(日本帝国主義)と呼ぶ。

亀田さんと金昌徳さんが案内してくれるというので、最初に安重根義士記念館をお願いした。安重根(アン・ジュン・グン)は1909年10月、満州ハルピン駅頭で伊藤博文をピストルで銃殺した、韓国にとっての英雄である。だから「義士」とされている。(数年前、日本の菅官房長官は彼のことをテロリストと呼んだことは記憶にあたらしい。)

朝9:30、金さんがマイカーでホテルに迎えに来てくれた。記念館はソウルのシンボル南山タワーがある南山公園(丘)の一角にあり、20分で着いた。南山にはかつて日帝がつくった朝鮮神社もあった。

記念館入口には巨大な安重根の像がそびえている。安の書を刻んだ石もあちこちにある。館は2010年立て替えられ、4つの箱がつながったモダンな構造。

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入場無料に驚く。多くの国民が来やすいように。国の位置づけ。入口ホールにも白く大きな像。バックには、同志12人が指を切った血でかいた「大韓独立」の文字。

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安は名門の家に生まれた。教育家で軍人。抗日義兵闘争に参加。その生い立ちから、伊藤銃撃、裁判、31歳で死刑(殉国)にいたる過程が、写真、パネル、人形等で詳細に展示されている。

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一番衝撃的なのは、伊藤を銃殺する場面が再現されているところ。リアルである。

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幸徳秋水は安の「義挙」を讃える漢詩をつくり、安の絵葉書に書き添えた。絵葉書はサンフランシスコの日本人アナキスト(南繁樹ら)がつくったもの。秋水は最後に湯河原で拘束されたさい、カバンの中に、この絵葉書をもっていた。この漢詩を紹介した当時の韓国新聞(2010年)が展示されていた。

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この記念館に来たかったのは、こうした秋水とのつながりがあるからでもある。
秋水の思想は、その後、韓国独立運動家に影響を与えた。朴烈や金子文子にもつながっている。

高校生たちが課外研究で来ていた。私らが日本人であることに興味をもったらしく、なぜここに来たのかと聞かれた。安と秋水との関係を教えてやった。礼儀正しい高校生に感心した。

安は獄中でたくさんの書を残した。秋水が絶筆漢詩を遺したのと同じだ。また、自伝や「東洋平和論」も書いている。これも秋水に似ている。

旅順で行われた安の裁判には高知県人が多くかかわった。検事の溝渕孝雄、弁護士の水野吉太郎など。そうした関係から安の遺墨が高知県に残されていた。いまはこの記念館に寄贈されているときいている。秋水を含め、高知県とのつながりの重さを感ずる。そのあたりのことに詳しい学芸員は不在であった。

次に、西大門(ソデムン)刑務所跡に連れていってもらう。こちらは亀田さんの推薦。途中、車中からソウル駅の旧建物を見る。東京駅にそっくりであり、日帝建造とわかる。

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西大門刑務所は、1908年、日帝がつくった監獄。有料だが、65歳以上は無料。

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安重根は死して英雄になったので、まだ見やすいが、こちらのほうは日本人が見るには心がいたむ。一般囚人も入れられていたが、展示は、日本に弾圧迫害された韓国独立運動家たちのことが中心になっている。

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拷問が行われた部屋、処刑室(ギロチン)、犠牲者の生の写真、女性も多い。亀田さんによれば、政権が変わるごとに微妙に展示が変わるそうだが、もらったパンフにもあるように「韓民族の受難と苦痛を象徴した」、忘れてはいけない歴史として位置付けていることは不変であろう。

日本でいえば、広島の原爆資料館が同じような役割をもっているのだろうが、こちらのほうが、より陰湿であり、苦しい。

この建物は多くの映画やテレビでもロケに使われる。「金子文子と朴烈」の映画にも登場していた。朴烈の仲間が釈放されるシーンで。

このあと仁寺洞(インサドン)入り口で車を降ろしてもらい、金さんとお別れ。仁寺洞は東京の原宿のような通りで、いろんな店があり観光客に人気があるところとか。ここでお茶と軽い食事をする。土産物を買う。

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少女像(慰安婦像)は歩いてすぐ。斜め前が日本大使館。小雨が降ってきたので、少女はレインコートを着ていた。観光客らしきは私らだけで、みんな何も気にせずスイスイ通っていく。一般の韓国人にとっては日常風景なのだろう。

像の隣にテントが張ってあり、中に人がいるようだ。像を守っているのだそうだ。像には影も描かれていた。影のほうがインパクトがある。少女が生きているからだ。

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大きな通りを渡り、景福宮へ。京都の御所、東京の皇居と同じ。中に国立古宮博物館がある。

庭が広い。その中に、韓国伝統衣装をまとった女性が多い。みなレンタルだという。京都でもレンタルの着物を着てブラブラ歩いている若い女性をみかけるが、同じだ。

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博物館は無料。朝鮮王朝時代の展示が中心。日本は中国、朝鮮から文化が入ってきていることから、日本で見るものと、そんなに差はない。しかし、重厚、荘厳ではるかに深みがある。

雨が降ってきた。正面の大通りを歩く。世宗大王、李舜臣将軍(秀吉軍を撃退)の像は迫力がある。王宮を背景に、こんな見事なレイアウトの像は日本にはない。

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仁寺洞に戻り、夕食をとってから、ホテルにタクシーで戻った。(続く)

秋水、文子で日韓交流

7月23日、韓国聞慶市(ムンギョン)で開かれた金子文子追悼式に参加してきた。

きっかけは今年5月、韓国独立運動、アナキズム研究者の金昌徳(キムチャンドク)さんが幸徳秋水を訪ねて四万十市中村に見えたこと。秋水の自由平等思想は韓国独立運動家に影響を与えたという。

在日朝鮮人だった朴烈(パクヨル)とその妻文子は関東大震災の年、東京で弾圧逮捕され、大逆罪で死刑判決を受けた(無期懲役に減刑)。6月、四万十市と高知市で自主上映した韓国映画「金子文子と朴烈」で描かれた通りである。

文子の墓は朴烈の生地聞慶にあり、韓国独立のために闘った日本人として顕彰され、毎年命日、墓前で追悼式が開かれている。昨年、文子は韓国政府から独立有功叙勲も受けた。墓は朴烈義士記念館の敷地内にあり、2人の詳細な展示の中に秋水も紹介されていた。

いま日韓が対立しているように見えるが、それは為政者レベルでのことであり、しかも過剰に報道されている。

今回肌で感じたのは、韓国国民一般は日本に対して友好的であること。過去の歴史に関しても、為政者と国民を分けて考える冷静さと懐の深さをもっている。追悼式、交流会でも大変な歓迎を受けた。

韓国はかけがえのない隣国。日本国民としても冷静対応で、今後も継続的に友好交流を一層深めていくことが大切だと思う。


 高知新聞「声ひろば」投稿
 2019.8.2
高知新聞 日韓交流 2019.8.2

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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