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歴史修正主義 

羽生田文部大臣が国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」に内定していた補助金7800万円を突然交付しないと発表した。異例なことだそうだ。

同祭には企画展「表現の不自由展・その後」も参加していたが、その中に従軍慰安婦をモチーフとした少女像も展示されていたことから、テロ予告や脅迫めいた抗議、いやがらせがあり、中止に追い込まれた経過がある。

補助金不交付の理由は、テロ予告など祭りの円滑な運営を脅かす事態を予想していたにもかかわらず国(文化庁)に申告をしなかったことや、手続きの不備をあげており、展示内容は無関係だと言っている。

これはこれで大問題。政府がテロなのどの妨害に屈したことになるためである。妨害には毅然として臨むのが政府の使命であろうに。

しかし、これが本当の理由ではないことは、私にでもわかる。

本当の理由は、少女像を展示させないため、である。

従軍慰安婦は存在しなかったと、さかんに主張するグループがある。日本会議である。慰安所に強制的に連れていかれたとされる女性たちは、斡旋業者からカネをもらい、了解の上で仕事をしていたのである、と。

確かに一部にそうした女性たちもいたかもしれないが、韓国人当事者の多くの証言があるように強制連行の事実は消せない訳だし、仮にカネが動いたにしても、当時植民地化されていたという背景があり、拒むことのできない事情がはたらいたことは、容易に考えられる。

日本会議グループに一貫しているのは、戦前日本が朝鮮や中国を侵略したという事実を認めないこと。徴用工だって認めない。それは歴史の事実を否定するものであり、歴史修正主義と言われている。

安倍首相は日本会議の有力メンバーである。現閣僚も多くが加入している。今回の措置は、こうした歴史修正主義者の意向を受けたものである。

日本維新の会の歴史観も歴史修正主義である。維新の会の吉村大阪市長(当時)は、友好都市のサンフランシスコに少女像がつくられたことに反発し、長年続いて来た縁組を解消した。なんと、おろかなことかと思う。

私は、今年7月、金子文子追悼式に参加するために初めて韓国に出向いたさい、ソウルの日本大使館前にある少女像を見た。小雨の中、レインコートを着ていた。

写真や映像で何度も見たことはあったが、下の路面に影もつくられていることは初めて知った。そこには白い蝶が舞っている。

悲しそうに、訴えるように、何かをじっと見つめるまなこ。この少女は生きている。その風景はソウルのまちに溶け込んでいた。隣には、見張り番のテントがあった。

少女像のまなこの先には安倍首相がいる。

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白石草 フクシマ

福井県高浜町の元助役(地元をまとめる黒幕・ボス)が関西電力幹部20人に3.2億円のカネを渡していたことが明らかになった。

原発利権にむらがる産・官・政・学の「原子力ムラ」の内幕の一部が露見した。こんなことは以前から指摘されたいたところであり、やっぱりという感じで、いまさら驚かない。

菅官房長官、経産大臣が、言語道断、けしからんと記者会見をしているが、同じ穴(ムラ)のムジナなのに、何を言っているのかと、しらじらしい。

そんな中、フクシマを追及し続けているジャーナリストで、インターネット放送局OurPlanet-TV代表の白石草(はじめ)さんを迎えての講演会「3.11から9年目の福島の子どもたちの健康を考える」が四万十市立中央公民館で開かれた。(主催は脱原発四万十行動)

白石さんは小児甲状腺がんに着目し、ずっと追及している。話もこれに絞られた。

福島県では事故当時18歳以下だった県民38万人を対象に甲状腺エコー検査を実施し、以降も継続的調査が行われているにもかかわらず、その深刻な結果が世の中に隠されている。

たとえば、普通の地域ならばガン発症率は、100万人に1~2人なのに、福島では38万人に200人→100万人換算526人、であった。この数値は、チェルノブイリよりもはるかに高い。

甲状腺がんは潜伏期間が長いのが特徴。最初の検査では問題なくとも、2、3年後や9年目のいまになって発見される者も多い。継続調査の中で、深刻な数値が出てきているし、個別事例(手術で進学、就職断念など)もたくさん出てきている。

しかし、この検査結果の検討委員会(環境省所管、事務局県)は、これらの異常数値を原発事故との関連づけることを、徹底して認めようとはしない。

訳の分からない議論を繰り返す。例えば、異常値が出てくるのは調査方法に問題がある、治療の必要のないガンまで見つけてしまう、県民に無用な不安を与えてしまう、とか。

委員の構成に問題がある。委員は医学関係者中心だが、まともな意見を言う委員はごく少数であり、多数は原発の影響を過少に評価する国の意向に沿った御用学者である。特に、原爆被災地の広島、長崎の委員が問題。

甲状腺がんの権威で、現に多くの手術を執刀しており、深刻な実態を知っている福島県立医科大学の鈴木眞一教授は、数年前からさまざまな圧力で発言が抑えられている。

医大の関係者は、「隠そうとしているわけではないが、いろんなルールがあって言えない」、「本当のことを言うと子どもに迷惑がかかる」など、堅く口を閉ざし、なかなか取材もできない。

福島県内の報道機関も真実を伝えるのはタブーであり、県民世論もそうなっている。がん発症者、手術を受けた者も、まわりを気にして地元では事実を述べようとはしない。(県外に出れば、話してくれる)

福島県外にも大きな影響が出ているはずだが、その実態はわからなくされている。最近でも富士山の麓のキノコが非常に高いベクレル数値が出ている。静岡のお茶も高い。

安倍首相は、フクシマはアンダーコントロールされていると外国に言っているが、とんでもないこと。

来年夏のオリンピックにおいて、韓国は、選手村の食事が危険なので独自で調理する場を別にかまえると言っている。野球会場は福島県なので、野球チームは出場辞退するかもしれない。

この問題を、日本政府は「嫌韓」をあおるために、けしからんと言っているが、筋違いである。

原発汚染水の投棄が検討されているようだが、これの地ならしのために、いつの間にかマスコミは「汚染水」を「処理水」と報道している。

また、うず高く袋に積まれ、野ざらしにされている汚染土や草・枯葉は、全国の公共事業の工事現場に運ばれ、一般の土に混ぜ込められて道路、公園のブロック、壁などに使うことが検討されている。

このようにして原発汚染はさらに全国に、世界に拡散されようとしている。

甲状腺がんの問題も、潜伏期間を過ぎ、これからさらに大きな問題になってくるのに。

フクシマから9年目、日本人ははや忘れようとしている、いや忘れさせられようとしている。

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四万十川メガソーラー計画の背景(3)

その後の動きと、新たな情報について書きたい。

9月20日、四万十市議会において、メガソーラー建設を許可しないことを求める「意見書」が賛成多数で採択された。

これは当然のことであると思っていたが、議員の態度は「採択」10人、「主旨採択」9人と僅差であった。「主旨採択」とは実質的には門前払いのことであり、「許可やむなし」とする市長の方針を支持するもの。

「意見書」は市長を拘束するものではないが、無視はできないだろう。一定の歯止めにはなるであろうが、安心、油断はできない。

私は、市長が「許可やむなし」とする背景には、地権者(中村生コン=豚座建設グループ)への「配慮」があると書いた。現に地権者が用地を貸さなければ本事業は即頓挫するのに、いまだそうなっていない。地権者は遊休原野を活用したいのだろう。

だが、もう一つ考えなければならないのは、本件への県の対応経過である。

四万十川条例は橋本大二郎知事時代の2001年、県が策定をしたもの。以降、許可権限はずっと県がもっていた。所管は、林業振興・環境部の中の環境共生課である。しかし、2015年度から県はその権限を市町村に移譲した。

本件業者が最初に計画をつくりアプローチしてきたのはいつか詳しくはわからないが、最初の段階では県が対応をしていたようだ。県は四万十川条例を盾に、クリアーすべき条件を示し、その時点では許可はむずかしいというような判断を伝えていた。

その後、市に権限を移し、2016年8月、最初の申し入れを不許可決定したさいは、市長からその旨を相手に伝えている。その際は、県から市に対して、不許可にすべきであるというようなプッシュ、応援があったという。

その後、2018年2月、2回目の申し込みのさいは、比較的簡単に相手が引き下がったようだ。

そして、同月27日公示で、県は四万十川条例の許可基準の中で、許可が必要な工作物に「太陽光発電施設」を加え、併せて、景観保全のために「遮蔽」を義務付けた。

問題は、この時点で業者と県でどのようなやりとりがあったのか、ということ。仮に「あとは遮蔽さえしてくれれば、大丈夫でしょう」というような言質を与えたのではないか、ということ。

というのも、今回、業者はこれまでの交渉経過を細かく記録しており、それを市に示し、求められた条件はすべてクリアーしたと、強気のようだ。

同行弁護士は、これで認められないなら、市に対して損害賠償を求める裁判をおこす、許可されることを前提に一定の設備を先行投資しているからだ、という。さらに、許可されれば配電で得たであろう20年間分の利益(得べかりし利益)を補填すべきだとも。

こうした要求に対し、市はギリギリの判断を求められている。

私は、先にも書いたように、遮蔽そのものは、実現不可能だと思う。しかし、それは書類上の審査だから、形式条件を満たしているとして、許可せざるをえない、と市は判断しているようだ。

やはり、問題は県が「遮蔽」を追加したさい、相手にどう言ったのかということだが、いまはその担当課長は異動していないそうだ。(また、市側の担当者も交代しており、双方の意思疎通がうまくいっていなかったともいえる。)

それと、いまさらながらではあるが、県はどうして許可権限を市町村に移譲してしまったのだろうか。四万十川流域は広域にまたがるのだから、1市町村で判断できない問題も多いだろうに。そもそも条例は県がつくったのだから、県が最後まで責任をもつべきとも言える。

そうした経過があるからだろう。今回、私が県の担当者に照会をしても、「市の判断ですから」とつれない。いかにも責任回避に走っているようで、疑念は増す。

このことはきょう(26日)から始まった県議会質問で、2人の議員(石井孝、吉良富彦)が県の姿勢を質した。

しかし、知事も部長も、「四万十川条例の趣旨に沿うような結果になるように市に助言をしています」、「業者には早く説明会を開き、住民の合意を得るよう要請している」、と他人事のような答弁で逃げているのがありあり。県の熱意が伝わってこない。実際は助言なんてしていない。市に丸投げしているのに。

これでは、国政転進のため11月でやめる尾﨑知事にとって、最後に負の遺産を残すことになるのではないか。知事は、そのことがわかっていない。

こんな県では、頼りにならない。

あとは、市がどう判断するかだ。訴訟はたぶん脅しだろうが、私は訴訟覚悟で不許可にすればいいと思う。訴訟になれば争えばいい。

世論は全員こちらの味方だからだ。遮蔽なんてできないことははっきりしている計画書は意味をなさない。裁判所だって、そんなことわかるだろう。

万万が一、敗訴してもカネで四万十川を守れるのなら、私も市民も世論も、納得する。四万十川の自然がなくなれば、いくらカネをはらったとしても戻ってこないのだから。四万十川にはそれだけの価値がある。

中平市長は、地権者への「配慮」ではないというのなら、そんな大所高所から決断すべきである。

四万十川メガソーラー計画の背景(2)

今回計画の中身を検討したい。

9月13日佐田、14日三里と、地元2カ所で市が(業者ではない)事業説明会を開いた。この席で配布された資料にもとづく。

業者から市に対して最初の申し込み打診があったのは、今年3月29日で、2回目が5月9日。2回目には弁護士を連れてきている。以降、7月まで、両者で協議、すり合わせがおこなわれている。

肝心の業者名が資料に書かれていないが、説明会の口頭で、「三里太陽光発電合同会社」、「島の宮太陽光発電合同会社」の2社の名前が出た。しかし、どんな会社か詳しくは公開されていない。(ほかに、コンサル業の太陽光企画開発(株)が関与している。こちらは本社東京新橋、資本金300万円、従業員3人)

前回申し込んできた(株)新昭和(千葉県君津市、資本金10億円、グループ従業員1100人)の名前はない。今回完全撤退したのか、バックにいるのか実態不明。いずれにせよ、今回の2社はペーパーカンパニーであり、その裏に本命がいるものと思われる。

なぜ、市はこれらのことを明らかにせず隠すのか、不自然である。

配布資料は3セットで、本文8枚、資料編1(勧告)7枚、資料編2(不許可通知)4枚に分かれている。

まず、本文2ページに、計画概要図が書かれている。中村生コンが所有する土地の面積は8.3ヘクタールだが、本事業に使う面積は4,0ヘクタールであり、かつ「三里太陽光発電所」(2.7ヘクタール)と「島の宮太陽光発電所」(1.3ヘクタール)に分かれている。事業者名も同名の2社があがっている。

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なぜ2社に分けたのか理由は不明であるが、配電容量などによる法的規制等があるのかもしれない。(市からの説明はない)

以下、本文では、過去2回の申請において不許可にした理由(景観阻害、盛土、反射光など)を説明したあと、今回申請ではこれらがクリアーされたとしている。

1. 景観阻害 → 遮蔽する。
2. 盛土 → おこなわない。パネルの足を高くする。
3. 反射光 → 低反射のメーカーのものを使う。

問題は1.である。パネルの周りに木や竹を植えて見えなくするという。

川の対岸に県道が走っているので、そこから見えなくするために16メートルの木や竹を植え、隠すという。

計画書では、竹342本、高木1012本(シイ、カシ、クスノキ)、中木1806本(カシ、ヤブ、ニッケイなど)、低木1491本(ウツギ、マルバなど)、計4651本となっている。

計画図面ではこの通り。

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市が言う「遮蔽」の根拠は、四万十川条例(高知県四万十川の保全及び流域の振興に関する基本条例、2001年3月27日高知県制定)の「施行規則」の中の「許可制度」。

その4章「許可の基準(生態系と景観の保全)」、3-2「工作物の新築、増築、改築、移転又は撤去」の中の「景観の保全⑤太陽光発電施設の遮蔽」に、こう定められている。

「行為地が主要な眺望場所から見えるものにあっては、行為地の出入り口を限定し、当該出入り口以外の行為地の範囲は、周辺の景観と調和するよう植栽又は木柵等により遮蔽措置を講ずること」。

「太陽光発電施設について、その特性上、周辺の景観への影響が大きいことから、施設が直接主要な眺望場所から見えないような、遮蔽措置を行う。主要な眺望場所は、県内外から訪れる観光客の視点や地域住民の生活の豊かさを確保することから観光資源となっている四万十川の本川と本川沿いの道路とした。」

以上は、高知県ホームページトップ画面 →組織から探す →林業振興・環境部の「環境共生課」 →左欄「その他」上から2段目「高知県四万十川の保全及び流域の振興に関する基本条例施行規則(平成13年高知県規則第16号)の一部改正について」 →8.許可申請書様式 「四万十川条例における重点地域の許可制度」 の下段、「許可制度の概要に加えて許可基準やQ&Aなど申請者向けの「重点地域における許可制度の手引き」(平成30年3月発行)、分割ダウンロード第4章許可の基準(生態系と環境の保全)」 (70~72ページ)へとアクセスできます。

http://www.pref.kochi.lg.jp/soshiki/030701/2018kisokukaisei.html

確かに「遮蔽」すれば許可する、と書いている。しかし、県の「手引き」でも見本として示されている写真は個人の家の庭の遮蔽の板塀や生垣である。

今回問題なのは、果たしてこれだけの広い面積の遮蔽が可能なのか? ということ。計画書では竹や木で隠すと言う。

しかし、計画書にある4651本の根拠は?
それだけ多くの木や竹の調達が可能なのか?

また、高さ16メートルが必要と試算しているが、そんなに高い木や竹が直ぐに根付くのか。

これについては、市は「わからない」、「造園業者にも問合せていない」、という。無責任。

常識的に考えて、そんな背の高い木や竹が直ぐに根付くことは考えられない。公園に大木を移植するさいは、何年も前から根の周りを掘り、縄で縛るなどして、木に慣れさせる準備する(「根回し」)。また、枝も払っておくので、移植後、枝が再び伸び、元の高さに戻るには、時間がかかる。

だから、仮に移植を試みるにしても、根が付くかどうかを確かめてから、本格工事に着工すべきであろう。

しかし、市は、移植と工事を同時並行的に進めることを認めるという。もし、根付かず、遮蔽が実現しなければ、「指導する」と言う。

このことについて県の四万十川条例を制定した所管、環境共生課に指摘したところ、「許可の判断は市町村に委譲しているので、市の判断です」と言う。所管として、これも無責任に思う。

私は移植そのものが問題だと思っている。根付かない木、仮に少し根付いたにしても、そんな根本軟弱な木が川べりにあれば、洪水のさい簡単に倒れ、流されてしまう。すぐ近くに佐田沈下橋があることもあり、川をせき止め、流れを変え、甚大な被害(人災)になる。

「遮蔽」については、小さい面積ならば可能だろうが、今回のような広大な面積で、しかも対岸の高い位置に県道が走っている場所では不可能である、と断言できる。

それと「四万十川条例」の基本理念、目的である「景観の保全」でいえば、いまの時代、ドローンを飛ばせば、パネルは丸見えである。そんな写真を見れば、みんな失望してしまい、誰も四万十川に来なくなるであろう。(許可基準にはドローンまでは想定されていない。風力発電問題もあり、早急に追加改定が必要であろう。)

四万十川にメガソーラーをつくって誰が喜ぶのか。業者と地権者だけである。

四万十市にとって、どんなメリットがあるのか。業者からわずかな税金が入ってくるだけである。それに比べて失うものはあまりに大きい。四万十市だけでなく、日本、世界にとって。

市側は言う。条例を満たしているのに許可を出さないと、業者から提訴されるリスクがあると。業者に同行した弁護士から、そう脅されたようだ。

しかし、訴訟リスクなら逆である。こんな荒唐無稽、絵に書いた餅のような計画で許可を出したら、許可差し止め→取り消し訴訟を受けるであろう。

要は「遮蔽」の解釈である。実現可能性のない計画ならば「遮蔽」とは言えないであろう。仮に申請を受け付けるにしても、「遮蔽ができるかどうか」「木や竹が根付くかどうか」を確認してから判断すべきであろう。

そもそも、業者が本気で「遮蔽」をする気があるのか、大いに疑問である。5000本近い木を捜し、車に乗せ運び、穴を掘り、植え付ける。そのためには、膨大な人とカネがかかる。これらはパネル設置コストに上乗せされる。普通、太陽光パネルは、空き地や屋根の上など、場所代がかからないところに設置されるのに、事業の採算が合わないはずである。経済合理性からみて、こんな計画は成立しない。なによりも、この辺には、それだけの大規模作業がおこなえる造園業者がいない。

説明資料では驚くべきことも書いているし、説明会でも言っている。

国の資源エネルギー庁が出している「事業計画策定ガイドライン(太陽光発電)」においては、地域住民の理解を得られるよう努めることと書いているが、これは「推奨事項」であり、義務とはされていない。

四万十市の「行政手続条例」においても、「指導」とは「相手方の任意の協力によってのみ実現されるものである」「相手方が行政指導に従わなかったことを理由として、不利益な指導をしてはならない」、と。

要は、今回「遮蔽」が出来なかったら、「行政指導」するが、それを相手に強制することはできない、とご丁寧にも言っているのである。

計画書に書いてさえすれば、その実現は問わないということを、最初から表明している。実質、相手のフリーハンドを認めているのである。勝手にどうぞという訳だ。

また、業者には許可が出てから説明に来させるとも。市はどちらの立場に立っているのか。

四万十市は「川とともに生きるまち」を看板にしているのではなかったのか?

なぜ、そこまでしてまで?

異常な圧力が市にかかっている。

結局、地権者に「配慮」しているから、こうなるのだ。それしか考えられない。
(ひとまず終り)

四万十川メガソーラー計画の背景(1)

また四万十川メガソーラー計画が表に出た。3回目だが、場所は同じ。過去2回はずさんな計画だったため、さすがの行政(四万十市)も「四万十川条例」を盾に許可を出さなかった。

しかし、今回業者は作戦を変えてきた。水面下で、事前に行政側とすり合わせ。今回計画案は、両者による合作のようなもので、これでいけると踏んだところで行政が公表、「条例をクリアーするのなら認めざるをえない」と前向きである。

市の説明では、今回は認めてやりたいと言う本音がアリアリ。舞台裏を見れば、この配慮は計画用地の地権者(地主)への配慮であることは明らか。

今回計画の詳細と、その問題点については、次回(2)以降で書くことにするが、本問題の核心である当該用地にかかる過去からの経緯について、説明をしたい。

計画用地は四万十市三里の島の宮地区。四万十川河口から約18キロ地点で、最下流の佐田沈下橋と三里沈下橋の間。川が左に大きく蛇行し、右岸に大きな河原を形成している。

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島の宮地区住民は現在5戸だけだが、過去多い時でも15戸ほどの小さい集落である。元来、半農半漁(川漁)で暮らしてきた。目の前にある河原では、アユの地引網漁も行なわれたぐらい、アユや鯉がよくとれた。(尾﨑正直・現高知県知事の祖父母=加用家もかつてあり、母はここで生まれた。)

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今回計画の8.3ヘクタールの用地は、大部分は畑として利用されてきたが、石や砂が多いことからイモや麦ぐらいしか作れなかった。

そこに目を付けたのが地元の土建会社豚座(いのこざ)建設。グループ子会社の中村生コンが昭和42年頃、協力者を通して「牧草地にしたい」と買収を進めた。地元民は、どうせ荒地だからと手放した。

売ってしまった後で、目的が川砂利採りであるとわかったが、どうしようもない。中村生コンは重機を投入、河原との縁には風情のある松林が広がっていたが、それもなぎ倒し、砂利を掘り尽くし、ダンプで運んだ。佐田沈下橋を通って。

住民は当初と話が違うことから、低くなった土地の高さを元に戻すよう要求。中村生コンは近くの山を削り、その土で埋め戻した。産業廃棄物も埋め込んだともいう。

この砂利採掘は豚座建設グループに大きな利益をもたらし、同グループが大きく成長するステップになった。

話はこれで終わらない。山の土を削ったら、岩盤が出てきた。このことが次の事業展開、砕石事業につながった。

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他社(計5社)と組んで幡多砕石協同組合をつくり、川の対岸(左岸)で本格的な砕石事業に乗り出した。現在、三里沈下橋のすぐ上で山を削り、岩を砕いている。川沿いの狭い県道をダンプがひっきりなしに通る。怖い目にあっている人は多いだろう。雨が降れば、採石場から泥の粒子が川に流れ込んでいる。

川砂利をとったあと埋め戻された広大な用地は、住民も希望し、一時親水公園をつくる計画もあった。しかし、頓挫。あとは放置された。

そのうち、昭和50年代後半から、四万十川は「最後の清流」として有名になった。いままで地元の人間しかいなかった川に続々と観光客が押し寄せて来た。観光屋形船が目の前を行き交う。カラフルなカヌーも。

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跡地はいつしか原野に戻り、四万十川の自然の中に溶け込んだ。しかし、地主としては、ありがたくない。そんな風景は一銭の金も生まない。この用地を利活用し、何かの事業に結び付けたい。

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2011年、福島原発事故以降、太陽光発電が注目されるようになった。これならいける。発電業者に土地を貸せば、安定した地代が入ってくる。四万十川でカネになる3匹目の「どじょう」を狙った。

3年前から、計画を進めてきた。そして今回である。

豚座建設といえば、数ある市内地元土木建設会社の中でも最大規模。公共事業も数多く受注し、四万十市との関係も深い。市長との関係も深い。

今回の四万十川メガソーラー計画の問題の核心はここにある。(続く)

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小野道一(3)

3. 再び上京、不遇の晩年

財産のすべてを失った道一は家族を連れて再び上京。旧友杉浦重剛らの経営する日本新聞に職を得た。日本新聞の社主は陸羯南であったが、杉浦は設立メンバーの一人であり、大学南校同窓であった。

当時秋水は独身で中江兆民の書生をやりながら国民英学会へ通学していたので、神楽坂の小野借家に同居することになった。

戦後、岡崎輝が書いた「従兄秋水の思出」によれば、道一と秋水は「党派は違ふけれども心安くしてゐた」が、秋水の軟文学好きに対して堅い学問をしてきた道一は「汝は極道ぢや」と叱った。秋水の生活態度には厳しかったようだ。

明治二十四年、道一は日本新聞をやめ、金沢郵便局長になる。逓信大臣となった後藤象二郎の推薦によるものであった。前年娘の輝がジフテリアにかかり回復が遅れていたことから、単身での赴任となった。

しかし、道一はその年十一月腸チフスの大患に。妻英は娘二人(武良、輝)を連れてかけつけ、そのまま二年間金沢に残った。その後、東京に戻り、麻布市兵衛町の借家で再び秋水と同居。しかし、道一の体調は戻らず家で療養、家計は英が女子塾を開き支えた。

そして、輝「小野英子年譜」によれば、明治二十八年八月、道一は病気療生のため伊田の小野家に嫁いでいた妹仲のもとへ帰る途次「急死」とある。

輝「従兄秋水の思出」では、「其年八月、私たちの父が極めて不遇の中に急死した」とある。いずれも死因など詳しい状況は書いておらず不自然である。

これについては、輝の孫の岡崎悦明氏(豊中市在住)によれば、道一は神戸摩耶山麓で縊死したのだという。神戸から高知行の船に乗るつもりだったのだろうが。

輝は晩年、豊中から摩耶山の方角を見ると涙が出ると言って悲しそうにしていたという。道一戸籍を確認してもらうと「明治廿八年九月廿五日 兵庫縣於死亡ス」と書かれていた。(九月は死亡確認日か)

自殺記事が当時の新聞に出ているかと調べたが、神戸の新聞には出ていなかった。高知の当時の新聞は戦災で焼け、残っていなかった。

伯父道一の自殺は秋水にとって衝撃であった。秋水は後の明治三十七年平民新聞に書いた「予は如何にして社會主義者となりし乎」の中で、その理由に自分の境遇と読書(学問)をあげ、境遇の一つに「維新後一家親戚の家動衰ふるを見て同情に堪へざりし事」をあげている。岡崎輝は、これは道一の死のことであると書いている。

道一は当時「かっけ」にかかっていたという話が伝わっている。病気と生活困窮を苦に自ら命を絶ったことが考えられるが、それだけが原因なのだろうか。ほかにも追い込まれていた何かがあったのではないか。秋水はそこに社会の不義、矛盾のようなものを見たのではなかったのか。 

私はそんな道一に対し、同じ事情で中村を出て東京にいた兄桑原戒平はなぜ手を差し伸べなかったのか、兄弟間で行き来がなかったのではないかと推測をし、そのことを本誌五号に書いた。しかし、その後桑原家に残る古い写真の中に家族同士の交流を示すものが出てきたことから安堵した。 

それでも道一を救えなかったのは、当時兄は小笠原島司として東京を離れていたというような事情もあったのではないかとも思ったりする。

道一の妻英は周りからの援助の手(谷干城など)を断り、娘二人を連れ千葉館山で教員になり自立。後に日露戦勝記念として中村に最初にできた幼稚園の初代園長として迎えられ、故郷に帰ってきたことは本誌三号に書いた。

道一の死後、小野別家に嫁いでいた長女達の三男行守を次女武良の養子として籍に入れ、家を継がせた。

秋水は明治三十九年、最後の里帰りをし、クロポトキンの「麺麭の略取」を翻訳したさい、当時中学生であった行守に筆記の手伝いをさせた。この話を上林暁が聞いて、小説「柳の葉よりも小さな町」に書いている。

行守は陸軍士官学校出。京都帝大、英国留学を経て兵器工学の権威となった。満州関東軍少将の時、牡丹江でソ連に抑留され、昭和二十二年八月、ハバロフスクで病死した(五十五歳)。その子孫はいま関東方面にいると聞く。
 
小野雲了以下一族の墓は羽生山にあったが、のちに太平寺に移された。しかし、いまは撤去され跡形もない。(終り)


参考文献 文中紹介以外に、上岡正五郎著・小野俊作編『小野家一族之系譜』(私家本、昭和五十八年)


「文芸はた」6号
2019年7月発行

小野道一(2)

2.幡多郡長から県議会議長

幸徳秋水は明治四年生れだから当時八歳。神風連の乱の翌年、安岡良亮の遺族が中村に戻り、一歳下の良亮の次男秀夫らと遊ぶ中で東京からの新文化を吸収し、自由、民権思想が芽生えたとされている。  

それはそれで間違いではないと思うが、当時の中村は幕末勤王運動の流れを継ぐ保守勢力の牙城であった。一條神社建立(文久二年)や廃仏毀釈横行にそれが表れている。

こうした勢力は新政府のやり方に不満であり、西郷軍に呼応しようした。しかし、政府側に察知、懐柔され、妥協、服従。行余社という結社(藩校「行余館」に由来)をつくっていた。さらに類似の修道社もでき、両社は明治十五年合併し明道会となった。

明道会会長は長老の宮崎嘉道。下の幹部の名に桑原政馬、桑原平八、小野道一があるように、こうした勢力の中心に桑原一族がおり、道一もその一人であった。

廃藩置県後最初につくられた地方制度の区制(幡多三十三区)において中村の初代区長(戸長)は桑原義厚(道一の実父)であり、郡制に移行後の幡多郡長は初代桑原平八、二代桑原戒平、三代小野道一と、桑原が独占している。

この勢いに乗って、道一は県議会議員を四期十年(明治十三~二十三年)、第十代議長(同二十一~二十三年)も務めている。

この十年間が道一の「華の時代」であった。この頃、自由民権運動が興り、県議会でも民権派(自由党)と帝政派(国民党)が対立、抗争。道一は幡多だけではなく県を代表する帝政派領袖であり、いたるところで演説、講演などに登場。明治二十二年、東京で開かれた帝国憲法発布式典には県議会議長として参列している。

後藤象二郎が提唱した大同団結運動にも関与しているのは、安岡良亮の長男でいとこになる雄吉が同運動の幹部であったので、誘われたのではないかと思う。

この間、道一は谷干城(初代農商務大臣、のち貴族院議員)とは常に密着した関係にあり、高知県における連絡窓口の役割を果たしており、一時は国会議員候補として名前があがるほどであった。

しかし、道一の政治生命は県議会議員を辞職に追い込まれたことで終わる。理由は、県からの借入金の返済ができなかったためである。

この問題には兄の桑原戒平が絡んでいる。戒平は政治家よりも実業家向きであった。幡多郡長を道一に譲ったあとは、同族などから資金を募り、同求社(事業会社組織)を立ち上げた。

本社は大阪、分社は高知と中村(事務所は幸徳家の俵屋)。土佐藩貨幣局等の事業の払い下げを受け、樟脳生産、運輸(大阪高知航路開発)、鉱山(田ノ口銅山)などに手を広げた。

道一もこの事業に協力したのだが、単に資金を提供しただけではなく、江川村(旧西土佐村)のアンチモニー鉱山開発は自らが主導している記録があるので、政治家をやりながら事業にも深くかかわっていたことがうかがえる。戒平とは一蓮托生であったようだ。(松岡司「高知県帝政派の研究」『青山文庫紀要』五~十三号所収)

道一はこれの事業のために「県有財産育児慈恵資金」を借りた。資金使途に問題はなかったが、事業が行き詰り、返済不能になったことから、議会民権派から格好の攻撃材料にされた。

議長職は先に交代していたが、ついに明治二十三年十二月、議員も辞職した。(この間、長男新を病気で失う。)

続く

「文芸はた」6号
2019年7月発行
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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