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小野道一(2)

2.幡多郡長から県議会議長

幸徳秋水は明治四年生れだから当時八歳。神風連の乱の翌年、安岡良亮の遺族が中村に戻り、一歳下の良亮の次男秀夫らと遊ぶ中で東京からの新文化を吸収し、自由、民権思想が芽生えたとされている。  

それはそれで間違いではないと思うが、当時の中村は幕末勤王運動の流れを継ぐ保守勢力の牙城であった。一條神社建立(文久二年)や廃仏毀釈横行にそれが表れている。

こうした勢力は新政府のやり方に不満であり、西郷軍に呼応しようした。しかし、政府側に察知、懐柔され、妥協、服従。行余社という結社(藩校「行余館」に由来)をつくっていた。さらに類似の修道社もでき、両社は明治十五年合併し明道会となった。

明道会会長は長老の宮崎嘉道。下の幹部の名に桑原政馬、桑原平八、小野道一があるように、こうした勢力の中心に桑原一族がおり、道一もその一人であった。

廃藩置県後最初につくられた地方制度の区制(幡多三十三区)において中村の初代区長(戸長)は桑原義厚(道一の実父)であり、郡制に移行後の幡多郡長は初代桑原平八、二代桑原戒平、三代小野道一と、桑原が独占している。

この勢いに乗って、道一は県議会議員を四期十年(明治十三~二十三年)、第十代議長(同二十一~二十三年)も務めている。

この十年間が道一の「華の時代」であった。この頃、自由民権運動が興り、県議会でも民権派(自由党)と帝政派(国民党)が対立、抗争。道一は幡多だけではなく県を代表する帝政派領袖であり、いたるところで演説、講演などに登場。明治二十二年、東京で開かれた帝国憲法発布式典には県議会議長として参列している。

後藤象二郎が提唱した大同団結運動にも関与しているのは、安岡良亮の長男でいとこになる雄吉が同運動の幹部であったので、誘われたのではないかと思う。

この間、道一は谷干城(初代農商務大臣、のち貴族院議員)とは常に密着した関係にあり、高知県における連絡窓口の役割を果たしており、一時は国会議員候補として名前があがるほどであった。

しかし、道一の政治生命は県議会議員を辞職に追い込まれたことで終わる。理由は、県からの借入金の返済ができなかったためである。

この問題には兄の桑原戒平が絡んでいる。戒平は政治家よりも実業家向きであった。幡多郡長を道一に譲ったあとは、同族などから資金を募り、同求社(事業会社組織)を立ち上げた。

本社は大阪、分社は高知と中村(事務所は幸徳家の俵屋)。土佐藩貨幣局等の事業の払い下げを受け、樟脳生産、運輸(大阪高知航路開発)、鉱山(田ノ口銅山)などに手を広げた。

道一もこの事業に協力したのだが、単に資金を提供しただけではなく、江川村(旧西土佐村)のアンチモニー鉱山開発は自らが主導している記録があるので、政治家をやりながら事業にも深くかかわっていたことがうかがえる。戒平とは一蓮托生であったようだ。(松岡司「高知県帝政派の研究」『青山文庫紀要』五~十三号所収)

道一はこれの事業のために「県有財産育児慈恵資金」を借りた。資金使途に問題はなかったが、事業が行き詰り、返済不能になったことから、議会民権派から格好の攻撃材料にされた。

議長職は先に交代していたが、ついに明治二十三年十二月、議員も辞職した。(この間、長男新を病気で失う。)

続く

「文芸はた」6号
2019年7月発行
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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