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秋水を生んだ風土と人々(6) 安岡雄吉、秀夫

6. 安岡雄吉、秀夫

秋水の生涯を振り返ってみると、同族親戚の出世頭だった熊本県令安岡良亮の死は、当時五歳の伝次郎最初の運命の分かれ道であった。

一つは、良亮は熊本に桑原戒平など同族、同郷人を多く引き連れて行っていたように、将来は秋水も官への道が開けていたであろうにということ。二つは、良亮家族や戒平、小野道一(東京)らが次々に中村に帰って来たこと、である。(桑原、小野について次号以降に書く)

良亮長男の雄吉は慶應義塾に入っていたので東京に残り、妻千賀と下の子どもたちが良亮の部下であった尾崎行正に伴われた。行正は妻と行雄の弟二人を連れしばらく安岡家に同居している。

こうした親戚には秋水と同年代の子どもがたくさんいた。都会帰りのハイカラな子どもたちは安岡家に集まり、秋水も加わり一緒に遊んだ。

安岡良亮の三男に秋水より一歳下の秀夫がいた。秀夫のもとには東京の兄雄吉から、当時田舎にはない珍しい絵本や雑誌が送られてきた。「絵入自由新聞」「団々珍聞」など。

水はこれらを読んで触発された。秋水が中心になって、こども新聞をつくったり、「自由」とか「民権」とか書いたのぼりを手に町を歩いた。早熟な民権少年、自由党かぶれはこうして培養された。

安岡秀夫は、秋水死後の回想記「雲のかげ」にこうしたことを書いている。木戸明の漢学塾にも一緒に通ったが、秋水にはかなわなかったということも。

秀夫はのちに秋水と同じようにジャーナリズム界に入り、福沢諭吉主宰の新聞社時事新報で論説主筆を務めた。しかし、秋水とは対照的に穏健体制派の記者であった。

この違いは安岡雄吉も同じであった。雄吉は官に入ったが、良亮長男であることを看板に政界に転じる。後藤象二郎提唱の大同団結運動に参加、挫折したあと、明治二五年、第二回帝国議会選挙高知二区(幡多郡、高岡郡)に帝政派(国民党)から出馬したが、林有造、片岡健吉の民権派(自由党)に敗れた。(十二年後一回当選)

思想、党派は異なったが、東京においても秋水と雄吉、秀夫の親戚としてのつきあい、交流はずっと続いた。

雄吉は学者肌であり、二度洋行留学。英国ではマルクスも勉強、帰国後、秋水、秀夫を呼んでマルクス主義は日本には合わないと説いた。秀夫は秋水処刑後の骨を拾った。

その後、中村の安岡家はどうなったか。安岡良亮は長男であったが家を出たので、中村の安岡家を継いだのは弟良哲(よしやす)であった。良哲妻は秋水母の妹、嘉弥子。良哲は幡多に初めて養蚕業を導入、郷土の殖産事業に功を残した。

良哲の長男友衛は医者になった。友衛は東京に遊学中、従兄の秋水は最初の結婚をするも、すぐに離縁。相手(西村ルイ)を福島郡山に送り届けるという尻拭いをさせられている。友衛は中村で医師として秋水母の最期に立ち会う。

墓は良亮熊本、雄吉藤沢、秀夫東京多磨霊園。良哲、友衛は中村羽生山だが、現直系子孫は地元にはいない。(続く)

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安岡雄吉 後列左        安岡秀夫

週間 高知民報連載(全12回)  2019.8.25

秋水を生んだ風土と人々(5)安岡良亮

5.安岡良亮

秋水の母多治の実家小野家は代々山路村庄屋を務め、名字帯刀を許された士族格の名門であった。父雲了(亮輔)は三男のため中村に出て医師になっていた。

小野家は同格の他の庄屋や郷士たちと「ひきつりひっぱりあって」(幡多弁で親戚つながりの意味)いた。その代表格が安岡家であった。

安岡家の祖は中村藩(藩主山内康豊=一豊の弟)の重臣であったが、元禄二年、中村藩改易後は禄を失い、間崎村に移り、郷士になった。

雲了の姉菊は、その後中村に戻っていた安岡良輝(故五郎)に嫁いだ。二人の長男が良亮で、多治の従兄になる。

安岡良亮は樋口真吉らと遠近鶴鳴(町人学者)の塾で学問を学び、幕末幡多勤王運動のリーダーとなった。維新東征には迅衝隊(隊長板垣退助)の第二小隊半隊長として参加、小軍監に抜擢された。千葉流山で捕らえた新選組近藤勇に、谷干城と斬首を命じたことは有名。

良亮は新政府に仕えるため明治二年、家族を引き連れ上京。

弾正台大忠、集議判官、民部少丞から高崎県(群馬)参事、度會県(三重)参事、さらに白川県権令、白川県が熊本県に改まってからの初代県令(知事)となった。

これらの県はいずれも廃藩置県後、政情不安で難治の県とされていたところであり、良亮の人心掌握力を買った大久保利通の任命であった。

良亮には忠実な部下がいた。迅衝隊が甲府進軍のさい現地で馳せ参じて来た尾崎行正で、以後高知県士族となり、良亮に影のようについて来た。東京駿河台の屋敷では離れに同居、その子尾崎行雄(咢堂)は良亮から直々に学問を教わった。行雄はのちに「憲政の神様」と言われた。

熊本では不平士族の敬神党(神風連)が暴発寸前であった。良亮は硬軟両用の融和策を使い効果をあげていた。しかし、廃刀令が出たことでこれを抑えきれず、ついに明治九年十月、斬り込みに遭い命を落とした。

翌年には鹿児島の西郷隆盛も立ったが(西南戦争)、谷干城は熊本城(鎮台)を死守し、英雄となった。迅衝隊の盟友二人の運命は熊本で分かれた。

旧大方町出身のタカクラ・テルに「幸徳秋水の墓に詣づるの記」という小文がある。「小生幼児母より寝物語に聞き申し候安岡熊本縣令惨殺の物語に関してにて御座候。母はその物語の終りに常に申し候ひき。此の安岡懸令の妹(注・従妹の誤り)こそは秋水の母なる人なり」、母は秋水母の遠縁であったと聞いている、と。幸徳富治(駒太郎長男)にも同じようなことを書いた手記(「伯父幸徳秋水」)がある。

テル(高倉)の母美弥(吉田)と秋水母多治の関係については判然としないが、美弥の母智恵が間崎姓であり、間崎姓の本家は安岡家と同じ間崎村の庄屋であったことからではないかと推測される。

神風連の乱当時秋水は五歳。後に中村の出世頭は良亮であったと残念がっていたと、師岡千代子が書いているように、良亮の死は同族親戚に衝撃を与えた。(続く)

安岡良亮


週刊 高知民報連載(全12回) 2019.8.11

秋水を生んだ風土と人々(4)商家・俵屋

4.商家・俵屋

幸徳家のルーツは京都。安倍清明の流れを受けた陰陽師であったとされ幸徳井(かでい)と称し、のちに大阪に出て幸徳になり、医業を営んでいた。

五代篤興(梅林)の長男篤胤は薬の扱いを通じた人脈があったのであろう。享保年間(年次不詳)、土佐中村の薬種問屋俵屋に誘われ、堺から渡った。

俵屋は一條家時代から続く中村土着の有力商人。篤胤は俵屋の暖簾を継ぎ、俵屋嘉平治を名乗るようになり、中村幸徳家の初代となった。

中村三代目嘉平治(篤親)には息子が二人。長男篤道は役人志向が強かったことから、次男篤明(秋水の父)が俵屋を継ぎ四代目嘉平治となった。

篤道には子がなかった。弟篤明夫婦からもらう約束ができていたので、篤明の長男亀治を養子にした。

伝次郎は次男であったが、そんなことで、生まれた時から、五代目嘉平治を継ぐ運命にあった。ところが秋水二歳の時、父が病死。母多治は三十代にして寡婦、母子家庭になったので、伯父の篤道夫婦が俵屋に戻り、差配するようになった。篤道は伝次郎の父親代わり、後見人に。幸徳家は一つ屋根の下に二家族が住むという、複雑な家となった。

さらに、篤道は役人時代(久保川村庄屋)に目をかけていた農家の三男長尾駒太郎を下僕として俵屋に入れた。駒太郎は実直、真面目で店の番頭を任せるまでになったので、自分の養子(廃家予備)にしたことから、ますます複雑になった。

幸徳家の墓は中村の裁判所裏、正福寺にあり、毎年一月二四日、秋水墓前祭を開いている。秋水、篤明、駒太郎らの墓が並んだ一角は県内外から墓参者が絶えない。

その手前の山際にも古い墓があるのだが、気づく者は少ないので、二年前、「俵屋・幸徳家先祖墓」の看板を立てた。中村幸徳家の初期の墓石や、幸徳家が入る前の俵屋の元禄期以降の墓石が並んでおり、「町人のまち中村」を今に伝える史跡としての価値もある。

幸徳家が中村に移る以前の大阪の菩提寺は竹林寺(大阪市西区本田)。自分の家系に深い関心をもっていた秋水は、明治三九年、アメリカから帰朝後里帰りのさい、大阪に立ち寄り、あちこち歩いた末この寺を捜しあてたことが、妻師岡千代子「雨々風々」に書かれている。

竹林寺は昭和二十年三月、大阪空襲で丸焼けになったが、黒くすすけた幸徳家先祖墓(梅林建立)が一基だけ残っていた。昭和五七年、大阪の社会党関係者たちの提案、協力を得て、この墓石を正福寺に移設した。

俵屋は宇和屋(遠近)、吸田屋(木戸)などとともに町老(年寄)を務める「おまち中村」の代表格の商家であり、当然婚姻も互いに結び合った。篤道の妻は富田(百足屋)、養子亀治(秋水兄)は木村(叶屋)から迎えた。秋水の姉二人も、民野は福島(亀田屋)、寅(牧子)は谷川(和泉屋)へ嫁いでいる。

しかし、秋水の父篤明だけは士族格の山路村庄屋小野家の三男で医師の小野雲了(亮輔)の長女多治を迎えた。(続く)

俵屋・幸徳家先祖墓(正福寺 )
 俵屋・幸徳家先祖墓

週刊 高知民報連載(全12回) 2019.8.4

秋水を生んだ風土と人々(3)町人のまち中村

3.町人のまち中村

幸徳伝次郎は明治四年、両親にとって六番目の末っ子(二人は早世)として生まれた。

父幸徳篤明は四代俵屋嘉平治を襲名する商家(薬種業、酒造業)であり、母多治は医師小野雲了(亮輔)の娘。母の実家小野家は代々山路村庄屋をつとめた士族格の家柄で、雲了は小野家三男のため中村に出て医師となっていた。

幕末とはいえ士農工商の身分制度が厳然たる江戸封建時代、最下級商人のもとに士族格の娘が嫁ぐことは珍しいことであった。

この異例な縁組こそが伝次郎を悩ませ、身分、階級に敏感な人間をつくりあげていった原点である、と私は思っている。

このような縁組が可能であった背景には中村という町の歴史がある。

一條家、長宗我部に続き、関ケ原合戦のあと、中村を支配したのは山内康豊である。土佐藩初代山内一豊は弟康豊に中村周辺を分け与え、独立した中村藩(二万石、のち三万石)とした。

しかし、元禄二(一六八九)年、中村藩五代直久(大膳)が幕府若年寄に抜擢されたにもかかわらず、これを辞退したことを口実に、将軍綱吉から取り潰された(幕府直轄を経て土佐藩に吸収)。

禄を失った家臣は散り散りになり、武家屋敷は残らず取り壊された。城に代って奉行所が置かれ、以後は上級武士三名が高知から交代で来るのみで、中村には藩直属武士がいなくなった。さらに四万十川氾濫による洪水、火事などの災害も加わり、町は荒廃した。

こうした中村を支え、復興したのが町人であった。宇和屋、俵屋、吸田屋などが町老(年寄)になり、泉州堺における会合衆のような町人中心の自治的運営がなされた。藩もこれを認め、中村の町はいわば特別行政区的存在になった。「中村市史」は、中村が今でも「おまち」と呼ばれ、格の高い響きをもつのは、このためであるとしているが、私も同感である。

商人の間では、和歌、俳諧、絵画等が流行した。こんな雰囲気の中、宇和屋から学者遠近鶴鳴が生まれた。

鶴鳴は商いで京阪に出た際、篠崎小竹(大阪)から朱子学、岩垣松苗(京都)から国学を学び、さらに一條家学問と土佐南学の流れも受け継ぎ、私塾鶴鳴塾を開いた。

樋口真吉(足軽)、安岡良亮(郷士)、木戸明(吸田屋、のち地下浪人に)などはここで学んだ。町人学者のもとに士族の子弟が通った。町人の隠然たる力。鶴鳴の墓は羽生山にある。

秋水の父篤明も俳諧を趣味とする文人であった。商売、文化両面から幸徳家(俵屋)は一目置かれる存在であった。

小野雲了は格式ばかりうるさく貧乏な士族の家より、生活が楽な商家のほうがいいかもしれないとの配慮もあって、長女多治を幸徳家に嫁にやった。(続く)

遠近鶴鳴墓(羽生山)   中村のまち
遠近鶴鳴墓      中村の町
中村羽生山

週刊 高知民報連載(全12回)  2019.7.28


秋水を生んだ風土と人々(2)平民へのこだわり

2.平民へのこだわり

  區々成敗且休論
  千古惟應意氣存
  如是而生如是死
  罪人又覺布衣尊

こまごまとした成功失敗について、今あげつらうのはやめよう。
人生への意気を捨てぬことこそ、古今を通じて大切なのだ
。このように私は生きて来て、このように死んでいくが、
罪人になって、あらためて無官の平民の尊さを覚えることができた。(釈文 神戸大学名誉教 一海知義)

この漢詩は秋水が死刑宣告をされた日(明治四四年一月十八日、死刑執行は一月二四日)獄中で看守に頼まれ書いた絶筆であり、原文は四万十市立図書館が所蔵している。

動揺を微塵もみせず、淡々と死を受け入れ、明鏡止水の心。他の十一人も同じであった。

昭和五八(一九八三)年、秋水刑死七十周年記念事業として同実行委員会は中村の為松公園にこの絶筆碑を建てた。(幸徳秋水を顕彰する会の結成は二〇〇〇年)

碑の裏面には秋水研究家であった伊野町生まれの塩田庄兵衛先生による「秋水・幸徳傳次郎の略歴」が刻まれている。

除幕式(一月二四日)の夜半、何者かが(右翼団体と思われる)この碑文にセメントを塗ったが、発見が早朝であったことから、すぐに洗い落とし、事なきをえた。

一條家の時代、中村の防塁であった為松城跡につくられた為松公園は桜の名所である。山上であることから、高齢化等の影響もあり最近登ってくる市民は少なくなってきているので、昨年度、幕末維新博の一環として、絶筆碑前の道を拡張舗装等し、近くの市立郷土資料館もリニューアルし、同「博物館」に模様替えした。市外からもぜひお出でいただきたい。

秋水絶筆漢詩の結びにある「布衣」は、官服に対して庶民着用の衣服のことで、転じて「平民」の意味である。

秋水は最期に、平民であったことへの納得と満足を書き残している。

秋水は明治三六(一九〇三)年、日露戦争に反対し非戦論を唱え、堺利彦、内村鑑三とともに萬朝報を退社。堺と二人で平民社を立ち上げ、週刊平民新聞を発行した。

その創刊宣言において、自由・平等・博愛が人間社会の「重要三大要義」とし、「人類の自由を完からしめんが為めに平民主義を奉持す」と表明。(併せて、平等のために社会主義、博愛のために平和主義)

平民社、平民新聞、平民主義と、秋水は終生「平民」にこだわり続けた。「平民」は秋水の思想の根幹をなす言葉であり、デモクラシーの訳語としても使用している。

秋水は中村の平民の家、商家(薬種業、酒造業)俵屋に生まれた。だから、自らの出自にこだわったことは間違いないであろうが、ただそれだけではない。

それには中村の平民=町人がどのように誕生・形成をされてきたのか、その歴史を辿らなければならないし、またそれを背景にした幸徳家の複雑な家庭環境、親族構成から説明しなければならない。(続く)

秋水絶筆碑(為松公園)
爲松公園 秋水絶筆碑

週刊 高知民報連載(全12回) 2019.7.21


秋水を生んだ風土と人々(1)「土佐ゆかりの偉人」

1. 「土佐ゆかりの偉人」 

高知城歴史博物館裏口前、NTT西日本高知支店壁際「土佐ゆかりの偉人」看板(パネル)にこの四月から幸徳秋水が登場した。

この看板はNTT西日本が約二十年前設置し、最初十二人から何度か追加。人選は自ら行ってきたが、今回はじめて高知城博が監修し、五人追加、三人撤去し十八人になった。

追加は、秋水のほか中江兆民、小野梓、紀貫之、義堂・絶海(二人セット)、撤去は見正院(山内一豊妻)、坂本乙女(龍馬姉)、大町桂月。タイトルも「土佐の」から「土佐ゆかりの」に変えた。

妥当な入れ替えであると思う。ただし、「偉人」を「人物」に変えてはとの提案(私もそう思う)にはNTTが応じなかったという。他十三人は直接ご確認されたい。

高知城歴博の「監修」ならば実質県のお墨付き。幸徳秋水の認知は遅きに失した観はあるが、安堵している。師の兆民先生もあわせて。

今回の認知は改元の年だけに重い意味がある。

明治四四(一九一一)年、秋水ら二四人が死刑判決を受けた罪名(十二人は無期懲役に減刑)は「大逆罪」(旧刑法七三条)。天皇、皇族に対して「危害ヲ加へ又ハ加エントシタル者ハ死刑に処ス」と規定されていた。

戦前国家では天皇は神であり絶対君主。全ての権力は天皇に集中。軍隊は「皇軍」であり、「臣民」は有無を言わさず戦争に動員された。

天皇中心の国家体制=天皇制は戦後も「象徴」として温存された。その一つが元号である。

秋水は「思うに、百年ののちだれか私に代わって言ってくれるものがあるであろう」と言い遺して絞首台にのぼった。

その百年はすでに過ぎたが、あの時代に秋水たちが提起した問題や、彼らの首をくくった社会構造のようなものは、いまだ根本は変わっていない。秋水はまだ元号が?と嘆いていることだろう。

秋水は明治四年、中村に生まれ、自由民権の空気を吸って育ったことでは土佐の多くの民権家たちと共通をしているが、自由・平等・博愛から非戦・平和へ、さらに社会主義、無政府主義(アナーキズム)へと思想を深化させていった稀有な存在である。

秋水は「余は如何にして社会主義者となりし乎」(平民新聞、明治三七年)において「境遇」と「読書」をあげ、境遇は土佐に生まれたことのほか、「維新後一家親戚の家道衰ふるを見て同情に堪へざりし事」「自身の学資なきことの口惜しくて運命の不幸を感ぜし事」と書いている。

秋水は平民(商家)の出で、複雑な家庭環境で育つ。中村という独特な風土と歴史を背景にして。

長じてからの秋水の思想、行動の研究は多い。しかし、三つ子の魂百まで、異色の種を育てた土壌についての研究は地元でしかなしえないことも多いであろう。

同じ土佐でも「秋水はなぜ高知ではなく中村に生まれたのか」。これが私のテーマである。

中村の風土、歴史、人々を考えることで、幸徳伝次郎を秋水に昇華させた中村の土壌を深堀りしてみたい。(続く)

「土佐ゆかりの偉人」看板 1   「土佐ゆかりの偉人」看板2
NTT西日本高知支店前の看板に描かれた秋水

週刊 高知民報連載(全12回)  2019.7.14









 




秋水と小澤征爾ファミリー

今日は天皇の「即位礼正殿の儀」が皇居で行われたことから、この日に合わせて書いておきたい。

私はNHK「ファミリーヒストリー」をよく見る。有名人の家系の紹介番組だが、それだけにとどまらず歴史研究者等の解説を交えながら、それぞれの先祖が歩んできた時代背景に迫る視点をもっているからだ。

有名人とはいえ、いまうるさい個人情報というデリケートな問題そのものを扱う訳だから、家系の調査等は慎重、綿密かつ正確でなければならず、さすがNHKだと思う。民放では、これだけ手間ひまのかかる番組はつくれないであろう。

そうした中、本年8月12日放送「小澤征悦(ゆきよし)」において、オヤ? と思う場面があった。幸徳秋水が出てきたのだ。

小澤征悦は俳優で、小澤征爾の息子。征爾のほうがはるかに有名であるが、いまガン闘病中であるため、息子を前面にしたのであろう。

小澤家のルーツは山梨県西八代郡高田村(現市川三郷町)。征爾の祖父新作(文久2年=1962年生れ)は農家で、消防組頭をつとめるなど村のまとめ役であった。笛吹川が氾濫したさいには、率先して堤防を築いたりした。

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番組では、征爾の従兄(開作の弟の息子)の小澤清さん(88歳)という人物が出てきて、「どういうわけか うちのおじいさん(新作)が(幸徳秋水を)かくまったって言うんですよ」「当時 幸徳秋水をかくまうなんてことは普通できないじゃないですか」という証言をした。おじいさんは「人並外れた義侠心のある人」だったとも。

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この場面は番組の冒頭に近いところで突然出てきたが、すぐ画面は変わり、以後秋水に関連するストーリー展開はなかった。

征爾の父開作(明治31年生れ)は東京に出て来て歯科医になり、満州に渡る。昭和10年、奉天で征爾が生まれる。開作は満州国建国にかかわった要人との深い交流があって、征爾の名前は、板垣征四郎と石原莞爾(ともに軍人)から一字ずつもらったものだ。

征爾は戦後ピアノを通して音楽の才が認められ、国際的な指揮者になるのだが、番組の本題とは別に、私は秋水の紹介のされ方に疑問をもった。

1. 秋水が大逆事件で刑死したのは明治44年であるから、新作が秋水と接触したとすれば明治30~40年代と思われるが、そのころ秋水が山梨県に行ったという記録は残っていない。

2. そもそも、秋水が「かくまわれる」理由がない。のちの昭和の治安維持法、特高警察の時代とは違い、秋水の時代は、官憲から逃げ回る必要はなかった。危険思想とされ、尾行されたりはしているが、ビクビク逃げるという状況ではなく、堂々と出歩いている。この証言では、秋水はまるで犯罪者、逃亡者だ。

3. 秋水が突然出てきて、消える。秋水につながるような新作の思想、行動、生活等の紹介もなく、不自然な編集である。

私が思ったのは、当時、秋水の非戦、自由、平等、博愛思想は、平民新聞等を通して、地方にも知られて、新聞読者になった者もいたことから、新作も秋水思想に共鳴し、一定のシンパシーをもっていた。そのことに、尾ひれがついて、このようは誇大な話ができあがったのではないか。

しかし、NHKのことだから、郷土史家や秋水研究者らの意見を聞くなど、一定の裏付け作業をしたうえで、ある程度の確信をもったから、この証言を採用したのかもしれない。それならば、私が知らなかった新しい知見であり、今後の秋水研究を深めるためにも貴重な記録となる。

こんな疑問をもったので、私は9月4日付で、NHKホームページの番組意見窓口にメールを打ち、回答を求めた。

しかしながら、NHKからの反応はなかった

次に、私は9月27日付で、NHK「ファミリーヒストリー担当者」宛、同内容の手紙を郵送した。

しかし、回答はなかった。

そこで、私は10月15日、NHK高知放送局を訪ね、企画編集部職員に会い、この内容を口頭で伝え、局長あての手紙(本局に照会をしてほしい旨)を預けた。

すると、10月17日、「番組制作責任者」から電話がかかってきて、以下のような説明を受けた。

1. 再度、証言をした小澤清さんに確認をしたが、このような話を聞いたことは間違いないと言う。他の一族の人も、また身内以外の人も同じことを聞いているという。本人の自慢だったようで、死ぬまで語っていた、と。

2. 秋水を援助した、助けたという話も出てきた。しかし、いつ、どこで、どんな方法で、ということはわからない。

3. 本人は、仕事で全国あちこち行ったことがあるみたいで、東京にも出ていたことがあるかもしれないが、はっきりしたことはわからない。

4. 「秋水との接点」「かくまったこと」について、研究者などに問い合わせるなどの裏付け調査はしていない。

5. 裏付け作業をしないまま放送をしてしまったことに対してお詫びをする。本番組は今後再放送の予定もないし、アーカイブスでも見れないようになっているが(番組全体がそういう扱い)、仮に再放送をする場合は、当該部分をカットするか、編集(説明)を加えたうえで放送させてもらう。

私の推測では、新作は秋水とどこかで(たぶん東京)接点があり、何らかの援助(資金カンパなど)をしたのかもしれない。そのことを本人は自慢話として「かくまった」と誇張し話したのか、または言い伝えられる過程でおおげさな話になったのであろう。

NHKはこの話を聞いて、これはおもしろいと思い、裏付け調査をしないまま、番組のストーリーとは関係がないが、ワンカットだけ入れた。オッと思わせ、番組にアクションをつけるために。

今年から天皇は代替わりし、5月1日から元号が令和に変わった。今日の「即位礼正殿の儀」は、神話に由来する「高御座(たかみくら)」から即位を宣言する様式であり、宗教儀式そのものであるにもかかわらず、政府はこれを国事行為として挙行した。政教分離を定めた憲法に違反することは明らかである。

秋水は戦後廃止された旧刑法73条の「大逆罪」によって抹殺された。天皇を殺そうとしたという、国家権力がつくりあげた物語によって。

今日は安倍首相の発声で「天皇陛下万歳」が行われた。国民主権に反する、壇上の天皇を見上げる形で。秋水を殺した天皇制はいまも続いている。

このような状況下、NHKは無神経にも、検証、裏付け作業をしないまま、ただおもしろい話だからという理由だけで、幸徳秋水を犯罪者扱いにするような間違った内容をそのまま垂れ流してしまったことは、秋水の名誉を傷つけるばかりでなく、歴史の真実をおおいかくしてしまうことであり、その罪は重い。

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大川村 住民直接自治 

10月15日、土佐郡大川村を訪ねた。目的は和田知士村長に会うため。

大川村は人口全国最少400人の自治体(離島を除く)であり、年々議員(定数6人)へのなり手が少なくなることへの対応策として、一昨年、将来議会を廃止し、住民直接自治をおこなうことができないか研究を始めると表明したことから、一躍有名になった。

大川村は昭和30年代には住民が4000人いたが、白滝鉱山(銅山)の廃止に加え、1977年、早明浦ダムができたことにより、一挙に減少した。

私は早明浦ダムまでは5年前行ったことがあるが、その上流は初めて。ダム湖に沿ってくねくね道を進む。

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途中、米軍訓練機が1994年、湖に墜落した地点があり、嶺北平和委員会が看板を建てていた。この辺りの上空はオレンジルートと言う米軍機訓練ルートになっており、住民は低空飛行の恐怖で脅かされている。

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30分くらいで役場に着いた。ダム湖になった川が合流している地点の山を削り取ったような狭い一角であり、隣に食堂兼旅館が1軒あるが、数えるほどにしか家がない。近くには、学校、保育所もあるようだが、見えない。

下の湖底には古い役場庁舎が沈んでいる。渇水でダム湖が干上がると、その姿を現す。まるで住民の恨みの亡霊のように。時々写真に出る。

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村長室で和田村長にお会いした。1時間ほどいろんな話を聞いたが、私の関心は当然ながら住民直接自治について。特に、あっと驚く問題提起で世間の注目を集めながら、1年後には、研究中断を表明した経緯について。

地方自治法では94、95条に、議会に代わって「町村総会」を設置できると規定している。しかし、詳細は書いていない。

村長は、当初問題提起したさいは、2年後に村会議員選挙が迫る中、将来議員になり手がなくなったさいの対応を研究しようとしたものであり、町村総会については触れておらず、周りが勝手に騒いだという。

しかし、村長の頭の中には、議会廃止→町村総会というシナリオを想定していたことは間違いないようであり、県や国(総務省)はあわてた。県は「大川村議会維持特別対策会議」を、国は研究者を集め「町村議会のあり方に関する研究会」を立ち上げた。

国の研究会は、地方自治法には規定しているが、果たして現在において町村総会開催が可能なのか、法整備を含めて半年間検討したが、現状では「実効的な開催は困難」として、「いかに持続可能な議会の姿を実現するか」の観点からの検討が必要、という報告書をまとめている。

県もこれに添ったのであろう。町村総会を想定した準備検討というよりも、そういう事態に追い込まれないような対策、すなわち議員のなり手が増えるような対策を支援するという方向で動いた。

産業振興策として、村が力を入れている「はちきん地鶏」の加工施設建設の支援などである。これに絡めて集落活動センターも設立した。和田村長はこうした県の支援については感謝していると言っていた。

結局、今年4月に行われた村会議員選挙では、定数6に対して7人が立候補し、8年ぶりの選挙になった。選挙の1年前時点で、こうした方向が見えてきたこともあって、村長は研究中断を表明したことになる。

和田村長の問題提起は、したたかであったと思う。世間から見捨てられてしまったような全国最少の村が一躍注目を浴びた。報道陣が村に殺到した。

議会を前提にした二元代表制が当たり前だと思っていた世間に、過疎、人口減少に悩む小さな自治体の実態を突き付けた。大きなインパクトであった。

しかし、だからこそ、たった1年間で研究中断にしたのか、なぜ、継続的に研究すると言わなかったのか、大いに疑問が残る。しかし、そのあたりの核心部分は聞きだせなかった。

私は思う。結局、国も県も、そうした方向での議論が進むことを望まなかったからであろう。小さな自治体は独立して存続させるよりも、合併させたほうがいい。

本来の地方自治とは、住民の意思が忠実に反映されることによって成り立つ。そのための理想型は極力小さな自治体である。

大川村の問題提起は、国の方針への反旗である。

県は国と自治体の中間に位置する。どちらの立場に立つかで知事のスタンスがわかる。

高知県は、見かけは大川村を支援したように見えるが、結局のところ国の側に立ち、町村総会を開く事態にならないような方向で働きかけ、これ以上議論が広がることを抑止したということであろう。私はそう思う。

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 尾﨑県政12年を問う(2)

私は10月7日付高知新聞「所感雑感」コーナーに「尾﨑県政12年を問う」を投稿した。(同日付本ブログに転載)

きょう14日付高知新聞「声ひろば」欄に、香南市の方から「所感雑感を読んで」と題する投稿があり、私の投稿の中の集落活動センターについて触れた部分について、ご意見をいただいた。全文は末尾にコピーしたとおり。

自分の投稿に対して反応があり、ご意見をいただけることはうれしいことであるので、再度私の考えを述べさせていただきたい。

この方は、香南市の集落活動センターの代表者(会長)、まさに当事者のようである。

私の投稿の中の

「集落活動センターは私の在任中、市町村への事前の相談、協議もなくつくられた制度であり、中山間地にスポットを当てるその狙いはいいが、県が前面に出すぎると市町村の存在意義がなくなる。個別集落の実情、住む人の顔などは市町村職員が一番よく知っているのだから。これでは職員が育たない。」

の部分を引用されたうえで、ご自身のところの活動内容を紹介され、このセンターのおかげで集落活動に灯がともったと述べておられる。センターの設置を高く評価しておられることがうかがえる。

私の投稿に対する直接のご意見は書かれていないが、全体の文意からみれば、私が集落活動センターを評価していないとみておられるようであり、そのうえで、ご自分たちのセンターはうまくいっているので、実態をよくみてほしいとのご意見を書かれたものと思われる。

私の投稿は全体として尾﨑県政12年について辛口の評価を書いたことから、集落活動センターへの評価についても、この方のように受け取られても仕方がない面もあるが、私が言いたかったことがこの方には十分にご理解いただけなかったようだ。

集落活動センターは高知県が2012年度から始めた制度であり、過疎、人口減少が進む中山間地域において、地域住民が主体となり、旧小学校や集会所を拠点として、生活、福祉、産業、防災などの様々な活動に総合的に取り組む制度である。

こうした活動は、ともすれば陽が当たらない地域にスポットを当てるものであり、私は投稿でもこの制度の狙いについては「いい」ことだと書いているように、制度そのものは評価をしている。

私が言いたかったのは、この制度は県が単独でつくり(市町村への相談、協議もなく)、県が前面に立って主導していることに対する疑問である。

県の制度要綱では地元市町村と緊密な連携のうえおこなうと書いており、実際、運営面では一定の連携もみられるが、新規の地域指定や補助金の決定など、制度の根幹にかかる部分は県が決定するものである。

同センターは現在県下に56カ所。四万十市では「みやの里(大宮産業)」が9番目に指定されているので、こうした制度の実態を私は市長として経験している。

同センターの設置単位は小学校区(合併前)を一つの目安としているが、こうした集落への対応は市町村の各部門が日常業務として行っている。職員は住民の顔ぶれ、世帯構成だけでなく、各家の経済事情までよく知っている。

だから、新しい視点から集落活動センターをつくるとすれば、市町村に任せてもらえば、すぐに対応できる体制になっている。

普段は高知市にいてたまにしか来ない県庁職員よりも、地元の事情にはるかに詳しい。これは当然のことである。

県が市町村との連携と言うならば、市町村が前面に立ち、県が後方からサポートするのが自然である。そのほうが効果もあがる。私は投稿でもこのことを書いている。

私の投稿にご意見を述べられた香南市の方のセンターがいまうまくいっておられることは結構なことであるが、仮に県ではなく香南市が前面に立っていれば、よりうまくいっているのではないだろうか。

こうした視点からご意見をいただければありがたいと思う。

集落活動センター 2019 10 14
高知新聞「声ひろば」2019.10.14

尾﨑県政12年を問う

尾﨑正直知事が退任する。私はこの間、四万十市長としての時期が重なったので、その経験をもとに、地方自治の視点から尾﨑県政12年間を検証したい。

憲法で人に基本的人権が保障されているように、地域には自治権が認められている。

国に対する地方自治の基本単位(基礎自治体)は市町村であり、地方自治法で定められている。県は中間的存在だが、市町村の連合体ではない。長は別に選ばれるように、それぞれ独立、対等平等の関係にある。

知事は県民の代表とは言えるが、市町村の代表ではない。

住民が戸籍、税金、国保、年金、保育所、水道、救急(消防)など、日々生きていくための切実な問題で相談に出かけるのは市役所、町村役場である。県庁に出向くことは、まずない。

尾﨑知事は就任期間、県勢は浮揚に転じたと自画自賛している。中央官庁での経験を生かし、自ら先頭に立ってエネルギッシュに動く姿は頼もしいし、県民の評価も高い。看板政策の産業振興計画では成果が数字に反映しているものもある。

しかし、それが果たして足元で実感されているだろうか。

県の産業振興計画と言っても分解すれば大半が市町村策定の計画。「地産外商」はもともと四万十市の生産加工グループが最初に使った言葉であるように、市町村の計画を集めて県がフォーローアップ会合で進捗管理する仕組みとなっている。

県認定を受ければ補助金が出るので、市町村担当者は要綱に従って事業を考える。しかし、補助金に慣らされるとその範囲でしか発想、企画ができず、創造力が働かなくなってしまう。

集落活動センターは私の在任中、市町村への事前の相談、協議もなくつくられた制度であり、中山間地にスポットを当てるその狙いはいいが、県が前面に出すぎると市町村の存在意義がなくなる。個別集落の実情、住む人の顔などは市町村職員が一番よく知っているのだから。これでは職員が育たない。

住民は現に生活している地元がしっかりしてくれないと不安なものである。

県の役割は住民に頼りになる市町村をつくるための後方支援であるべきだ。自らが権能、機能を拡大することではない。

しかしながら、本県大川村が試みようとした住民直接自治については、過疎、人口減少に悩む自治体の究極の生き残り策として全国からも注目を浴びたが、結局のところ県は抑止に動いた。 背景には国の意向が働いたものと思われる。

知事は県民の命と生活を守るためには、国の方針に沿わない内容でも県民代表として堂々と意見を述べてほしいものだ。

しかし、尾﨑知事は伊方原発再稼働を容認。米軍機の事故やオレンジルートでの訓練に対し、超低空飛行の中止は求めても、訓練そのものは必要としている。

また、憲法審査会の高知県公聴会は、知事は公的な場で発言機会がいくらでもあるので、本来一般県民が意見を言う場であるにもかかわらず自ら手を上げ、出席6人の中で唯一人、安保関連法案に賛成意見を述べている。

一方で、宇宙空間を飛ぶ北朝鮮ミサイルに対して、サイレンを鳴らし保育園児にまでかつての空襲警報さながらの訓練を強いるなど、恐怖をことさらにあおる国の政策に過剰に追従するなど、県民意識とのズレが目立った。

住民の命や生活を守る行政の最前線基地は市町村である。それぞれ地域条件が異なる中で闘うためには、自ら状況判断し機敏に動く力が求められる。自主、自立(自律)である。

県は国の支店ではないし、ましてや市町村は県の出張所であってはならない。不安が深まった12年間であったと思う。


高知新聞「所感雑感」投稿 2019.10.7

尾﨑県政12年を問う 所感雑感 田中全元四万十市長





プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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