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正福寺 宗教活動再開

幸徳家の墓があり、かつて菩提寺であった正福寺(中村山手通)は長らく休眠状態であったが、このほど佐藤嘉辰住職(50歳)が着任し、宗教活動を再開した。

正福寺本堂

正福寺は鎌倉時代の承元元年(1207年)、朝廷の怒りを買い土佐中村へ配流されることになった法然上人を迎えるために地元民が建立。配流先は讃岐に変更になったが、法然は落胆する住民に身代わりの袈裟を贈ってくれた。この袈裟は、いまも市立郷土博物館に所蔵されている。

以後、浄土宗の有力寺院として栄え、幸徳家、木戸家(秋水漢学の師木戸明)など、主に中村の町人たちの菩提寺となった。

しかし、幕末勤皇運動のあおりを受け、明治初年、廃仏毀釈で廃寺に。本尊仏像は大分県佐伯市潮国寺に避難したままとなっている。本堂跡には裁判所が建ち、墓地だけが残された。

明治36年、兵庫県の寺の名籍を移す形で再興。大逆事件後、秋水墓参者は裁判所窓越しにチェックされたという言い伝えが残っている。

戦後には本堂、庫裏も改修されたが、住職が定着しないままであった。このため、檀家が離散し、周辺の寺院に移ったり、幸徳家のように神道(一條神社)に鞍替えした家もある。

佐藤住職は京都市生まれで、京都商業、佛教大学で野球部所属。卒業後、松竹芸能に入り、お笑いタレントを目指したが、病気を機に「改心」。仏門に入り、浄土宗本山知恩院で修業したという異色の経歴をもつ。

須崎市の浄土宗発生寺から派遣されて来たもので、この間、精力的に動いている。今年8月お盆には、秋水墓の前で経を唱えてもらった。

佐藤嘉辰住職

9月には本堂で最初の法話が行われたが、さすが興味をひく、飽きさせない見事な口上であった。

秋水墓のある寺に住職が復活することは歓迎すべきこと。檀家名簿が残されていないということから、幸徳秋水を顕彰する会としても協力し、墓石名から元の檀家をさがしだし、住職を案内したりしている。
 

「秋水通信」27号記事 2019.12.10発行

蘆花公園

11月18日、蘆花公園に足を運んだ。京王線「芦花公園駅」から歩いて15分ほど。前にも2度来ているが、その時は4月、8月だったので、秋の雰囲気にもひたりたくて。

蘆花とは徳富蘆花健次郎のこと。蘆花は明治40年、当時は武蔵野の原生林の中に畑が点在するここ粕谷(いまは世田谷区)に青山から引っ越して来て、恒春園と名付け、晴耕雨読の生活を始めた。その様子は随筆「みみずのたはこと」に書かれている。

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明治43年6月、幸徳秋水らが拘束された。蘆花は事件のなりゆきが気になっていた。翌44年1月18日、秋水ら24人に死刑判決が出る。

蘆花は天皇への助命嘆願文を書き、兄蘇峰→首相桂太郎に届けようとした。しかし、届く前、判決からわずか6日後の1月24日、死刑が執行されてしまった。翌日新聞で知り、まさかこんなに早く、茫然となる。

その日は、蘆花が農家の古家を移築し書斎として棟上げをした日であった。書斎はそんな経緯から秋水書院と名付けた。当時、その名前を公にすることはできなかったので、公然とよばれるようになったのは戦後である。

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悶々としていたところに、一高生が講演を頼みに来たので、即承諾。一高に出向き「謀反論」講演をおこなった。「諸君、謀反を恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。」と、秋水らを擁護した。

昭和2年没。その後愛子夫人は家と広大な土地を都に寄付、いま都立公園になっている。秋水書院の中にも入れる。

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私が最初にここを訪ねたのは、公職時代の2011年8月、秋水書院を見たかったから。

園内には蘆花記念館のあり、資料が展示されている。秋水のことも触れられていたので、係りの人と今後交流をしましょうということになり、帰ってから秋水の顔写真を送ると、お返しに秋水書院の写真が届いた。この写真は、いま四万十市立図書館内の秋水資料室に展示してある。ここで求めた天皇直訴文のレプリカとともに。

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今回は時間があったので、公園をぐるり歩いた。蘆花夫妻の墓もある。一部テニスコートになっているが、武蔵野のくぬぎ林がそのまま残っている。

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紅葉のまっさかりで、落ち葉につつまれた雰囲気。その中に藁ぶき屋根の秋水書院と居宅跡。明治時代にタイムスリップしたようだ。

武蔵野はやはり秋が一番いい。

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飛鳥山から古河庭園へ

就職後、東京では4カ所の社宅に住んだ。一番長かったのは、北区中里、通称「田端の高台」の5年間(1984~89年)。すぐ下が崖だった。

高台とは、武蔵野丘陵が途切れる東端のことで、上野の山から王子の飛鳥山まで。崖下を電車の京浜東北線が走っているのでわかる。

11月15日、上京して時間があったので、思い出さがしに、久しぶりにそのあたりを歩いてみた。

山手線大塚駅からチンチン電車の都電荒川線に乗り替え、飛鳥山で降りた。目の前の飛鳥山公園に上がる。

ここには社宅からジョギングをしてきて、公園の中を何周もしたところ。もともと飛鳥山は8代将軍徳川吉宗が桜の名所として開発した有名なところで、当時は桜以外にもツツジを斜面いっぱいに植えていた。5月は満開に咲き、桜のあとも楽しませてくれていた。

しかし、いまはそのツツジはなく、斜面には岩山風に改造されていた。山の頂上にあった展望タワーはなくなっていた。中央広場の噴水はそのままだが、いまの季節は水を止めていた。

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当時はこどもたちがたくさん来ていた。ちょうどバブル経済にうかれているころだったので、にぎやいでいた記憶があるが、その日は平日の午後3時を過ぎ、肌寒くなった時間帯であったせいもあるのだろう、人影もまばらで、さみしい感じがした。公園全体が小さくなったような気もする。人間の記憶なんて、いいかげんなものだ。

渋沢栄一記念館に入ろうと思ったが、改修のため閉館中。残念。公園を出て、高台に沿って南へ歩く。大蔵省印刷局工場(現・独立法人国立印刷局)、平塚神社の大きな銀杏の木も、入り口の団子屋さんも以前のまま。うれしい。

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すぐ古河庭園に着く。都立のせいか、入場料は150円(65歳以上70円)。以前は100円だったが、相変わらず安い。

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シンボルの黒い洋館、前庭のバラ園と下の段の日本庭園。バラはまだちらほら咲いている。モミジには少し早いが、他の紅葉が池のまわりに映えている。和洋折衷の美は、昔と全く同じだ。

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だが、違うものがある。私の中の「古河」という名前へのこだわりだ。

改めて、もらった資料、掲示板で確認をした。この庭園は旧古川財閥の邸宅跡である。明治の元勲陸奥宗光の別宅であったものを古河が譲り受け、3代目古河虎之助が大正3年のころ、周辺土地も買い増しして、贅を尽くし、いまの形にした。

古河と言えば足尾銅山。田中正造が鉱毒被害からの救済を訴え、天皇に直訴。直訴文を書いたのは幸徳秋水だった。しかし、鉱毒が渡良瀬川に流れ込み、谷中村は消されてしまった。

学生時代、荒畑寒村「谷中村滅亡史」を読んでいたので、そのことは知っていたが、その後、中村に帰り、秋水の顕彰事業にかかわるようになってからは、自分自身の問題になった。天皇直訴文(写し)は四万十市立図書館の秋水資料室に展示している。

戦後、財閥解体により、古河は庭園を手放し、いまは都が管理している。日本を代表する庭園であることは間違いない。私はこれまで見たどの庭園よりもすばらしいと思う。

和洋折衷の庭園様式は日本の近代文化そのものである。それを見事に表現している。

しかし、その見事さは、谷中村の人たちの犠牲、血と涙を搾り取ることによって、つくられた。そのうめき声が聞こえる。日本近代史の一大事件であった。

私の中で葛藤が煮えたぎるこの場所には、これからも何度も来たい。

いまは民間マンションになっている社宅跡を見ていたら、暗くなってきた。去りがたかったので、駒込駅前の居酒屋に入り、30年前の余韻にもう少しひたった。

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尾崎咢堂記念館

今年もあとわずかになった。11月のことになるが、全国首長九条の会結成総会出席のために上京したさい、前日の16日、神奈川県相模原市にある尾﨑咢堂記念館を訪ねてきたことを書いておきたい。

尾﨑咢堂とは本名行雄。明治23年、第1回衆議院選挙から連続25回当選、昭和28年まで国会議員在職64年間というのは世界最長のギネスもので、「憲政の神様」と言われる政治家である。

咢堂は安政5年(1858)、相模国又野村(現相模原市緑区)に生まれた。その生家跡に、記念館が建っている。(昭和29年の咢堂没3年後の昭和32年建設)

新宿から京王線で橋本まで約50分。駅前から相模湖方面行バスに乗り約40分。奈良井バス停で降りてから歩きで15分。快晴で、秋の紅葉まっさかりの季節だったので、遊山のような気分で気持ち良かった。

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このあたりは、合併前は津久井郡津久井町であるから、東京都八王子市や山梨県勝沼町にも近く、神奈川県の端にあたる。

私は尾﨑咢堂というよりも、その父行正に関心があった。なぜならば、行正は安岡良亮の部下になり、影のように付き従った人物であるからだ。良亮は幸徳秋水の親族(母の従兄)であり、秋水の運命を左右した男である。

このことは、このブログで何度も書いてきた。

2017.1.6~ 安岡良亮一族の墓
2018.1.17~安岡良亮の息子たち
2019.3.19~安岡良亮、雄吉の新資料について
2019.10.26~ 秋水を生んだ風土と人々

行正は勤皇運動家。甲州に進軍してきた板垣退助率いる土佐迅衝隊に馳せ参じ、以降、安岡良亮の部下になり、土佐藩士として登用され官に入る。

幼い咢堂は父に連れられて東京へ。駿河台にあった安岡屋敷の離れに住み、良亮から国書の講義も受けている。

親子で、高崎、伊勢にも従うが、咢堂は途中で慶応義塾に入るため一人で東京に戻る。良亮、行正は、そのあと熊本へ。そこで明治9年、神風の乱に遭う。初代熊本県令(知事)であった良亮は斬られて殉職。行正は助かった。

行正は、東京に残っていた良亮家族を連れて、中村に帰す。良亮のこどもたちは秋水と同年代で家族同然となる。秋水は東京のハイカラ文化から刺激を受ける

行正はしばらく中村にとどまったあと、伊勢へ帰る。咢堂の選挙区が伊勢であったのは、このためである。

尾﨑家は又野村の庄屋格であったというから屋敷跡は広かった。そこに平屋建ての記念館が建っている。入館は無料で入ると、びっしり写真、絵画、パネルなどの資料が展示されている。ガラスケースの中や壁に。

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しかし、ほとんど全部が咢堂のもの。私は父行正についてもっと知りたかったのだが、父についての紹介はわずか。

咢堂の生い立ちの展示の中でパネル1枚と写真3枚があった。それによると、行正は伊勢では県庁に復職したあとは、地元民に養蚕などを指導し、その関連の書も残しているという。大正5年没、78歳。写真は親子並んだものと晩年のひげのじいさんのもの。

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行正は伊勢では地味に暮らしたようだ。息子咢堂の活躍を見守りながら。

安岡家の資料の中に、良亮の長男雄吉が咢堂に金を貸した借用証書が残っているから、安岡家と尾崎家は少なくとも親子2代にわたるつきあいであったことがわかっている。

帰りはタクシーに乗り、相模湖(ダム湖)を渡り、中央線相模湖駅に出た。20分くらいで着いたから、新宿からならこちらからのほうが近かったかもしれないと思った。

相模湖畔には学生時代来たことがある。現職時代は、ゴルフ場の相模湖カントリークラブでも何度かコンペに参加したことがあるので、なじみがある。そんなところが、中村につながっているとは。当時は知る由もなかった。

咢堂記念館は伊勢にもあるというから、そちらにも一度行ってみたい。行正に関するもっと詳しい記録があるかもしれない。また、国会議事堂前の憲政記念館にも咢堂に関連した展示があり、こちらのほうは公職時代、一度ちらりと覗いたことがある。

尾﨑親子を知ることで、安岡良亮親子(雄吉、秀夫)、さらに幸徳秋水の人物像が膨らんでくる。

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戦後幡多青年団運動と愛育園(2)

中村、幡多の青年団運動のシンボルは兼松林檎郎である。「団結すれば立ち、分裂すれば倒れる」と檄を飛ばし、運動の求心力となり、精神的主柱となった。高知県連合青年団の初代団長にもなった。昭和二十九年、結核のため三十六歳で逝ったこともあって、カリスマ伝説になっている。

今回知ったのは、兼松林檎郎は言わば表の人であり、本田悦造は裏の人であった、ということ。

悦造は大正八年、中村の本田家三男として生まれた。父俊馬は月灘村才角から中村に出て歯科院を開いていた。悦造は旧制中村中学から一高、東京帝大(農学部農業土木学科)へ進んだが、飛行機工学に志望変更し名古屋大学に転校。敗戦時は陸軍航空本部依託学生として長野県岡谷の航空技術研究所にいた。

天皇詔勅を聞いた翌八月十六日、ふるさとに向かった。満員混乱の車中でこの先どうしたらいのか悩み考えた。そこでひらめいたのが「青年団を創めよう」。目的は郷土の復興と文化の向上に置き、構想を頭の中に固めた。

十九日、中村に帰るとすぐに、東大後輩で在学疎開帰省中の京極純一、太宰恒吉を訪ねて構想を相談。団長は二つ上の兼松林檎郎に頼むことになった。

しかし、林檎郎は渋った。理由は、戦中の青年組織の県団長や開拓青年団長もやり、満州や戦地に若者を送った責任があるというものだったが(このあたりの詳細は不明)、なんとか説得した。八月二十五日結成準備会、九月一日結成総会となる。開会挨拶本田、議長兼松、議案説明本田、京極、太宰。

結成を見届けてから本田、京極、太宰の学生三人は大学に戻り、ともに昭和二十一年九月卒業。本田だけは就職が決まるまでということで一時帰省した。

その時、中村町と幡多郡の団長を兼務していた林檎郎から中村の団長の後継を頼まれた。「元々、君の創ったもんじゃけん」と言われ、受けざるをえなくなり、中村連合青年団二代目団長になった。

さて、愛育園のカネ集めである。本田には一高、東大時代の人脈があった。最初に一高剣道部の先輩石田和外(司法省人事課長、後に最高裁長官)を訪ね、自宅の離れを借りた。ここを拠点に七十日間、国会議員などを回った。吉田茂(首相)、林譲治、寺尾豊、入交太蔵、西山亀七など。最初は出し渋っていた議員も粘り負け。林譲治からは「今回の君の趣意書は関係大臣にも渡り、保育行政上の政策に上乗せすることになったよ」とねぎらいを受けた。

昭和二十三年五月、奈良で開かれた全国保育連合会第一回大会に四国代表で出たさいには、周りは長老ばかりの中で、唯一人青年団の若き園長ということで紹介され、万雷の拍手を浴びた。

同年十月、愛育園園舎完成、二代目園長に一條神社川村清水宮司を迎えた。大橋通二丁目の澤田勝行さん(昭和十九年生れ)は新築ピカピカの愛育園に入り、ヒゲの爺さんがいたことをおぼえているという。

青年団自主運営の愛育園は常に財政に苦しんだが、団員の太陽館の澤田寛が地域巡回の移動上映会(「小鹿物語」など)を企画、青年団がフィルムの運搬、宣伝人集めをし、カネを作ったりした。

「中村町連合青年団立愛育園」はその後昭和二十八年、中村町立に移管。移管時の児童数三四四名、園長・保母十一、医師一、保健師一、書記一。同五十六年現位置(東町三丁目)に移転。

幡多郡連合青年団は林檎郎主導で幡多公民高等学院も設立。高校へ行けない青年のために、毎月一週間、年限三年の授業をおこなった。合宿所も併設。学校法人の認可も得て、高校卒業の資格が与えられた。(場所は現・中村病院)

こうした青年団運動は、当然のことながら多くの地域リーダー、政治家を生んでいる。「三川」と言われた、長谷川賀彦(中村市長)、矢野川俊喜(土佐清水市長)、小野川俊二(大方町長)のほか、中平幹運(西土佐村長)、栗原徹(県議)、田頭文吾郎(同)などである。

また、教育の分野でも、生活に密着した綴り方運動や勤評反対運動などが、幡多郡で盛り上がった背景、地盤には青年団運動があったと言えるだろう。

最初の中村連合青年団の設立にかかわった二人の秀才(ともに大正十三年生れ、旧制中村中学、高知高校出)。太宰恒吉(東大物理学科卒)は原子物理学研究の途上、東京工業大学助教授時代の昭和三十七年、大雪山登山において遭難死(三十七歳)。京極純一(東大政治学科卒)は東大教授、日本を代表する政治学の権威となり、母校中村高校で里帰り講演をおこなったこともある。平成二十八年没(九十二歳)。

昭和四十二年、「幡多郡青年」は、中村城跡三の丸に「兼松林檎郎をたたえて」の碑を建立。

本田悦造はその後、県立女子大、高知工専、宿毛工業などで教員をつとめた。退職後昭和四十九年、中村市長選挙出馬。平成十一年没、八十歳。(終り)

 (参考引用文献)
「青春の軌跡―幡多郡連合青年団活動の記録」(平成十年)、中村市史、四万十市子育て支援課資料


「文芸はた」7号 所収 2019年12月刊

戦後幡多青年団運動と愛育園(1)

いま青年団という言葉は死語に近い。その実態がほとんどないからである。

戦後間もないころから昭和三十年代にかけては、どこにも青年団があり、地域集落において重要な役割を果たし、大きな存在感をもっていた。

中村の青年団は昭和二十一年の南海地震からの復興を支えるため自力で愛育園(保育所)をつくり、子どもの守りをしている。愛育園はその後、中村町→中村市→四万十市に移管されたが、いま市立保育所再編の中で存続が危ぶまれている。

百年に一度の南海地震がまた近づいているいま、共助、支え合いのシンボルであり「歴史遺産」とも言える愛育園の歴史を振り返ることにより、戦後青年団が果たした役割について考えてみたい。

戦前においても各種青年組織があったようだが、その代表者の多くは村長や名望家であり、戦時翼賛体制に組み込まれていったように、青年の自主的な組織とはいえなかった。

青年の自主的、自律的組織としての青年団がつくられたのは戦後である。

昭和二十年八月十五日は、抑圧されてきた人々にとっては解放の日。荒廃、混乱、混沌の中にあったが、青年にとっては新しい時代の幕開けであった。

 幡多でいち早く立ち上がったのは中村の青年。早くも九月一日、女学校講堂において中村町連合青年団結成総会を開き、総勢二百名の青年男女が参加。

 今回全国的な資料を調べた。敗戦直後の混乱期ゆえに詳しい記録は見つからなかったが、市町村単位の青年団の結成としては、敗戦からわずか十七日後の中村が全国で最も早かったのではないだろうか。

 団長に選ばれたのは兼松林檎郎。大正六年生れの二十七歳、中村小姓町、現・中村病院のところにあった兼松医院の開設者三郎の三男であった。

 連合青年団の「連合」は、中村町内には、町分のほか右山、不破、角崎などにも、小さな地域単位の青年団があったことを意味している。

青年は新しい知識の吸収に飢えていた。最初にゲーテ、ヘーゲル、カントなどの読書会を開く。演劇会「出家とその弟子」では六百人を集めた。合唱団、美術会も結成。体育大会は小学校校庭で開いた。青年の笑顔と歓声が空にこだました

幡多郡下は当時三十二町村。中村に続いて燎原の火のように、次々に青年団が結成されていった。昭和二十一年五月、幡多郡連合青年団も結成され、兼松林檎郎が団長に就いた。文字通り「幡多は一つ」であり、協同、連帯の輪が急速に広がっていった。

その最中におこったのが昭和二十一年十二月二十一日未明、南海地震。被害は中村に集中。四万十川デルタ上で地盤が弱いことから、ほとんどの建物が倒壊、火災も発生、壊滅状態となった。町内の死者二七三名、負傷者三三五八名に及んだ(中村市史)。

その時、林檎郎は高知市にいた。すぐに県庁に掛け合い、救援物資を送ってもらうよう手配。しかし、道路は寸断、海路下田港に揚げることになった。中村への搬入は下田、中村の青年団が一手に引き受けた。トラック、大八車、人海戦術で。幡多郡下青年団は次々に救援隊を派遣し、ガレキの撤去、後片付けなどを手伝った。

復旧作業において、じゃまになるのは子どもたち。親は子どもにかまっておられない。行政(町)も生活復旧優先。中村には当時町立幼稚園が一つあったが、再建どころではなかった。そこで頼まれたのが青年団。子どもの守りをしてくれないかと。

青年団は女子部員が中心になって一條神社に子どもたちを集めた。百五十人ほどいた。青空保育である。

しかし、一條神社は山の上で危険ということになり中村大神宮へ引っ越し。ここで「愛育園」の看板を掲げた。意味は愛(いつくしみ)育(はぐくむ)であろうが、命名のいきさつは記録に残っていない。

大神宮でも青空保育。夏のあつけで一人の子が死ぬという事態になった。急ぎ屋根付きの建物が必要ということになり、土地を物色していたところ、藤娘酒造の山本充さんが子どもたちのためにと中村小学校北側の土地(いま清水バレエ団のある一角)を格安で譲ってくれることになった。

田んぼを埋め立て、瓦葺の保育所を建てようとしたのだが、問題はカネがない。町もカネがない。自分たちで調達するしかない。そこで奮闘したのが当時の初代園長本田悦造(よしなり)。復興途上の中村の実情を訴えるために上京し、県選出の国会議員を中心に寄付を募ることを思いついた。(続く)

「文芸はた」7号所収 
2019年12月刊

全国首長九条の会

先月のことになるが、11月17日、全国首長九条の会の結成総会が東京で開かれ、参加してきた。

この会は、2008年、宮城県の首長14名によって結成された「憲法九条を守る首長の会」が始まりであり、その後、東北各県に同様の会ができ、2014年、「東北6県市町村長九条の会連合」に拡大し、今回さらに全国組織に発展したものである。

全国の会の目的は、「住民の生命・財産を守る首長の責務を自覚し、日本が再び戦争によって他国を侵略し、国民に惨禍をもたらすことのないように、戦争放棄と戦力不保持、交戦権の否認を定めた憲法9条を全力で守る」と定め、これに全国126名の知事、市町村長経験者(現職13名、元職113名)が賛同した。

会場の御茶ノ水にある明治大学には、このうち37名が参加、一般参加者を含めると250人に及び、熱気に包まれた。

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同じような首長の会には、2012年に結成された「脱原発をめざす全国首長会議」(現在会員105名)があり、私はこちらにも入っている。

私は2期目の選挙に敗れ、四万十市長を1期しか務めることができなかった。しかし、4年間とはいえ、住民の命と生活を守る最終責任をもつのは基礎自治体である市町村の長(首長)なのだという、その責任の重さを身に染みて実感した。

首長を経験させてもらった者は、辞めたあとも、地域に対して積極的に発言をしていく義務と責任がある。こうした考えから、私はこの会に入った。(高知県からは私を含めて6人入会)

総会では、共同代表を8人、地域バランスをとりながら選んだ。私は四国代表というような形で選ばれたので、あいさつとして、以下のような発言をした。

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「 いまの平和憲法の原型は、明治初年、土佐の植木枝盛がつくった憲法草案。また、反戦平和の原点はわが四万十市が生んだ幸徳秋水の非戦論。秋水は日露戦争に反対をした。ロシアのトルストイも反対した。

いまの自民党の源流は枝盛、板垣退助らがつくった土佐の自由党。秋水も若き党員だった。自由党の流れを継いで、戦後保守本流は吉田茂、林譲治ら高知県人によってつくられた。しかし、いまの安倍政権は保守本流ではない。

いま、高知県知事選挙がおこなわれているが、高知では野党が保守の人たちとも一緒になって闘っている。憲法九条を守るためには、野党だけではなく、保守本流の人たちとも手を組まねばならないと思う。私も九条を守るためにみなさんと一緒にがんばりたい。 」

私はこの会に積極的にかかわっていくつもりである。

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なお、総会のもよう(次第)は以下のとおり。
末尾に会員名簿をつけています。

司会 矢野裕(東京都狛江市・元)
開会挨拶 川井貞一(宮城県白石市・元)

第1部
記念講演 浅倉むつ子(九条の会世話人、早稲田大学名誉教授)「首長九条の会への期待」

首長発言「私と憲法」
千田謙蔵(秋田県横手市・元)
村上達也(茨城県東海村・元)
松下玲子(東京都武蔵野市・現)
上原公子(東京都国立市・元)
田中勝己(長野県木曽町・元)
中川智子(兵庫県宝塚市・現)

首長メッセージ(代読)
玉城デニー(沖縄県・現)
武村正義(滋賀県・元)

第2部 総会
規約、方針決定

役員(共同代表)決定
川井貞一(宮城県白石市・元)
小池清彦(新潟県加茂市・元)
松下玲子(東京都武蔵野市・現)
岡庭一雄(長野県阿智村・元)
武村正義(滋賀県・元)
井原勝介(山口県岩国市・元)
田中全(高知県四万十市・元)
稲嶺進(沖縄県名護市・元)

事務局長 鹿野文永(宮城県鹿島台町・元)
事務局次長 上原公子(東京都国立市・元)、矢野裕(東京都狛江市・元)

 会員名簿
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高知新聞の知事選報道

尾﨑知事が12月6日退任した。きょう7日付高知新聞は、第1面に「新たな道切り開いて」「尾﨑知事 県庁に別れ」の見出しで、花束を持って手を振る写真を載せている。

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8月21日、尾﨑知事が記者会見をし、4選不出馬、国政転身を表明してからの「狂騒」も、これでひとまず終った。

この間の動きの主役は一貫して尾﨑知事であり、「尾﨑の乱」と言われるように、名実ともに自作自演のひとり舞台であった。

高知新聞はさまざまな角度から記事にした。地元新聞にとって4年の一度の知事選挙は最大イベントであるから、これは当然のことであり、しかも過去2回の知事選は無投票であったことから、なおさらのことであると思う。

いま改めて、この間の高知新聞の知事選挙関連記事を振り返ってみると、これでもかというほどに、何度も連載が繰り返されるなど、記事の量は膨大である。私は、これは異常なほどであったと思う。

通常の記事と異なり、各種選挙関連記事となると、記事の内容は「公平」でなければならないのは当然である。記事の中で有権者が投票するさいの判断材料を提供するのはいいとしても、特定候補に肩入れをし、投票を誘導するようなことがあってはならない。

今回の知事選挙を振りかえってみれば、主役はもう1人いた。それが高知新聞である。

高知新聞はそれを意図していたかどうかはわからないが、結果として、尾﨑ひとり舞台を見る客を集めるための動員に大きな役割を果たしたことは間違いがない。高知新聞が「尾﨑正直物語」をクローズアップする「流れ」「世論」をつくった。選挙争点においても知事側が言うのと同じ、「継続か転換(混乱)か」、を拡散した。

以下に、この間の高知新聞主要連記事をのせるのでごらんいただきたい(これ以外にも、たくさんあるが省略)。最後(末尾)の11月5日記事は「評価 時代が求めた役割果たす」とあるように、尾﨑礼賛でしめくくっているのが、象徴的である。


10.5~10.18
検証・尾崎県政 第1部 浮揚へのイムズ

1. 転換 理念から実利追及へ
2. 政治基盤 相乗りと「武大清桑」
3. 対県議会 総与党化で「1強」に
4. 計画づくり 凡事徹底 仕事の「型」に
5. 牽引 率先垂範で堅調に疲弊も
6. 怒れる知事 周囲突き動かす
7. 地震対策 想定との闘い 妥協なく
8. 学力重視 教育現場に成果求め
9. 政策提言 県益獲得へ現実主義
10. 対市町村 積極関与し戦線拡大
11. 懸案処理 県民への説明 主眼に
12. 人口減 地方の底上げ 道半ば


10.22~11.2
検証・尾崎県政 第2部 産振レガシー 計画10年

1、 地産外渉 上 「どぶ板」と「飛ぶ営業」
2、  同   下 問われ続けるコスパ
3、 人材育成 学ぶ機会全国一目指し
4、 輸出 「YUZU」で手法確立
5、 高知家 県民性の本質突く
6、 観光 「博」重ねノウハウ蓄積
7、 進取性 強味発揮へ独自の挑戦
8、 移住促進 人生の決断に数値目標
9、 ものづくり マッチング苦戦でも・・・
10、 地域ビジネス 上 ヒトもカネも出す
11、   同    下 「県主導」の功と罪
12、 庁内 政策作りの「型」根付く

11.3~11.5
‘19高知県知事選 12年ぶりの「選」

1、 上  ポスト尾崎 路線継承か、転換か
2、 中  浜田陣営 与党が支える「後継者」
3、 下  松本陣営 広田氏軸に野党共闘


11.14~11.21
‘19高知県知事選  高知県の「現在地」 県政課題ポイント解説 

1. 財政 国の支援受け積極型
2. 地震対策 「犠牲者ゼロ」へ課題多く
3. 人口 「社寄増減ゼロ」難しく
4. 高齢者医療 「2025」へ対策急務
5. 少子化 産み育てられる環境を
6. 不登校 特効薬なく模索続く
7. 県内総生産 人口減下の拡大続くか


11.22
‘19高知県知事選
集活センター58カ所に 交流、活力創出に一定効果 補助金頼み、自立へ人材難

橋本大二郎前知事に聞く


11.27~11.30
継 ダブル選総括 2019知事選・高知市長選

1. 令和決戦 新時代のリーダー像は
2. 後継者 尾崎氏前のめりで信任
3. 野党勢 共闘の限界超えられず
4. 5氏乱立 現職多選批判かわす(高知市長選挙)

12.1~12.5
検証・尾崎県政 第3部 あの日あの時 記者座談会

1. 静寂からの船出 1期目 追い風逃さず好発進、学力で「成果」急ぐ
2. 懸案対応 「積年の課題」で手腕
3. 素顔 職員動かした「熱」、「情」優先した判断も
4. 尾﨑流 「弱みを強みに」の論法
5. 評価 時代が求めた役割果たす、4選不出馬は賢明?


尾﨑県政は県民の評価が高かった。県政満足度は選挙期間中89%であったことに示されているように、これも異常な数値である。一連の記事は、その背景、理由を解析するような形で編集されている。産業振興計画、観光、高知家・・・など。

しかし、私からみれば、確かに数字でみれば、成果が表れているように見えるものも多いが、しかし、全国的な水準、位置からみる限界等については、堀下げが甘く、県が発表している資料、データを書き直したようなものがほとんどであり、もの足りない。

私はこの間、四万十市長を経験した。地方自治の基本単位は市町村、地域住民を最終的に守るのは市町村であり、県ではない。この間の尾﨑県政により、市町村の自主性は弱体化、県の出先機関化し、「県庁栄えて市町村枯れる」を実感したことから、10月7日、高知新聞「所感雑感」欄に、「尾﨑県政12年を問う」を投稿した。

この記事は掲載されるか不安であったが、そのまま載せてくれた。しかし、私の主張は、「尾﨑正直物語」の洪水に呑み込まれてしまった。

私は尾﨑県政の功罪のうち「功」は、すでに「物語」とされ、さんざん書かれているような数値(過剰表現はあるが)であったと思う。これは率直に認めなければならない。

しかし、「罪」も多い。私はその最大のものは、国→県→市町村→個人という、中央主権的なヒエラルキーをつくる立役者になったということであると思う。

国の方針に従い、市町村や個人をコントロールする体制をつくったということである。高知家キャンペーンがそれを象徴している。「高知県は一つの大家族ながやき」ということは、家長(知事)のもとに、みんなまとまれということ。市町村や個人の個性や自主性は抑圧され、県の意向に従えということ。そこには「個」を育てるという視点はない。

私はそれを自分の選挙で体験している。再選をめざす2013年四万十市長選挙に尾﨑知事が突然介入、牙をむいてきたからだ。大義名分を示さないままに。

同じようなことが2016年香南市長選挙でもあり、こちらは知事が「個人的に」親しかった現職が劣勢なのをみて、参戦した。

香南市長選挙については、高知新聞の記者座談会(12月3日)では、理(大義名分)ではなく「情」を優先した判断であったと、美談風、免罪的に書いている。

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しかし、こうした「理」のない介入こそ、尾﨑県政の狂暴、独裁的な体質を示しているのであり、高知新聞が堀り下げるべきであった。

選挙後の「検証第3部記者座談会」は、まるでお仲間同士が勝利の余韻にふけっているようである。

また、投票日の2日前(11月22日)の記事もひどかった。2日前といえば、無党派層など、どちらに入れようかと迷っている人たちが最後に意思を決める時である。

そんな日の社会面に、「集活センター58カ所に」「交流、活力創出に一定効果」と58カ所の一覧表までのせた記事を書いた。集落活動センターは尾﨑県政の目玉政策の一つであり(私は投稿でその問題点を指摘している)、その実績をわざわざ紹介してやった。最終盤で浜田陣営に有利に働き、ダメ押しになったと思う。

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私は第2次安倍政権誕生以降、特に全国紙劣化が目をおおう状況の中で、地方紙、特にわが高知新聞は健闘をしていると評価し、誇りに思ってきた。

しかし、今回知事選の一連の報道は、社会の公器(木鐸)としてのジャーナリズムの役割を逸脱したものであり、高新どうした、これから大丈夫か、と大いなる不安を覚えた。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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