FC2ブログ

渡川 わたり川

2月1日、NHKブラタモリが四万十川にやってきた。来週と合わせて2回放送される予定だ。

番組は四万十川河口からスタート。四万十市役所生涯学習課(公民館)の川村慎也係長がナビゲーターになり、川の特徴や歴史について説明していた。

四万十川はこれまでも、またいまでも何度もテレビの旅番組で紹介されている。タレントも数知れず来ている。

ブラタモリのいいところは、こうした普通の旅番組と違い、科学的、実証的というか、学問的視点から、その地域の特徴を解説するところにある。だから、大変勉強になる。

2020020212592586d.jpg

私はそんなところからこの番組が好きであり、以前からほとんど見ている。四万十川にも来てくれないかなと、ずっと思っていたところであった。

1回目の放送、川村さんの説明はなかなかよかった。この川について、知ってほしい、理解してほしい真実の姿をわかりやすく説明していた。

その中で、一つだけ、冒頭に時間的制約もあったのだろうが、詳しい説明を省略したところがあった。それは四万十川という川の名前についてである。

四万十川は1994年(平成6年)までは渡川(わたり川)と呼ばれていたと、古い地図を示して説明。タモリさんは「渡川は消されちゃったんだ」「かわいそうな気がするな」と言い、そのまま番組は進んだ。

2020020212592363d.jpg   202002021253588f8.jpg

しかし、これは正確ではない。「渡川」という名前は、いまも残っているからだ。

こういうこと、である。

この川は、江戸時代のころの文献では、渡川とも四万十川とも書かれ、両方の呼び名があった。四万十川と書いて「わたりがわ」と読ませていた記録もある。二つが混在していた。

そうした中、明治になり、河川法がつくられたさい「渡川」のほうが採用されたのだ。

川の正式な名前はどうやって決まるのか。人の名前でもあだ名やニックネームがあっても、正式の名前は戸籍に登録された名前であるように、川の名前も河川法で登録された名前が正式である。

以来、法律で定める正式名称は渡川、俗称が四万十川ということになったのだ。

私の場合は、こどものころは渡川のほうがなじみがあった。赤鉄橋は四万十川橋であるが、バイパスにかかるっている橋は渡川大橋である。具同側の堤防沿いには渡川1~3丁目という地名もある。渡川病院もある。

しかし、1983年、NHKが「土佐・四万十川~清流と魚と人と~」を放送したことをきっかけに「最後の清流」ブームがおき、またたくまに、四万十川の名前がメジャーになったのだ。

こうしたことから、普段は頭の固いお役所(建設省)にしては異例のことであったが、法律を改正し、四万十川のほうを正式名称に変更したのだ。

だから、いまは四万十川のほうが正しい名前であるということでは、ブラタモリの説明は正しい。

しかし、詳しく言えば、この場合の四万十川というのは、川の本流をさしての名前である。

この川にはたくさんの319の支流があり、そのことが四万十という名前の由来になっているのだが(他説もあるが、番組ではこの説を採用)、支流にもそれぞれの名前があるのは当然のことである。

中でも、下流の中村で合流する中筋川と後川は単独の川としても大きな川である。四万十川は国管理の一級河川に指定されているのだが、中筋川、後川も同じように一級河川に指定をされている。海に注ぎ込む河口を同じくする川で、一級河川を三つももつ川は四万十川だけである。

このような場合、河川法では、単独の川のことを「川」、支流を含めた流域全体のことを「水系」と、それぞれ分けて定義している。

202002021311457ad.jpg

この川の場合は、川全体の名前は今でも「渡川水系」のままであり、渡川の名前は厳然と生き続けているのだ。

だから、四万十川の正式名称は「渡川水系四万十川」なのだ。

以上、ブラタモリでは省略されていたので、あえて書いておきたい。

20200202131156dc3.jpg



山梨へ 宮下太吉、金子文子

秋水・清馬墓前祭の翌25日、東京へ戻られる亀田博さんと一緒に高知空港9:45発便で羽田へ飛んだ。13時から渋谷区正春寺で開かれる大逆事件処刑110回追悼集会に参加するためだ。

この集会への参加は昨年に続き4回目。近年は1月の最終土曜日、管野須賀子墓のある正春寺で開かれている。今年はちょうど須賀子の命日(処刑日)にあたった。主催は私も会員の「大逆事件の真実をあきらかにする会」。

集会の中身は、毎年ほぼ同じで、須賀子墓を弔ってから始まる。参加者は70名くらい。進行役は同会山泉進事務局長(明治大学名誉教授)。

今回もこの日に合わせて発行された同会機関誌「・・・会ニュース」59号が配布され、投稿記事に従って各地、各団体、個人からの報告が行われた。私からも前日の墓前祭と1年間の活動を報告した。

20200130110618b2b.jpg   2020013011060736d.jpg

その中で、前日の高知新聞一面大の記事「大杉栄ら15人分寄せ書き」が高知市で発見された(収集家が古書店から購入)ことについて触れた。秋水らの処刑から2年後、東京の料亭に集まった同志たちが書いたもの。堺利彦、荒畑寒村も入っている。記事を書いたのは秋水顕彰会会員でもある天野記者。

高知2020.1.24-1

新聞にコメントを載せている大杉栄の孫の大杉豊さんもこの集会に参加していたので、別に詳しい説明もされた。

集会後は懇親会。顔なじみになったみなさんと交流を深めた。

新宿の常宿ホテルに泊まって翌26日、山梨県に足を伸ばした。新宿駅始発の中央本線特急あずさ号で甲府まで1時間半。第一の目的は、昨年8月12日放送NHKファミリーヒストリー小澤征悦(征爾の息子)の中で、秋水を「かくまった」と誤って放送された小澤家先祖の地、旧高田村(現市川三郷町)を訪ね、その真相を解明することであったが、このことについてはまだ調査中であるので、後日詳しく書かせていただくことにしたい。(本ブログ2019.10.22)

甲府には以前東京から仕事の出張で来たことがある。今回、もうひとつ行きたかったのは宮下太吉の墓である。

宮下は「天皇暗殺計画事件」として大逆事件がフレームアップ(でっちあげ)されるきっかけになった「爆弾実験」をしたとされる人物である。宮下、管野須賀子、新村忠雄、古河力作が「謀議」したとされる中に、秋水は含まれていなかったが、「事件」の頭目にされた。

戦後の真相解明の中で、大々的に騒ぎ立てられた「爆弾」とは、七味唐辛子を入れるような親指サイズのブリキ管であったことが分かっている。おもちゃのようなもので、とても人間を殺傷できるようなしろものではなかった。

宮下墓は、甲府駅からタクシーで5分ほど。浄土真宗大谷派光澤寺の広い墓地の中にあった。墓と言っても、本人の名前は刻まれておらず、兄夫婦(藤作、うめ)の墓の隣に、石川啄木の言葉「我にはいつにても起つことを得る準備あり」が刻まれた石が建っている。裏面には、労働者太吉の紹介(1875年、甲府市生まれ)のあと、1972年9月23日、宮下太吉建碑実行委員会、とある。

20200130110616fd0.jpg   202001301106309d1.jpg

この墓の管理者(墓守)はいまおらず、無縁墓となっている。2年ほど前、神戸の秋水顕彰会会員がこの墓を訪ねた時には、寺が期限を切って撤去する旨の告知看板を建てていた。

しかし、その後、「大逆事件の真実をあきらかにする会」が真宗大谷派本部に申し入れ、歴史的人物の墓として永久保存されることになった。いま看板は撤去されている。墓には草もなく、きれいであった。よかった。

宮下は大逆事件犠牲者であることには間違いがない。当時、明治政府は社会主義、無政府主義者を一掃するための口実をさがしていた。そんな中、飛んで火に入る虫、宮下が「爆弾実験」さえしなければ・・・という思いをもちながら、花を手向け、手を合わせた。寺の関係者に話を聞こうと思ったが、ベルに反応がなく不在であった。

20200130110612076.jpg

帰りは、金子文子生家跡と記念碑(歌碑)を訪ねた。塩山駅からタクシーで20分ほど。旧牧丘町杣口(現山梨市)、山の斜面に広がるブドウ畑の中にあった。

20200130111004704.jpg

生家跡の外観は本で見た写真と同じだが、いまは第三者の個人から不動産会社の手に渡ったそうで、改装され、ゲストハウスのようになっていた。観光連盟のパネルを貼っていた。文子の史跡であるから、今後も少なくとも解体はせずに保存してほしい。

20200130110955f2d.jpg

記念碑は隣接する広場にある。文子の歌「逢いたるは たまさかなりき 六年目につくづくと見し 母の顔かな」が彫られていた(1976年建立)。

「第三の大逆事件」朴烈事件で裁判にかけられ、監獄に母が面会に来た時の様子だ。記念碑前のブドウ畑には「文子メルローワイン」の看板がくくりつけられていた。隣は寺だが、周りに家は少ない。

202001301110126f4.jpg

文子は1903年横浜で生まれたが、無戸籍のまま転々とし、8歳の時、母の実家であるここに引き取られ、祖父の子として入籍されたので、ここが生地とされている。その後、親戚の養女とされ朝鮮に渡り、植民地支配の実態を肌で見る。

帰国後、朴烈に出会う。去年、中村で上映した韓国映画「金子文子と朴烈」のとうりだ。墓は朴烈のふるさと韓国聞慶市にあり、去年の7月、墓前で行われた追悼式典に出かけたので、ここも訪ねたいと思っていた。

日も落ち、暗くなってきた。正面には富士山が見えるというが、残念だ。30分ほどいて、待たせていたタクシーで駅に戻った。新宿到着時刻は夜8時になっていた。

20200130111002256.jpg

幸徳秋水刑死109年、坂本清馬没45年記念合同墓前祭

1月24日(秋水命日=処刑日)、標記合同墓前祭を行った。例年は秋水だけだが、5年前から5年に一度坂本清馬との合同祭としている。

清馬の命日は1月15日であり、その日は有志10人で弔った。正福寺佐藤住職に読経をあげてもらった。(1月22日記事)

24日の2日前の天気予報は雨であったことから、事前に献花台の上にテントを張った。しかし、曇天ながら、雨は落ちてこず、よかった。

参加者は記帳71名だが、実際はもう少し多く80名くらいか。神戸から8名、東京、大阪、岡山、熊本から各1名と、県外からの方が例年より多かった。

2020012912233665d.jpg   

冒頭、秋水顕彰会宮本会長が代表献花と弔辞を読み上げ。続いて、順次献花。最初に、遺族・関係者、地元田中和夫さん、長尾正記さん(駒太郎実家)、豊中市岡崎悦明さん(小野家)。初めて、坂本清馬関係者として養女ミチヱさんの姪(兄の娘)保岡典江さんが愛媛県旧一本松町からみえてくれた。

83438730_3029617733739236_5167046640082616320_n.jpg   83011358_272500563713640_6567449254116196352_n.jpg

市長(田村副市長)、議長(川渕議員)、教育長(小松生涯学習課長)、中村商工会議所(地曳専務)、中村地区労(小野会長)、中村九条の会(渡辺事務局長)、正福寺佐藤住職。

84093167_2397500280562512_4699800613989384192_n.jpg

市外から、高知市自由民権友の会(岡林会長)、神戸代表津野公男さん、東京亀田博さん、熊本下川征男さん、岡山森雄二さん。

その他の参加者には、あとで、それぞれ墓前で弔ってもらった。

献花者を代表して2人の方に挨拶をしてもらった。

神戸津野公男さん。今年10月17日、神戸で予定している第5回大逆事件サミットの実行委員会を代表して、参加呼びかけがあった。

東京亀田博さん。アナキズム、金子文子研究者で、昨年5月にも韓国秋水研究者金昌徳さんと一緒に秋水墓参にみえ、それをきっかけに、中村と韓国の交流が始まった経過について話をしてくれた。

来年は、秋水刑死110年、秋水生誕150年(明治4年生まれ)となる。これまで刑死10年刻みで記念事業をおこなっているが、来年は1月24日に加え11月7日(秋水誕生日)の少し前にも記念講演会、展示会などを行いたいと思っており、詳細を詰めていきたい。目玉は秋水二つ目の記念碑建立。これらのことを参加者のみなさんに報告した。

20200129133749c9b.jpg   83707104_566835890839460_9144591298580185088_n.jpg

記念講演会は午後2時半から、市立文化センターで。講師尾﨑清(顕彰会福会長)「坂本清馬の思い出」。約50人参加。

尾﨑さんの父の栄さん(元中村市会議員)は戦後清馬の支援をした人であり、いつも自宅に清馬が訪ねてきていた。若い清さんも清馬に声をかけられ、話を聞くこともあった。「管野須賀子は美人ではないが、当時の女性にしては珍しく表情のある人であった」とほおを赤らめた。「革命家は若死にしてはいけない」とも。

20200129132243d06.jpg

清馬は大逆事件で死刑判決を受けたあと無期懲役に。獄中で24年間を過ごしたが、一貫して無実を主張。1961年、再審請求裁判をおこした(最終棄却)。

長い獄中生活から岩窟王のような風貌になり、周りに近寄りがたいオーラを発していたので、偏屈者として避けられていた。心を開いて話す友は少なかった。尾﨑栄さんは、その中の数少ない一人だった。会場からは「犬を連れて町を歩いているのを見かけた」「こわい人だった」との発言もあった。

会場には、清馬が書き残した直筆手記などを展示した。1964年アサヒグラフで紹介された記事など、関連図書も。

神戸からの参加者8名と、東京からの亀田博さんは、前日の23日、中村に向かう途中、高知市内にある岡林寅松と小松丑治の墓も弔ってくれた。

この二人は、高知市生まれで同じ小学校同級生だが、神戸の同じ海民病院で仕事をしていたころ、平民新聞の読書会を開いていたことで、大逆事件にひっかけられ死刑判決を受けたあと無期懲役にされた。

10月、神戸で大逆事件サミットを開くのは神戸が事件に関係しているためである。

202001291337525e3.jpg   20200129122316a9a.jpg
  岡林寅松墓          小松丑治墓

森長英三郎

1月15日は大逆事件の最後の生き残りで、1961年、再審請求裁判に立ち上がった坂本清馬の45回目の命日であった。幸徳秋水を顕彰する会の役員など10名で秋水墓と同じ並びにある清馬墓で弔った。正福寺住職に読経をあげてもらい。(24日秋水刑死日には、秋水・清馬合同墓前祭を開く)

 20200122220054bf2.jpg   202001222200397e1.jpg

これに合わせるように、昨年末、田中伸尚著『一粒の麦死して 弁護士・森長英三郎の「大逆事件」』(岩波書店)が出版された。森長英三郎は、大逆事件再審請求裁判の主任弁護士である。

清馬は秋水の自称門人であり、今でも師の影に隠れたままである。しかし、清馬が裁判に立ち上がらなかったならば、大逆事件の真実がいまほどに解明されることもなく、闇に葬られていたことであろう。清馬が果たした役割は大きかった。

しかし、表の主役は清馬であったが、裏方の主役、屋台骨の柱は森長であった。森長なかりせば、裁判は成り立たなかった。

最終的に請求は却下されたが、日本近現代史上、最悪の思想弾圧という国家犯罪を問う裁判を6年半にわたってリードし、完遂したことに大きな意義があった。

森長は裁判終結後も事件にかかわり続けた。裁判支援組織である「大逆事件の真実をあきらかにする会」の事務局長として、真相解明を続け、国家の罠にはめられた人たちの家族、親戚を含むすべての犠牲者の名誉回復に取り組んだ。この会はいまも続いており、私も会員としてかかわりをもっている。

本書は、これまでベールに隠れていた部分が多い森長の生い立ちから、生涯をたどりながら、なぜ森長がこれほどまでに大逆事件に精力をつぎ込み、執着したのか、その生きざまに迫ったものである。

森長は1906年(明治39年)、徳島県の山の中で生まれた(名西郡神山町)。小学校の成績はよかったので、県立農業学校まで行かせてもらった。しかし、家の経済事情から、それ以上は望めなかったので、山林労働で金をため、自力で東京へ出た。

自分でのちに「浅草山谷方面で最底辺の放浪生活をする。放浪中、マルクスからカブキまでの雑学を学ぶ」と書いているように、苦学しながら日本大学に入り、弁護士の資格をとる。

著者は「戦争と不況をかかえた資本主義社会がつくりだす不条理や理不尽にあえぐ、自身を含めた底辺に生きる人々に出会ったこと」で、土に源流をもつ「沈黙せざる精神」「骨太の自由主義」を全身に刻み込みながら、人権弁護士として道を切り開いていった、と書いている。

駆け出しのころ、先輩弁護士布施辰治との出会い、宮本顕治スパイ査問事件の弁護(妻の宮本百合子とのやりとり)など、戦前の活動については、私は本書で初めて知った。

著者は、すでに大逆事件関係の本をたくさん書いている。「大逆事件 死と生の群像」「囚われた若き僧 峯尾節堂 未決の大逆事件と現代」「飾らず、偽らず、欺かず 菅野須賀子と伊藤野枝」など。これらは、事件の被告人とされた人物だけでなく、事件に巻き込まれていった家族、親戚を含む周辺の人々の「みちゆき」を追っている。

こうした追跡のなかで、弁護士森長英三郎は避けて通れぬ巨象であった。しかし、その巨象は、自分のことは隠して語らず、書き残していない。

森長は1966年没(77歳)。著者は、法政大学に保管された資料、書簡類を一つ一つ読み開きながら、生地徳島県にも足を運ぶ等、残り少なくなった関係者への聞き取りを重ねることによって、ぼやけた人の影のピントを合わせを繰り返し、森長の輪郭をはっきりさせている。これも森長の仕事と同じように、執念の作業であった。

書名の「一粒の種死して」は、森長が事件の遺族を励まし、苦しんで死んでいった人たちの霊を弔うための「墓誌」として書いた「風霜五十年」の表紙裏に刻まれた言葉、聖書ヨハネ伝の中の一説「一粒の麦、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの実を結ぶべし」からとっている。

著者のこの間の一連の仕事は、森長が残した種を受け継ぎ、育てようとするものであると思う。大逆事件に関心をもつ者の必読の書である。

 20200122220039be0.jpg

都道府県対抗駅伝

きょう19日、都道府県対抗男子駅伝が広島で行われた。高知県チームは45位であった。女子は12日、京都で行われ41位であった。

私はこの駅伝が好きである。ワクワクする。県外にいたころは、いま以上に楽しみにしていた。甲子園の高校野球と同じで、自分のルーツであるふるさととの一体感を味わうことができるからである。

普通、駅伝大会は学校や企業単位でチームをつくるが、この大会は、男子7区間、女子9区間を、中学生、高校生、大学生・社会人に分けて走るため、学校も職場もバラバラであり、唯一住んでいる都道府県が同じということだけ。

チーム名が都道府県というのがうれしい。大学生・社会人は出身地からも出場でき(ふるさと選手)という配慮がなされていることが、さらにいい。

今年の高知県男子チームでは、国士舘大学、トヨタ自動車所属選手が、女子では、大阪芸大、京セラ、ヤマダ電機所属選手がふるさと選手として走った。

高知県の順位は、最近振るわないが、そんなことはどうでもいいこと。しばしの間、ふるさとの血を沸かせてくれるだけで十分だ。

最近はわが四万十市の選手がチームに必ず入っていることが、なおさらうれしい。きょうの男子では、中村中学の江口誠悟君、幡多農高の篠川史隆君、高知農高の岸本遼太郎君(中村中学出身)が走った。篠川君は中村の老舗喫茶店ウオッチの息子さんだ。

202001192227071b4.jpg   202001192226566cf.jpg
 江口誠悟君(左)       篠川史隆君

女子では、中村中学の白木ひなのさん、幡多農高の福田サラさん、ヤマダ電機の森本紗和さん。森本さんは、西土佐中学、山田高校出身だ。

森本さんは私が市長時代、西土佐中学3年生の時、中村読売ロードレースで選手宣誓をしてくれた。その宣誓がすばらしかったことを鮮明に覚えている。

473447_517294254971609_856414921_o.jpg
 2012年12月

森本さんが中学3年で選抜された2012年、私はちょうど京都に公務で出かけていたため、その合間に西京極陸上競技場に足を運び、チームを応援した。スタンドには毎年、京都高知県会の人たちが応援に来てくれている。この年は四万十市から、ほかに池本愛さん(中村高校)、宮脇瑶子さん(四国電力、中村高校出)も選抜されていた。

森本さんは山田高校に進み、同じ京都で行われる高校駅伝大会でもエースとして活躍した。いまヤマダ電機に所属しているので、今年はふるさと選手として出場。アンカーをつとめてくれた。

20200119222802810.jpg
  森本紗和さん

森本さんは、昨年の高知龍馬マラソン(フルマラソン)の女子の部で優勝もしており、今後の活躍が期待されている。

四万十川ウルトラマラソンの人気はドンドン高まっており、名実ともに日本を代表する大会となった。抽選をパスしないと走れない状況が続いている。

四万十市からは2007年世界陸上マラソンに久保田満選手(当時旭化成所属)が日本代表として出場した。久保田選手に続く日本を代表するランナーがまた出てくることを期待している。

自衛隊の中東派兵

1月11日、海上自衛隊の哨戒機2機が沖縄から中東ソマリア海へ飛び立った。後続の護衛艦も2月に派遣されることになっている。

何のために派遣なのか。日本の石油タンカーの航行安全確保のための情報収集活動が目的だというが、「情報収集」とは具体的には何のことか? 

これは言葉の遊びであることは、関係者はみんなわかっている。本当はアメリカの意を受けた軍事行動であることが。しかし、マスコミはこのことに突っ込まない。

アメリカのトランプ大統領はかねてより、イラン包囲網を築くための有志連合を呼びかけている。しかし、日本は以前からイランとも友好関係を維持していることから、板挟み状態になっている。

そのため、アメリカの意を受けるが、イランにも配慮する必要があることから、イランに接するホルムズ海峡を避け、少し離れたサウジアラビア沖のソマリア海への派兵となったのだ。要は、アメリカへの忖度であり、このことを昨年11月、閣議決定した。

しかし、その後状況は急変した。今年に入り、アメリカはイランの最高司令官をロケット弾で殺害。イランはすぐに報復攻撃した。きょう現在は小康状態であるが、両国は戦争状態に入っている。

アメリカの行動は明らかな先制攻撃であり、国際法に違反している。国連事務総長も批判している。

こんな無法をまかり通している危険な時に、ノコノコト自衛隊が中東に出ていくことは、世界各国から、日本はアメリカに加担をしているとみられることは明らかである。

現に、中東3か国訪問を予定していた安倍首相は、これを見合わせることを発表した。しかし、その後、小康状態になったことで、もとに戻し、予定通り行ってきた。

最初の訪問国はサウジアラビアとし、記者会見で自衛隊派兵への賛成をとりつけたと自慢顔に言っていたが、サウジはアメリカの同盟国であり、以前からイランに敵対している国である。有志連合にも早々に参加を表明している。

そんな仲間内の国に行くのは、自衛隊派兵反対世論を抑えるための日本国内向けパフォーマンスであるからである。

憲法違反の安保法制が施行されたことにより、自衛隊はまさに名実ともに軍隊となり、海外どこでも戦争に参加できるようになった。安倍政権はその実績づくりを着々と進めており、今回の派兵はその重要なステップである。

イラク戦争の時、自衛隊がサマーワに派兵されたが、その時は、実際は戦闘地域ではあったが、「非戦闘地域」だからという説明があった。しかし、今回ソマリア海は非戦闘地域であるかと問われても、答弁をはぐらかしている。

そのうえで、河野太郎防衛大臣は、仮に攻撃があった場合は、大臣の命令で反撃=「海上警備行動」ができるとまで言っている。政府として、今回が戦闘地域への軍隊の第1号だと位置づけているのである。

このような重要な決定が国会審議を経ずに一内閣の一存で決められる。国民の知らないところで、戦争へ参加するということだ。

きのうの報道によれば、アメリカは、駐留米軍への日本の財政的負担(おもいやり予算)の大幅増を要求してきているが、カネの問題だけでなく、軍事をともなう日米防衛負担の見直しも求めている。

すでに日本の自衛隊はアメリカ軍の一部となっており、実質的にアメリカ軍の指揮命令のもとに動いているが、さらにこれを進め、アメリカが海外でおこす戦争への自衛隊の派兵を求めているのである。

今回の自衛隊派兵は、その一環である。

こんな大事なことをマスコミは報道しない。逆に、NHKなどは、政府の方針を容認・促進するようなトーンで、国民世論を危険な方向へ誘導している。

いまこそ戦争反対の声をあげなければならない。

中村喜四郎

私はいま政治家中村喜四郎に注目している。元自民党衆議議員で、宮澤内閣で建設大臣を務めたが、いまは野党の立場に転じ、広田一と同じ無所属に会に所属している。

きっかけは、昨年11月行われた高知県知事選挙において、野党共同候補松本けんじの総決起集会に応援弁士として突然現れたこと。

私は中村喜四郎の名前は、かすかに覚えていた。1994年、ゼネコン汚職事件で逮捕された茨城県の旧田中派現職代議士として、当時大きく報道された。

しかし、25年も前のことであるから、その後すっかりその名前を忘れていた。すでに政界から消えてしまったものと思っていた。ダーティーなイメージを残したまま。

ところが、突然に私の前に現れた。まだ政治家を続けているのかと驚いた。そして、なぜこんな政治家が応援に来るのか、違和感があった。

しかし、決起集会での演説の迫力はすざましいものであった。いまの自民党批判をぶち上げた。いまの自民党は昔の自民党ではない。内部での自由な発言、議論は封じられてしまっている。野党が手を組んで、こんな自民党を倒さなければならないと。鬼気迫る熱弁であった。みんなが圧倒された。

2020011318210495f.jpg

高知県知事選挙は、危機感を強めた自民党が菅官房長官を送り込むなど、組織を引き締めたこともあり、惜敗をした。しかし、松本けんじが応援のお礼に上京し、野党各党をまわったさい、中村の呼びかけで、各党幹部が集まり、慰労会を開いてくれた。いまや野党結集、反自民のキーマンは中村だというのが、もっぱらの評価になっているようだ。

そんな中、昨年末に、常井健一著「無敗の男 中村喜四郎全告白」(文藝春秋社)という新刊本が出版されたので、すぐにネットで買って、正月をはさんで読んだ。

本の腰巻には「25年の沈黙を破ってついにすべてを語った!」「ゼネコン汚職で逮捕されるが<完全黙秘>をつらぬき、検事をして<男の中の男>と言わしめた伝説の男。ムショ帰り後も当選を続け、今も現役の<選挙の鬼>」と、派手に書かれている。

本の中身は、選挙になぜ強いか、無所属でもなぜ自民党に勝てるのか、地元で鉄壁の後援会がなぜできたのか、ということがメインになっている。両親も国会議員で、父親の名前を襲名したこと、選挙区(茨城7区)の全有権者に隈なく足を運んでいることなど。

与党、野党を問わず、選挙で一番効果があるのは、政策うんぬんではなく、有権者とスキンシップを重なることであることがわかる。地道に足を動かし、汗を流すことである。

中村の生い立ち、家庭の内情、政治家としての立ち位置など、さまざまな角度から人物像をあぶりだしている。

中村は、逮捕から復帰後は無所属を通しているが、自民党会派に入っていた期間もあった。しかし、民主党政権を経て、自民党が政権を奪還して以降は完全無所属を通してきた。安保法案採決では退席、共謀罪法案には反対。いまは岡田克也らの無所属の会に所属。

自民党がおかしくなったのは、野党に力がなくなり、一強体制になったから。自民党に自浄作用がなくなったから。

この国もおかしくなった。国民が政治を避け、あきらめている。投票率も低下を続けている。安倍政権は、国民に政治をあきらめさせることに成功している。

だから、この国を救うには、強い野党をつくらなければならない。そのためには、
野党が結集をしなければならない。

「共産党だからダメとか、応援できないとか、そういう考えを持っていたから自民党の強い時代が今まで続いてしまったんだ。野党が強くなるためには、政策の話よりも選挙で党派を超えて戦うことなんです。野党は戦わないから忘れられる。戦ってなんぼの政党、野党共闘。戦わないから風頼みと言われてバカにされる。」

その通りだと思う。勝たなければ話にならない。
ますます、中村喜四郎に注目したい

2020011318202835d.jpg

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR