山梨へ 宮下太吉、金子文子
秋水・清馬墓前祭の翌25日、東京へ戻られる亀田博さんと一緒に高知空港9:45発便で羽田へ飛んだ。13時から渋谷区正春寺で開かれる大逆事件処刑110回追悼集会に参加するためだ。
この集会への参加は昨年に続き4回目。近年は1月の最終土曜日、管野須賀子墓のある正春寺で開かれている。今年はちょうど須賀子の命日(処刑日)にあたった。主催は私も会員の「大逆事件の真実をあきらかにする会」。
集会の中身は、毎年ほぼ同じで、須賀子墓を弔ってから始まる。参加者は70名くらい。進行役は同会山泉進事務局長(明治大学名誉教授)。
今回もこの日に合わせて発行された同会機関誌「・・・会ニュース」59号が配布され、投稿記事に従って各地、各団体、個人からの報告が行われた。私からも前日の墓前祭と1年間の活動を報告した。

その中で、前日の高知新聞一面大の記事「大杉栄ら15人分寄せ書き」が高知市で発見された(収集家が古書店から購入)ことについて触れた。秋水らの処刑から2年後、東京の料亭に集まった同志たちが書いたもの。堺利彦、荒畑寒村も入っている。記事を書いたのは秋水顕彰会会員でもある天野記者。

新聞にコメントを載せている大杉栄の孫の大杉豊さんもこの集会に参加していたので、別に詳しい説明もされた。
集会後は懇親会。顔なじみになったみなさんと交流を深めた。
新宿の常宿ホテルに泊まって翌26日、山梨県に足を伸ばした。新宿駅始発の中央本線特急あずさ号で甲府まで1時間半。第一の目的は、昨年8月12日放送NHKファミリーヒストリー小澤征悦(征爾の息子)の中で、秋水を「かくまった」と誤って放送された小澤家先祖の地、旧高田村(現市川三郷町)を訪ね、その真相を解明することであったが、このことについてはまだ調査中であるので、後日詳しく書かせていただくことにしたい。(本ブログ2019.10.22)
甲府には以前東京から仕事の出張で来たことがある。今回、もうひとつ行きたかったのは宮下太吉の墓である。
宮下は「天皇暗殺計画事件」として大逆事件がフレームアップ(でっちあげ)されるきっかけになった「爆弾実験」をしたとされる人物である。宮下、管野須賀子、新村忠雄、古河力作が「謀議」したとされる中に、秋水は含まれていなかったが、「事件」の頭目にされた。
戦後の真相解明の中で、大々的に騒ぎ立てられた「爆弾」とは、七味唐辛子を入れるような親指サイズのブリキ管であったことが分かっている。おもちゃのようなもので、とても人間を殺傷できるようなしろものではなかった。
宮下墓は、甲府駅からタクシーで5分ほど。浄土真宗大谷派光澤寺の広い墓地の中にあった。墓と言っても、本人の名前は刻まれておらず、兄夫婦(藤作、うめ)の墓の隣に、石川啄木の言葉「我にはいつにても起つことを得る準備あり」が刻まれた石が建っている。裏面には、労働者太吉の紹介(1875年、甲府市生まれ)のあと、1972年9月23日、宮下太吉建碑実行委員会、とある。

この墓の管理者(墓守)はいまおらず、無縁墓となっている。2年ほど前、神戸の秋水顕彰会会員がこの墓を訪ねた時には、寺が期限を切って撤去する旨の告知看板を建てていた。
しかし、その後、「大逆事件の真実をあきらかにする会」が真宗大谷派本部に申し入れ、歴史的人物の墓として永久保存されることになった。いま看板は撤去されている。墓には草もなく、きれいであった。よかった。
宮下は大逆事件犠牲者であることには間違いがない。当時、明治政府は社会主義、無政府主義者を一掃するための口実をさがしていた。そんな中、飛んで火に入る虫、宮下が「爆弾実験」さえしなければ・・・という思いをもちながら、花を手向け、手を合わせた。寺の関係者に話を聞こうと思ったが、ベルに反応がなく不在であった。

帰りは、金子文子生家跡と記念碑(歌碑)を訪ねた。塩山駅からタクシーで20分ほど。旧牧丘町杣口(現山梨市)、山の斜面に広がるブドウ畑の中にあった。

生家跡の外観は本で見た写真と同じだが、いまは第三者の個人から不動産会社の手に渡ったそうで、改装され、ゲストハウスのようになっていた。観光連盟のパネルを貼っていた。文子の史跡であるから、今後も少なくとも解体はせずに保存してほしい。

記念碑は隣接する広場にある。文子の歌「逢いたるは たまさかなりき 六年目につくづくと見し 母の顔かな」が彫られていた(1976年建立)。
「第三の大逆事件」朴烈事件で裁判にかけられ、監獄に母が面会に来た時の様子だ。記念碑前のブドウ畑には「文子メルローワイン」の看板がくくりつけられていた。隣は寺だが、周りに家は少ない。

文子は1903年横浜で生まれたが、無戸籍のまま転々とし、8歳の時、母の実家であるここに引き取られ、祖父の子として入籍されたので、ここが生地とされている。その後、親戚の養女とされ朝鮮に渡り、植民地支配の実態を肌で見る。
帰国後、朴烈に出会う。去年、中村で上映した韓国映画「金子文子と朴烈」のとうりだ。墓は朴烈のふるさと韓国聞慶市にあり、去年の7月、墓前で行われた追悼式典に出かけたので、ここも訪ねたいと思っていた。
日も落ち、暗くなってきた。正面には富士山が見えるというが、残念だ。30分ほどいて、待たせていたタクシーで駅に戻った。新宿到着時刻は夜8時になっていた。

この集会への参加は昨年に続き4回目。近年は1月の最終土曜日、管野須賀子墓のある正春寺で開かれている。今年はちょうど須賀子の命日(処刑日)にあたった。主催は私も会員の「大逆事件の真実をあきらかにする会」。
集会の中身は、毎年ほぼ同じで、須賀子墓を弔ってから始まる。参加者は70名くらい。進行役は同会山泉進事務局長(明治大学名誉教授)。
今回もこの日に合わせて発行された同会機関誌「・・・会ニュース」59号が配布され、投稿記事に従って各地、各団体、個人からの報告が行われた。私からも前日の墓前祭と1年間の活動を報告した。


その中で、前日の高知新聞一面大の記事「大杉栄ら15人分寄せ書き」が高知市で発見された(収集家が古書店から購入)ことについて触れた。秋水らの処刑から2年後、東京の料亭に集まった同志たちが書いたもの。堺利彦、荒畑寒村も入っている。記事を書いたのは秋水顕彰会会員でもある天野記者。

新聞にコメントを載せている大杉栄の孫の大杉豊さんもこの集会に参加していたので、別に詳しい説明もされた。
集会後は懇親会。顔なじみになったみなさんと交流を深めた。
新宿の常宿ホテルに泊まって翌26日、山梨県に足を伸ばした。新宿駅始発の中央本線特急あずさ号で甲府まで1時間半。第一の目的は、昨年8月12日放送NHKファミリーヒストリー小澤征悦(征爾の息子)の中で、秋水を「かくまった」と誤って放送された小澤家先祖の地、旧高田村(現市川三郷町)を訪ね、その真相を解明することであったが、このことについてはまだ調査中であるので、後日詳しく書かせていただくことにしたい。(本ブログ2019.10.22)
甲府には以前東京から仕事の出張で来たことがある。今回、もうひとつ行きたかったのは宮下太吉の墓である。
宮下は「天皇暗殺計画事件」として大逆事件がフレームアップ(でっちあげ)されるきっかけになった「爆弾実験」をしたとされる人物である。宮下、管野須賀子、新村忠雄、古河力作が「謀議」したとされる中に、秋水は含まれていなかったが、「事件」の頭目にされた。
戦後の真相解明の中で、大々的に騒ぎ立てられた「爆弾」とは、七味唐辛子を入れるような親指サイズのブリキ管であったことが分かっている。おもちゃのようなもので、とても人間を殺傷できるようなしろものではなかった。
宮下墓は、甲府駅からタクシーで5分ほど。浄土真宗大谷派光澤寺の広い墓地の中にあった。墓と言っても、本人の名前は刻まれておらず、兄夫婦(藤作、うめ)の墓の隣に、石川啄木の言葉「我にはいつにても起つことを得る準備あり」が刻まれた石が建っている。裏面には、労働者太吉の紹介(1875年、甲府市生まれ)のあと、1972年9月23日、宮下太吉建碑実行委員会、とある。


この墓の管理者(墓守)はいまおらず、無縁墓となっている。2年ほど前、神戸の秋水顕彰会会員がこの墓を訪ねた時には、寺が期限を切って撤去する旨の告知看板を建てていた。
しかし、その後、「大逆事件の真実をあきらかにする会」が真宗大谷派本部に申し入れ、歴史的人物の墓として永久保存されることになった。いま看板は撤去されている。墓には草もなく、きれいであった。よかった。
宮下は大逆事件犠牲者であることには間違いがない。当時、明治政府は社会主義、無政府主義者を一掃するための口実をさがしていた。そんな中、飛んで火に入る虫、宮下が「爆弾実験」さえしなければ・・・という思いをもちながら、花を手向け、手を合わせた。寺の関係者に話を聞こうと思ったが、ベルに反応がなく不在であった。

帰りは、金子文子生家跡と記念碑(歌碑)を訪ねた。塩山駅からタクシーで20分ほど。旧牧丘町杣口(現山梨市)、山の斜面に広がるブドウ畑の中にあった。

生家跡の外観は本で見た写真と同じだが、いまは第三者の個人から不動産会社の手に渡ったそうで、改装され、ゲストハウスのようになっていた。観光連盟のパネルを貼っていた。文子の史跡であるから、今後も少なくとも解体はせずに保存してほしい。

記念碑は隣接する広場にある。文子の歌「逢いたるは たまさかなりき 六年目につくづくと見し 母の顔かな」が彫られていた(1976年建立)。
「第三の大逆事件」朴烈事件で裁判にかけられ、監獄に母が面会に来た時の様子だ。記念碑前のブドウ畑には「文子メルローワイン」の看板がくくりつけられていた。隣は寺だが、周りに家は少ない。

文子は1903年横浜で生まれたが、無戸籍のまま転々とし、8歳の時、母の実家であるここに引き取られ、祖父の子として入籍されたので、ここが生地とされている。その後、親戚の養女とされ朝鮮に渡り、植民地支配の実態を肌で見る。
帰国後、朴烈に出会う。去年、中村で上映した韓国映画「金子文子と朴烈」のとうりだ。墓は朴烈のふるさと韓国聞慶市にあり、去年の7月、墓前で行われた追悼式典に出かけたので、ここも訪ねたいと思っていた。
日も落ち、暗くなってきた。正面には富士山が見えるというが、残念だ。30分ほどいて、待たせていたタクシーで駅に戻った。新宿到着時刻は夜8時になっていた。
