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仁淀川花めぐり

年度末の3月31日、仁淀川町の花を見に出かけた。同町には以前から桜の銘木があることで有名であったが、最近は花桃でも脚光を浴びている。

須崎から斗賀野、越知を抜け、仁淀川町(旧吾川村)に入ったとたん、正面の山の斜面にピンク、赤、白に染まった寺村集落が飛び込んできた。

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つづら折りの茶畑に沿った山道を登っていくと、道ばたに転々と花桃を植えている。どれも花盛り。さらに進むと、旧寺村小学校跡が駐車場。そこら一帯が花の里公園になっている。

仁淀川を眼下に見下ろす急傾斜地に色とりどりの花桃がちょうど満開を迎えていた。ベンチを並べた休憩所が展望台。手作り感満載。

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そばの家の庭先で高齢女性に話を聞く。これら花桃は一人の地元男性(片岡さん)が、コメを作らなくなった棚田跡に20年ほど前に植えはじめたのが最初で、続いてその人の従弟も加わった。だんだんと周りの人たちも協力するようになり、花の公園になったという。

川向うの越知町側の山には濃い緑の中に山桜が映える。人の手を加えた華やかなこちらとは好対照。眼下の川面の青と三者で絶景アングルだ。ほれぼれする。平日だから人影が少ないのがよかった。眺望を独占

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国道に降り、ひょうたん桜へ向かう。町役場のある大崎から、一方通行の山道を登る。15分くらいで頂上付近の集落に着く。元は大藪だが、いまは桜に地名を変えている。

ひょうたん桜の大木がそびえていた。つぼみがひょうたんの形をしているから、その名がついた。種別はウバヒガン桜。高知県を代表する桜。樹齢500年。

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平日で、満開は過ぎていたが、そこそこの人が来ていた。さすがだ。ただ、今年はコロナのため、地元の人が出す売店はなし。

大将の大木の周辺には、子どもの若木も植えられ、公園のようになっていた。以前は芝桜も植えていたそうだが、イノシシ被害と住民高齢化で管理ができなくなったということで、消えていた。雨が降り出した。土佐しだれ桜の苗木を買った(2500円)。

大崎に戻り、橋を対岸に渡り、上久喜の花桃の里へ。狭い道を4キロ。上久喜の手前、久喜の本村の左斜面いっぱいに花桃が直線状に伸びている。若木が多いよう。

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さらに奥に進むと目的の上久喜集落。写真に出てくる撮影ポイントで車を止めた。ここも20年ほど前、写真の中の家の人が花桃を植え始めた。寺村より先らしい。花いっぱいの山の斜面が一枚の写真にちょうど納まる。戸数10もないくらいの小さな集落は、まさに桃源郷だ。

去年TVで、最初に植え始めた男性が、1年間をかけてコツコお金をため、一気に散財をするような気分だと言っていた。わずか1か月ほどの花の時期のために、1年間をかけて草刈り、剪定、肥料やり、などの世話をする。大変な苦労だが、それだけに満開の時の喜びは大きい。そのよろこびは多くの人に見てもらえるからだ。その気持ちは、わかる。

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28,29日の土日は、車がいっぱいで道が通れなかったという。知名度では寺村より上。愛媛県からもたくさん来ていたそうだ。

山道をまっすぐ進む。もう家はない。対向車が一台もないまま13キロほど先の長者で国道439を右折し、33号合流点を左折し、愛媛県方向に進む。県境手前の橋を渡り別枝へ。

20分ほどで中越家しだれ桜に着く。こちらはちょうど満開。アマチュアカメラマンが何人か来ていた。曇りか小雨のほうが撮影には好条件とか。いまは住んでいない元庄屋の庭から枝が外の地面につくぐらいまで、垂れ下がっている。樹齢200年。

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8年前に見た福島県三春の滝桜のほうがこれより大きかったが、その時は6月だったので、花の時期に見るしだれ桜としては、これが一番大きい。

滝桜は丘の斜面に立っていたが、こちらは家の庭から伸びている。家のコントラストが見ごたえがある。

まわりの畑には、いろんな種類に桜が植えられていた。三春の滝桜の若木もあった。菜の花、アジサイ、レンギョウなども。

中越家の下の段には大石家があり、こちらの庭にも中越家から50年前に移植されたしだれ桜が満開であった。

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両家の前の道の先には秋葉神社があるようだが、夕方近くなったので、行くのをあきらめた。秋葉神社といえば、2月の祭りが有名。多くの人出がある。

中越家の庭、大石家前の広場では、行列の練り(踊り)がある。いつか、祭りを見に来たいものだ。

小雨がしとしと降り、薄暗くなりかけた道を逆戻りし、夜8時に家に着いた。

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仁淀川町の銘木の桜(ひょうたん桜、中越、市川、大石家のしだれ桜)は以前から有名だが、最近のヒットは花桃。がぜん知られるようになった。

しかし、今回、私の気持ちは複雑であった。花桃の里ができたのは、山村集落の過疎高齢化の裏返しであるからだ。

花桃を植えているところは、もとは棚田か畑。昔なら、コメや麦、イモをつくっていた。花桃など金にもならないものを大事な田畑に植えることは考えられないことであった。

しかし、過疎高齢化が進み、それらが耕作放棄される。それならば、花桃でも植えてみよう。荒れ地にして草木を茂らせるよりも、まだましだ。町のひとたちも来てくれ喜んでくれる。ご先祖様も許してくれるだろう。

仁淀川町の花桃は、ずっと見られるものではない。いずれ、世話をする人たちがいなくなり、自然の雑木林に吸収されてしまうことだろう。

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そんな気持ちもあり、私は、家の前の畑に今年2月、花桃の苗木を50本ほど植えた。きっかけは上久喜の花桃をTVで見たことだった。 3、4年後には、わが家も桃源郷になるだろう。

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安保法違憲訴訟

3月24日、高知地方裁判所で安保法違憲訴訟の判決があり、原告の主張は退けられた(請求棄却)。

2015年9月国会通過、2016年3月施行された安保法制は、それまでは憲法に反するとして自民党政府も認めてこなかった集団的自衛権を、安倍政権が憲法解釈変更をおこなった。

3年前、これは断じて認められないとして、高知県内に住む32人が国を提訴した。私も原告の一人になtった。

安保法ついては、多くの憲法学者も違憲であると主張した。しかし、訴訟となると、安保法ができたことによる被害を具体的に示さなければならない。

今後、例えば、自衛隊がアメリカが起こした戦争に参戦し、仮に自衛隊員が死亡したとすれば、その遺族ならば安保法の被害者として国を訴えることができる。しかし、現時点では、そんな具体的被害は出ていない。そこが裁判を進めていくさいの難しさであり、壁であった。

原告団は、憲法で保障されている「平和的生存権」を盾として、安保法ができたことにより、いつ戦争に巻き込まれるかもしれないというような不安等が高まることにより、心の平穏、安穏な生活が脅かされるということを争点とし、一人10万円の損害賠償を求めた。(金額が問題ではない)

32人はそれぞれ自分の体験にもとづいて陳述した(口頭弁論12回)。高齢の戦争体験者は高知空襲で家族を失ったことで、再び同じような苦痛を味わうのではないかという不安を述べた。

しかし、われわれの主張は裁判長に届かず、門前払いされた。「平和」の定義は、各人の思想信条、歴史観等により異なるものであるから、平和的生存権といっても抽象的なものであり、その具体内容を一律的に確定することは困難である、というもので、憲法判断に立ち入らなかった。

この判断は、争点回避という国側の作戦に沿ったものである。現に国側は原告の主張に対する反対尋問に口頭ではいっさい答えず(発言なし)、文書を出すだけという、不誠実なものであった。

安保法違憲訴訟は全国でおこされている。今回の高知地裁判決は5カ所目の判決だが、すべて憲法判断は避けられ、敗訴にされている。

三権分立は建前であるが、いまの日本では司法は国に従属させられていることを如実に示している。本件、控訴するかどうかは、これから相談して決めることとしている。

なお、原告の法廷陳述は代表者数名がおこない、私は以下の陳述書を提出した。


田中全 陳述書

1 私は,この訴訟の原告であり,平成21年から25年までの間,四万十市長を務めていました。以下,個人の立場だけではなく,元首長という立場から,安保法制に対する思いを述べます。
 安保法制に対する思いの源として,私がライフワークと考えて調査等を行っている満州分村移民の問題がありますので,まず,これについて述べます。

2 私の故郷は,旧幡多郡八束村,現在の四万十市実崎です。幼少期より,いまは同じ四万十市となった旧幡多郡江川崎村を始めとする北幡地域(幡多郡北部)から多くの人々が移民として満州に渡ったと聞いていました。
  一橋大学経済学部に入学した私は,中村政則教授のゼミに入り,日本近代史,特に農業史を専攻するうち,満州分村移民についても研究を行いました。
  分村移民とは,日本国内の村を母村とし,満州にその分村をつくり,村民の一部を移住させるというものです。これは,当時日本の植民地であった満州を支配するための農業移民政策(満州開拓団)の一環として,行政主導により行われたものでした。すなわち,満州における日本の支配を維持するためには軍隊(関東軍)だけでは数が足りず,開拓農民をも動員して治安維持等にあたらせようとしたものの,思うように満州への移民者数が増えなかったため,分村という名のもとに,国が県ごとに,県が村ごとに分村に行く戸数を割り当て,移民者を強制的に確保しようとしたのです。
  そして,北幡地域では4つの村が分村移民を行い、多くの犠牲者を出したことを知り、その調査を行い、卒業論文にまとめました。以来,満州分村移民の研究は私のライフワークとなっています。

3 私は,大学を卒業した後は,農林中央金庫に就職し,全国を転勤しましたが,満州開拓団にはずっと関心を持ち続け、文献をあたるなどしていました。昭和56年1月から3年間は高知支店に勤務した際には、再び北幡に足を運び、満州からの引き揚げ者から聞き取りを行うなどし,昭和58年9月から11月にかけ,職場の互助会の機関紙に満州移民の紹介記事を投稿しました。
  また,市長を務めていた平成22年には,旧江川崎村の引き揚げ者の人々と一緒に私費で満州(現中国吉林省)の旧開拓地を訪ね,亡くなった方々の慰霊をしてきました。
  現在も,満州開拓団についての話をしたり,展示会の協力をしたり、満州引き上げ者である宮尾登美子氏が満州での生活を綴った「朱夏」「仁淀川」という作品の電子版に解説記事を寄稿したりする等の活動を行っています。

4 昭和11年から送出が始まった満州開拓団では,全国から約32万人が満州に渡りました。高知県では全国で10番目に多い約1万人が渡りました。特に幡多郡からが多く,昭和17年から20年にかけて,旧江川崎村,旧十川村,旧津大村,旧大正村から,合わせて約1400人が,分村移民として満州に渡りました。
  彼ら、彼女らの中には,自らの意思に反してやむなく移住に応じた人も多くいました。特に,旧十川村(現四万十町)では,移住に応じる人が少なかったため,くじ引きで移住者を決めた集落もありました。村は,国策には逆らえず,いやがる村民も強制的に満州に送ったのです。
  こうして送られた移住者の人々は,日本の敗戦により,満州に取り残されました。引き揚げは困難を極め、地元民の復讐・略奪による殺害や病気や飢餓等により,多くの犠牲者を出しました。北幡地域からの開拓団では全体で半数以上,旧江川崎村,旧十川村では7割以上の人が亡くなりました。
  辛うじて引き揚げてきた人々も,「満州もん」と呼ばれて差別されるなど,苦しい生活を余儀なくされました。

5 平成28年8月,テレビのドキュメンタリー番組で,長野県河野村の分村移民が取り上げられました。それは以下のような内容です。
  <同村の若き村長であった胡桃澤盛氏は,当初は分村移民に消極的であったものの,それが国策である以上従わなければならないと次第に考えを改め,村民に頼み込んで,20数戸を満州(分村)に送った。しかし,日本が敗戦を迎えた翌日,分村の人々は集団自決した。母親が,我が子の首を絞めて殺し,次に,大人同士で首を絞めて殺していった。終戦の翌年,責任を感じていた胡桃澤氏は,自宅で首を吊って自殺した。>

6 以上のような歴史からいえることは,ひとたび戦争になれば,軍人だけでなく,国民全体が巻き込まれてしまうということです。
  満州引き揚げ者で,今も生存している人は少なくなりましたが,そうした人々は,異口同音に,「戦争は二度としてはいけない。」,「あんな経験を今の人たちに二度とさせてはいけない。」と言います。それは,心の底からの言葉です。
  戦後の日本は,こうした反省のもと,憲法で二度と戦争をしないことを国民の総意として決めて歩んできた…はずでした。しかしながら,憲法解釈の変更などという,国民の総意を代表しない,わずか一内閣の判断で,安保法制が強行制定されたことにより,平和憲法が蹂躙され,日本は再び戦争ができる国になってしまいました。
  それは,満州分村移民の歴史を知り,体験者の声を聴き,戦争は二度としてはいけないという確固たる信念をもっていた私にとって,筆舌に尽くし難い苦しみです。
  特に,首長経験者である私は,「人々が不幸になるようなことをしてはならない」という信念があります。だからこそ,同じ首長であった胡桃澤氏がいかに苦悩したかがよく分かります。安保法制は,国民全体を戦争の被害者に,あるいは加害者にし得るものであり,私のこうした信念からも,絶対に許せません。
  戦争は,かつて,国民を強制的に大陸に送り込み,多くの命を奪ったのです。二度とこういう事態を招いてはいけません。そのためには,憲法違反の安保法制を廃止させなければなりません。その思いで,私は,この訴訟の原告となりました。

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高知新聞 2020.3.25


秋水と小澤征爾ファミリー(4)

2020.2.9からの続き

小澤征爾の祖父新作がかくまったという、幸徳秋水と取り違えられた人物は誰なのか?

続けて秩父事件関連の研究書等を読んでいたら、困民軍に参加した者の中に、落合寅市以外にも山梨県に逃れた幹部が二人いたことがわかった。

菊池貫平と島崎嘉四郎(かしろう)である。

先に書いたように、明治17年11月1日蜂起した困民軍は、明治政府が派遣した鎮圧軍隊により、早くも11月4日、皆野に陣取っていた本隊は総崩れとなり、総大将(総理)の田代栄作や加藤織平、井上伝蔵などは、姿を消した。

しかし、戦闘体制を維持していた部隊もあった。動揺、混乱の中ではあったが、戦いはまだ始まってばかりである。このままでは引き下がれない。戦闘意欲に燃えた者たち約250人は、新たに菊池貫平を総理に担いで、信州佐久方面に転戦することを決めた。

菊池貫平は弘化4年(1847)信州佐久郡北相木村生まれ。村内屈指の養蚕農家で代言人であり、自由党に入党。

秩父と佐久とは尾根伝い十石峠を越えて、古くから人や物の行き来があった。佐久の農民たちも困窮し、高利貸しからの借金に苦しんいたことでは同じであり、貫平は秩父困民党とつながっていた。

秩父蜂起にあたり、貫平は誘われ、井出為吉らとともに合流。困民軍は秩父、佐久、そして一部上州(群馬)を含めた連合軍となり、貫平は参謀長に就いた。

貫平は有名な軍律五か条をつくり、椋神社境内での総決起のさい、読み上げた。

一 私二金円ヲ略奪スル者ハ斬
一 女色ヲ犯ス者ハ斬
一 酒宴ヲ為シタル者は斬
一 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
一 指揮官ノ命令二違背シ私二事ヲ為シタル者ハ斬

困民軍はただの百姓一揆ではない、政府を倒すという、高い志と規律をもった軍隊であったことを示している。

もう一人、島崎嘉四郎は万延元年(1860)、上吉田村生まれ。「チガヤ(千鹿谷)の大将」と呼ばれ、地の利を生かしたゲリラ戦で警官隊を攪乱していた。30人を連れ、貫平に合流した。

貫平率いる250人は敗残部隊ではあったが、世直しの志は持ち続けていた。佐久に行けば、新たに農民がかけつけ、体制を立て直せるという算段があった。

実際、地元佐久での貫平の人望は厚く、馳せ参じる者もおり、炊き出し、宿泊等にも協力。秩父同様、高利貸し、銀行を襲撃した。

しかし、官憲は彼らを執拗に追跡。高崎からも新たに軍が投入された。

困民軍は佐久から南下していたところ、小海(東馬流)で包囲され、早朝一斉射撃を受け、あっけなく壊滅した(死者13人)。

山中に四散した困民軍の大半は、張り巡らされた追跡網で捕まったが(自首した者もいた)、菊池貫平と島崎嘉四郎は逃げ続けた。

菊池貫平は困民党最高幹部の一人であったことから、この間、欠席裁判で死刑を宣告された。

貫平は関東各地(東京、土浦など)に逃げあと、蜂起から2年後の明治19年12月、甲府の博徒のもとに偽名(小島和三郎)を使って身を隠していたところを逮捕された。

しかし、明治22年、帝国憲法発布の大赦によって無期懲役に減刑、北海道十勝監獄に送られた。さらに、明治38年、日露戦争恩赦により出獄。故郷の北相木村に帰り、大正3年没した(68歳)。

昭和6年、孫の高橋中禄が祖父から聞いたことなどを綴った「秩父一揆巨魁の逃鼠」という文章があり、上記逃亡先を書いているが、詳しい状況については触れていない。かくまってくれた人たちに塁が及ぶことから、語らなかったのであろう。

捕縛地が甲府ということは、同じ山梨県高田村の小澤新作とも接点があったかもしれないが、証拠はない。

島崎嘉四郎については、春田国男「幻歌行―秩父困民党 島崎嘉四郎の生涯」(1984年)に書かれている。

これによれば、嘉四郎は山梨県丹波山村に逃れたあと、甲府で偽名戸籍(千野多重)をつくって、馬車引きをしながら、所帯をもち潜伏。誰にも知られぬまま、大正8年没(59歳)。貫平と同じ甲府であるが、寛平が甲府に入ったのは貫平逮捕後であり、二人の接触はなかった。

甲府時代の嘉四郎の正体が明らかになったのは、ずっとのちの戦後の昭和58年(1983)のことである。

小澤新作は昭和10年没であるから、仮に新作が嘉四郎と接点があったとしても、この人物を「犯罪者」と認識することはない。だから、新作が「かくまった」のは嘉四郎ということはありえない。

以上の考察から、小澤新作がかくまったのが秩父事件の逃亡者であるという前提に立てば、現時点でその可能性があるのは、落合寅市と菊池貫平であろう。

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  菊池貫平
 



コロナ政局2

いま世界が止まっている。コロナによって。

こんな経験は初めて。まさかここまで混乱が広がるとは、予想できなかった。株価も大暴落。世界の隅々まで大きな影響を与えているということにおいては、歴史上、1929年の世界大恐慌の時がこんな状態だったのではないだろうか。

その意味では、この騒動は歴史的大事件として、世界史に記録されるだろう。そのただ中にいまの自分がいることを自覚しなければならないと思う。

震源地の中国はほぼ終息、韓国もそれに近いようで、いまはヨーロッパが大混乱の渦中にある。そんな中、日本は先が見通せない。

中国、韓国は徹底した検査を行ったから、感染者数も多く出た。しかし、日本ではいまだに検査を抑制している。毎日の感染者数の発表は30~50人ぐらいで、他国に比べてみかけは少ないが、この水準はずっと変わっていないし、全国各地で感染ルート不明な患者があちこちで現れている状態が続いている。

このことは、発熱等の自覚症状はないが感染している人が無意識のうちにウイルスをばらまいているということになる。だから、中・韓と違い、終息が見通せない。こんなことでは、東京オリンピック開催はむずかしいだろう。

連日、世界各国のトップの悲鳴のような叫びがテレビに出てくる。どの国も必死である。

しかし、日本は違う。トップの必死さが伝わってこない。最初のころは、記者会見すらなかった。学校の一斉休校を訴えたときは、対策会議で下を向いて原稿を読んでいた。

その後、やっと2回、記者会見をしたが、やはり前を向いて話さない。左右や下の原稿を見ながらでないとしゃべれない。これでは、必死さが伝わってこない。

世界も日本もいまは危機である。こんな時に、こんなトップをもつ日本は、世界に対して恥ずかしいと思う。

安倍首相は自分のことしか考えていない。その表情からわかる。

いまの難局から国民の生活をどう守るかではなく、自分の政治的地位(権力)をどう守るか、さらにはこの状況をどう利用し、どう強化していくかを考えている顔である。

初期の水際対策、クルーズ船対応と失敗続きではあるが、直近の世論調査では安倍内閣支持率は上昇に転じている。

これは安倍内閣を積極的に支持している訳ではなく、ほかに頼るところがないからであろう。これ以上の混乱は避けたい。対外的危機のさいには、国民が身を守るために結束する。

桜問題、検察庁長官人事問題でここのところ追い詰められていた安倍首相にとってコロナは神風である。毎日テレビで顔がアップされる。これをうまく利用しようとしている。

当面は、次の衆議院解散をいつにするのか。オリンピックがなくなるであろうことで、7、8月がチャンスという見方も出てきている。

森友、加計問題で始まったように、安倍政権はウソと改ざんまみれである。そんな危険極まりない政権に対して、国会は非常事態宣言の権限を与えてしまった。

こともあろうに野党もこれに乗ってしまった。(共産党、れいわ、を除く)これでは憲法に非常事態条項を加えることの先例を与えたことになった。安倍首相にとって、ピンチはチャンスとなったようにみえる。

しかし、一方で、おととい、森友問題で自殺した財務省職員の妻が夫の遺書を公表し、国と佐川氏を訴える裁判をおこした。この問題はまだまだ終わっていない。

安倍政権を一日でも早く終わらせなければならない。

すっぴん

8年間続いてきたNHKラジオ「すっぴん」が3月13日で放送終了した。

同番組は、ずっと藤井彩子(あやこ)アナウンサーがアンカー(司会)をつとめていたが、私が聴きだしたのは2年ほど前から。といっても家の中ではなく、たまに家の庭をいじったり、畑仕事をしたりする際に、である。

ラジオがいいのは、何か手作業をしながら聴けること。テレビでは画面に眼がとられるので、そんなことはできない。ラジオは一挙両得、お得感がある。伝次郎(パグ犬)の散歩の時にも、ラジオを手にもつようになった。

「すっぴん」の放送は月~金の午前8:30~11:50で、曜日ごとにパーソナリティー(相手役)が固定。

直近は、月=サンキュータツオ、火=ダイアモンド・ユカイ、水=能町みね子、木=川島明(麒麟)、金=高橋源一郎、であった。

みんな話に一癖、二癖ある、しゃべれるインテリタレントである。個性と主張がある。

私は、この中では、番組最初からつとめたという高橋源一郎(作家)が一番聴きごたえがあった。「源ちゃんのゲンダイ国語」というコーナーがあり、いろんな文学作品を紹介、朗読していた。

その中で一番印象に残っているのは、昨年、金子文子の獄中手記「何が私をそうさせたのか」。よくぞNHKがこの作品を、と思った。それは、そもそも高橋源一郎という社会派作家を使っていること自体がそうだ。

最終回は金曜日で高橋源一郎であったが、その席に、昨年あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」の芸術監督をつとめた津田大介が呼ばれていた。津田は以前2年間、この番組のパーソナリティーも務めたそうだ。驚いた。

いまのNHKは安倍政権に忖度しまくっている。権力を監視するという報道機関の役割を放棄している。

同じNHKであるから、ラジオも同じなのであろうが、まだましのような気がする。ニュースの解説等でも、オヤッと思うことが時々ある。テレビよりも深堀りしている。現場の裁量がまだ大きいのか。

ラジオもテレビも相手から一方的に情報が入ってくることでは同じであるが、ラジオのほうがまだコミュニケーションがとれるような気がする。相手の顔が見えない分だけ、言葉が心の奥に入ってくる。テレビでは登場しないような人物も結構登場する。

民放ラジオ(文化放送、高知放送)では、「アーサービナードの午後の三枚おろし」という番組(月~金)がある。アーサービナードはアメリカ生まれで、鋭く斬り込む。この前は、ズバリ、「アメリカは戦争で日本を手に入れた」と言っていた。

かつてテレビが社会に出現したころ、評論家の大宅壮一は「一億総白痴化」と言ったことは有名。私もそうなっている。

テレビを見ないのが一番いいのだろうが、もはやそれはできない。これからは、せめてラジオに少しずつシフトしていきたいと思っている。

ふるさと納税(4)

高知新聞(3月11日)から。

奈半利町議会が3月10日開会し、町の新年度(2020年度)当初予算案が提出された。

総額は前年度比45%(約31億円)減少の37億3200万円。主な要因はふるさと納税寄付額の減少を見込んだものという。

同町のふるさと納税による寄付額は、2017年度39億円(全国9位)、2018年度37億円でと巨額であったが、2019年度は4億円と大幅に減少すする見込み。

その要因は、過剰な返礼品競争が全国的に問題になったことから、政府が返礼品は寄付額の30%以下に抑えるよう指導通達を出したこと。同町は、それまで高額な返礼品をつけることで多額の寄付を集めていたので、大打撃を受けた。

このことは、寄付者は奈半利町の発展等のためというよりも、返礼品が豪華なものかどうかを物差しにして、寄付を決めているという実態をはっきりと示している。

2019年度予算を策定後、この政府通達が出たものだから、当初予算が大幅にくるってしまった。これに加え、今回の職員不正事件によるマイナス影響をふまえ、2020年度はあらかじめ寄付額を抑えて予算をつくった、ということである。

町の予算(歳入)の約半分をふるさと納税の寄付額で占めてきたというのは、異常である。この制度はいつまで続くかわからない中で、リスクが大きすぎるというものだ。

しかし、そもそも、このような異常な財政運営にさせてしまった責任は政府にある。先にも書いたように、他の自治体に本来入るべきであった住民税を横取りするのを推奨する制度を政府がつくったのだから。自治体としても、うかうかしていると、他に税金を奪われてしまうのだから、やらざるをえないドツボに入れられている。

自分のふるさとのため、などとして、純粋な気持ちで寄付をする人はいる。そうした人は、税金の控除がなくとも、ましてや返礼品などなくても、これまでも寄付をしてきた。

そうした人たちは、ふるさと納税制度を迷惑に思っていることだろう。純粋な気持ちの寄付と、返礼品ねらいの「不純」な「寄付」とがごっちゃにされてしまうからだ。

こんな制度は早くやめるべきである。

ふるさと納税奈半利

ふるさと納税(3)

高知県奈半利町でふるさと納税を担当している職員の不正が3月3日、発覚し、県内だけでなく、全国にも大きく報道された。

ふるさと納税奈半利町

私はこれまでに、ふるさと納税の問題点について、2回書いた。(第1回 2015.12.18、第2回 2016.11.30)。

ふるさと納税は2008年から始まった制度であり、私は当時これの導入にかかわった。その行政経験から、現状この制度は、当初の目的からは変質してしまったので、廃止したほうがいいと書いた。

今回の事件は、制度が変質してしまえば、こういう問題も出てくるだろうと予想したことであった。

奈半利町は、現在人口約3100人の小さな町であるが、この制度ができたころから県下では断トツの寄付額を集めていることで有名であった。この間、四国でもずっと1位。2017年度39億円は全国でも9位であった。(2018年度も37億円)

町の一般税収以上の寄付額を集め、ふるさと納税による町づくり、地域おこしをおこなっていることが、テレビなどでも紹介されていた。

ふるさと納税はその人のふるさとや、縁のある自治体に寄付をするという、善意のこころを前提にしてつくられものだ。そのうえで、寄付をしやすいように、寄付額を税金から控除してやる仕組みにした。

ここまではよかったが、各自治体が寄付を多く集めたいがために、寄付者に対して返礼品という「おみやげ」をつけるようになってからおかしくなった。高額な返礼品をつけることにより、自治体間の寄付争奪戦が始まったのだ。寄付の争奪ということは税金の奪い合いということである。

寄付をするほうも、最初は返礼品などよけいなものはなかったので、純粋な寄付というのが当たり前であったが、返礼品がつくようになると、返礼品狙いが主目的になってしまった。

しかも、その上に、税金も引いてくれるとなると、節税になる上におみやげももらえるということで人気が沸騰。政府公認の節税策を利用しない手はないということになった。

自治体は自治体で、これに乗り遅れると、税収が減る(他の自治体にとられる)ことになることから、必死で寄付を集めなければならない。自治体同士の税金争奪戦はどんどんエスカレートした。

「全国特産品斡旋制度」になったしまったこの制度において、間違いなく得をするのは、寄付者(節税になる)と特産品生産販売者(自治体への納入者)。自分で営業活動をしなくても自治体が販売をしてくれるのだから、ありがたいことだ。人気商品になれば、黙っていても次から次に注文が来る。

今回の事件は、こうしたたくさんの注文を受ける業者に対して、役場担当職員が利益のバックペイを要求したという構図なのだ。

役場職員からすれば、自分が注文をとってやったのだから、要求は当たり前だという感覚だったのだろう。お互いにとって、それだけ「うまい商売」だったということだ。

異動もなくずっと担当をしている役場職員にとっては、それがいつのまにか自分の利権だという思い上がりに陥ってしまったのだろう。

私は「全国特産品斡旋制度」になってしまったこの制度のすべてが悪いというつもりはない。この制度によって生産者は刺激を受け、地場特産品を開発しようという機運が盛り上がり、努力して開発に成功している例も多いことであろう。そうした人には、この制度は頼もしい応援団となっている。

しかし、全国的視点、トータルで見れば、自治体同士が総額では同じ税金を奪い合う構図には変わりないのであり、生産者にとっても「おんぶりだっこ」「他力本願」に頼るよりも、自力で販売する努力をしたほうが自らの血となり肉となり、将来の事業継続・拡大にもつながることであろう。

今回の事件は全国的にみれば、氷山の一角であると思う。まだまだ、これからいろんなことが出てくるとだろう。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
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