FC2ブログ

コロナ政局4 スペイン風邪は3波3年続いた。

きょうで4月が終わる。新型コロナの状況は、ますますひどくなっている。

きのうの休日(昭和の日)、中村に車で出かけたが、飲食関係の店はほとんど全部閉まっている。先週まで開いていたコメダ珈琲店、花まるうどん、肉そばラーメンも。マルナカスーパーは開いていたが、休憩・喫茶コーナーにはロープが張られていた。マクドナルド、ミスタードーナツは、テイクアウトだけ。

GWの初日だというのに、車も少なかった。三密を避け、河川敷を散歩する人が目立った。家の中にずっといることができないのは誰も同じだ。

休日なのに国会は開いていた。コロナ対策の補正予算を早く通さなければならないので、野党も協力。ただし、論戦は激しくやっている。

いま社会が止まっている。こんな経験はいまの日本人のだれもしていない。空から爆弾が降ってきて日本が戦争に負けた時も人は動いていた。

いまと同じような状況といえば、大正7年(1918年)のスペイン風邪大流行の時だ。しかし、その記録は正確には残っていない。その時、中村の町がどういう状況だったのか。先に幸徳秋水の従弟で中村の医師安岡友衛の妻がスペイン風邪で命を落としたことは書いたが、その他の事例はわからない。

当時は、コレラや赤痢など、毎年のようにいろんな疫病が流行していた。スペイン風邪は犠牲者が多かったとはいえ、その中の一つであり、さして詳しく記録に残すほどでもなかったということのようだ。防疫体制が進んだいまとは意識・感覚が異なるのだ。

そうした中、土佐史談会副会長の公文豪さんが2012年12月「土佐史談」251号に書いた論文「スペイン・インフルエンザと高知県」は当時の少ない記録、新聞記事等から調査したもので、貴重である。

→ http://tosashidankai.com/image/251supeinnkaze.pdf?fbclid=IwAR0r1Sf6V-IiR6AoxD5Ha0jbyNhEpH7jQNRx2BLt5NPrxW_B_0gIS0LxAkk

スペイン風邪では世界人口の三、四分の一がかかり、日本では約40万人が死亡したと言われている。しかし、正確な数字データはない。

高知県では当時の内務省衛生局の記録では死者924人とされているが、歴史家速水融の推定では3,410人であり、幅が大きい。いずれにせよ、いまよりひどい状況であった。公文さんは、当時の新聞などでその状況を調べている。

学校、飲食店などがほとんど休んだのは、いまと同じ。違うのは、

1、 軍隊(高知44連隊)1600人中1500人が罹患。演習もできず。
2、 新聞(土陽、高知)の紙面が大幅縮小。最悪2ページに。
3、 郵便局で電報の受発信が止まった。
4、 警察派出所に警官がいなくなった。
5、 裁判所では民事、刑事とも公判が開けなくなった。
6、 土電の運転が日に数本になった。
7、 監獄の囚人にも感染拡大。
8、棺桶がなくなり、値段が倍になった。35円→6,70円。

いまより深刻な状況だったのがわかる。宮尾登美子の小説「櫂」には、貧民街に特に蔓延したと書かれている。

スペイン風邪は大正7年が最悪であったが、その後3波、3年にわった。時間がたてば免疫ができるので、罹患者は少なくなるが、逆に致死率は高くなった。ウイルスが強大化するためだ。

歴史は繰り返す。いまの新型コロナも、いったん夏ごろには落ち着くかもしれないが、さらに強いウイルスとなって、2波、3波が来ることは予想しておかなければならない。

あと2,3年は続く。来年に延期されたオリンピックは、またダメだろう。オリンピックどころではない。やっかいな時に、やっかいなものを、もってきたものだ。

いまみんな体調がおかしくなっているが、この状況は続く。コロナとは長いおつきあい。イライラするよりも、早く、生活ををいまの状況に慣らせたほうがいい。

豊ノ島関 ありがとう

大相撲の豊ノ島関が引退した。ご苦労様でしたと、ねぎらいたい。

地元を長く離れていた私は、朝潮、土佐の海など、高知県出身力士を応援してきた。中でも、豊ノ島は同じ幡多(宿毛)出身ということで、ぐっと親近感が増し、特に力が入った。

豊ノ島の本名は梶原大樹。父親の一臣さんは私の高校の1年後輩だと知ったことで、さらに応援に力が入った。

私は2004~2008年、大阪に勤務していたころ、高知県人会に入っていた。そのころ、豊ノ島は十両から幕内に上がってきたので、県人会で豊ノ島後援会をつくった。会長経営の土佐料理屋で「激勝会」と称して激励会を開き、なんばの大阪体育館にも応援に出かけた。

DSCF1635.jpg   DSCF1634.jpg

豊ノ島が所属している時津風部屋は、春場所は大阪市内の八王子神社に陣を張っていた。八王子神社は私の住んでいた家の近所だったので、稽古のもようも見に行った。

激勝会では、豊ノ島は力士にしてはめずらしく、酒が飲めなかったが、ニコニコして、みんなときさくに話してくれた。

私が市長になった直後、宿毛に帰省したさいには、市役所に挨拶に立ち寄ってくれた。私は、宿毛の秋沢ホテルで開かれた、元歌手沙帆さんとの結婚報告会にも出席させてもらった。

当時の宿毛の中西市長が、豊ノ島のおかげで、全国の皆さんが宿毛を「スクモ」と読んでくれるようになったと、喜んでいたことを思い出す。

豊ノ島の活躍のピークは、14勝1敗で横綱白鵬と優勝決定戦をたたかった2010年11月場所であった。あの時は、本当に優勝するかと思った。

その後は、ケガもあり、幕下まで落ちたこともあったが、なんとか幕内に復帰した。しかし、また幕下に落ち、ついに力尽きた。

36歳と言えば、まだまだ若いが、相撲の世界では限界であり、仕方がないだろう。今後は井筒親方として後進の指導にあたるそうだ。

この間、郷土の誇りとして、みんなを楽しませてくれたことに、お礼を言いたい。

地元で慰労会を開いてやればいいのだろうが、コロナ蔓延の現状では、申し訳ないが、とても無理であろう。

その分、心から言いたい、ありがとう豊ノ島。

2008_0301 (6)

2008_0301 (16)   2008_0301 (18)



コロナ政局3 韓国に学ぼう

新型コロナで、志村けんに続いて女優の岡江久美子もきのう亡くなった。PCR検査を受けられず自宅で待機していたら体調が急変、大学病院に緊急入院したが間に合わなかった。

また、埼玉県でも、自宅待機中に、男性二人が死亡した。

こうした事態は急激に体調変化するという、新型コロナの恐ろしさを見せつけているし、日本政府がとってきたこれまでの対策の基本が間違っていたことをはっきり示している。

日本では医療崩壊を防ぐためという名目で、PCR検査を抑制し、少々熱が出ても自宅で待機をさせてきた。クラスターを発見し、個別撃破することを優先したためだ。

すでに市中感染が広まっている日本では、もはや遅いと思われるが、今朝の報道によると、政府は軽症者でもホテルなど、指定した施設に隔離することに方針転換したようだ。

この点、韓国の対策は正しかった。日本より早くにコロナ感染が広まったが、まず検査優先で、徹底したPCR検査を行い、広く感染者を見つけ出し、いちはやく借り上げたホテルや国の施設などに隔離した。

こうした対策が功を奏し、韓国では現時点でコロナ感染はほぼ終息している。あれだけ、急速に感染者が増えたのに、いまでは日本のほうがその数が上回っている。韓国では、5月からは、プロ野球も始まる(当面無観客ではあるが)という。

4月15日行われた韓国総選挙では、こうした対策が評価をされ、文在寅大統領の与党側(共に民主党)が圧勝した。

私は与党側が勝つことを期待していたので、よかったと思う。韓国の人たちは賢明な選択をしたと思う。

しかし、今回思うのは、選挙結果よりも、コロナが終息されつつあったとはいえ、こんな危なっかしい時に、徹底した感染予防対策を講じたうえで、選挙をやりきったことがすばらしい。

しかも、投票率は前回から8.2ポイント上がって66.2%になった。驚きである。コロナ感染という国家的危機の中で、国のいまを託す政権はどちらがいいか、与野党支持者を問わず、国民全員が真剣に考えた結果である。国民の危機管理意識が高かったということだ。

強い発信力、求心力をもつトップがいたことも幸いしたのだろう。

いまの日本ではこんなこと考えられないことである。これから先、少々落ち着いてきたとしても、これだけ完璧な選挙などできっこない。何よりも違うのは、トップに求心力がないことだ。

それにしても、いま日本では、韓国のこうしたコロナ終息の状況が報道されることはほとんどない。1,2か月前、日本ではまだ感染者が少なく、韓国では急増しているころは、さかんに韓国の悲惨な状況が流れていた。

それを見て、日本は対策がうまくいっているので、あんなひどいことにはならないだろうというような満足感のようなものがあった。「日本のほうがすぐれている」という潜在意識である。

ところが、いま事態は逆転している。いまこそ、韓国に学ばなければならないのに、とたんに韓国の報道がなくなった。

日本は遅ればせながら、PCR検査拡大と感染者早期隔離という韓国と同じやり方に方針を転換したのだから、素直に韓国に学べばいい。韓国の成功事例をどんどん報道すればいい。

それができないのは、歴史的に培われてきた、韓国、朝鮮への差別偏見意識から現政権が脱していないどころか、最近の従軍慰安婦、徴用工問題にみられるように、逆に差別偏見をあおっているという背景があるからだ。

私は昨年7月、韓国慶聞市で開かれた金子文子追悼式典するために初めて韓国に行って来た。そこで、幾多の民族的試練を経て来た韓国の人たちの心の広さと深さを知った。そんな民族的底力が今回の危機にさいして発揮されたのだと思う。

金子文子追悼式で知り合った韓国日報(韓国五大紙の一つ)の金宰鉉記者から、いまの日本の新型コロナの状況について電話取材を受けて、以上のような話をしたところ、こんな記事になったと送ってくれた。(4月18日付韓国日報記事)

→ https://www.hankookilbo.com/News/Read/202004171241386302?NClass=HI01

日本はいさぎよく韓国に学ばなければならない。

20200502112258775.jpg
高知民報2020.5.3



スペイン風邪と安岡友衛

いまコロナで世の中の動きが止まっている。4月15日、厚生労働省クラスター対策班がコロナ対策を何もしなかったならば42万人の死者が出るであろうという推計数字を発表した。

実際は各種対策を講じているので、ここまでの死者が出ることはないだろうが、本気で取り組まないと大変なことになるという警告である。

今回と同じパンデミックの先例にスペイン風邪がある。今から100年前の1918年(大正7)~1921年(大正10)年、世界で猛威をふるった。

スペイン風邪には当時の世界人口の三分の一がかかり、4,5千万人が死亡したとも言われているが、当時は第一次世界大戦の時期であり、参戦国は情報統制をしたことから、正確な数字はわかっていない。

最初の発生はアメリカ軍だと言われている。当時、スペインは中立国で情報を公開したので、同国の被害がクローズアップされ、不名誉な名前が付けられたようだ。

日本では約40万人が死亡したとされている。今回の推計42万人とほぼ同じ数字だ。流行は3波に及んだ。当然ながら、高知県でも多数の死者が出た。

高知新聞4月14日の「声ひろば」に高知市の76歳の男性が、大正7年11月5日、祖父37歳がスペイン風邪で亡くなり、当時4歳だった父たち残された家族は困窮生活を余儀なくされた、と書いている。

当時、中村の医師であった安岡友衛も妻瀧江をスペイン風邪で失っている。友衛は幸徳秋水より2歳下(明治6年7月1日生)の従弟(いとこ)。父は安岡良亮の弟良哲、母は秋水の母多治の妹嘉弥。

明治41年5月、秋水最後の帰省中、岡山の森近運平が中村に訪ねてきたさい、幸徳家親戚を交えて撮った記念写真の中に友衛も入っている。(前列右より、友衛、運平、秋水)

前列右 安岡友衛、森近運平、秋水 明治41年5月中村で

同じく秋水の従妹岡崎輝(旧姓小野)が戦後書いた「従兄秋水の思出」によれば、秋水が東京で最初の結婚をしたのは、友衛も医学の勉強のために東京に出ていた頃であった。

秋水は相手(西村ルイ)が気に入らず、すぐに実家の福島県郡山に帰した。その時、送り届けるために同行させられたのが友衛であり、あとで輝の祖母安岡千賀(良亮の妻)から「なんでそんな怪しからん使いに行つたか」と叱られた。

友衛は医師として秋水母多治の最期を看取った。友衛は秋水と同じ木戸門下生で、漢文の才もあった。秋水は獄中から母あてに送った有名な漢詩「七十阿嬢泣倚門」の意味は友衛に聞きくようにと手紙に書いた。友衛はその通り母に教えてやった。

友衛の往診には刑事の尾行がついた。夜の往診に出る時、娘がこわくないのかと聞かれ、お巡りさんも一緒だから平気だよと笑ったという。

岡崎輝は晩年、中村の郷土史家上岡正五郎氏にあてた手紙に、「(友衛は)立派な人格をそなえていました。私は身辺の人のうち最も尊敬したのは(安岡)秀夫でも秋水でもなく友衛兄でした」と書いている。

友衛の妻瀧江がスペイン風邪で命を落としたのは6人目の子を出産した直後。医者の友衛は、いろんな措置を講じようとしたが、あまりにも急なことで間に合わなかった。瀧江37歳。高知新聞投書の方の祖父と同じ大正7年11月の30日であった。

この時生まれた和子さんは、のちに初代中村市長になった森山正氏に嫁いだ。

友衛自身もその3年後、大正10年10月30日、喉頭ガンで没。51歳であった。

以上の話は、安岡友衛の孫の岡添眞子さん(友衛次女惇子さんの娘、中村在住)から聞いたものである。

裁判所の塀と秋水桜

幸徳秋水の墓がある浄土宗正福寺の墓地は裁判所と隣接しており、境界には裁判所が建てた塀がある。この塀が3月末、取り壊され、新しく作り替えられた。

正福寺は、本ブログ2019.12.28にも書いたように、承元元年(1207)建立、法然ゆかりの古い寺である。

勤皇討幕運動がさかんだった当地では、明治になると廃仏毀釈が横行。そのあおりを受け、中村の他の多くの寺同様、明治4年、正福寺も廃寺になった。

明治9年、広い本堂跡には中村区裁判所(検察部併設)がつくられた。現在は高知地方裁判所中村支部、同検察局中村支部になっている。

墓地の場所はそのまま残り、明治36年、寺が再興されたさい、新しい本堂はいまある位置(高知県幡多総合庁舎隣)につくられた。

秋水刑死の3か月後、明治44年4月、堺利彦が幸徳家慰問に来た際、京都丹波の岩崎革也に報告した葉書は裁判所の写真が載った絵葉書であり、当時の裁判所の様子がうかがえる。

2020042012532220c.jpg

墓と裁判所の境には、戦後の写真によれば、木が植えられていたようだが、昭和54年、裁判所、検察庁がいまの庁舎に建て替えられたさい、ブロックを積み上げた塀が作られた。

しかし、経年劣化と次の南海地震対策として、墓入り口付近の検察庁敷地の塀が昨年9月、秋水、清馬墓に面した裁判所敷地の塀がこの3月、樹脂製のフェンスに替わった。

幸徳家の墓が正福寺につくられたのは、裁判所ができるずっと前の江戸中期であるが、のちに秋水が不義不当な暗黒裁判によって処刑され、ここに眠っていることを考えると、断ちがたい因縁を感じる。

秋水墓は禁断の墓とされ、日本敗戦まで、参拝者は裁判所窓越しに監視された。秋水は死んでも安らかに眠ることを許されなかった。

今では、いつ植えられたのかわらないが、裁判所庭の桜の大木が秋水、清馬に詫びるように枝を伸ばしている。恩讐を超えたように花を咲かせるこの桜を私たちは「秋水桜」と呼んでいる。

いつか塀もなくなってほしいと思う。

20200420124134da9.jpg   20200420124126f14.jpg

202004201241413f1.jpg   20200420124137cb2.jpg




昼のいこい

NHKラジオに「昼のいこい」という番組がある。正午のニュースのあとに流れてくる、あの壮大で、湧き上がるようなバックミュージックは誰もが、一度は聞いたことがあるだろう。私の耳に、こびりついている。この音楽も古関裕而がつくったもの。

→ https://www.youtube.com/watch?v=ByfOU-LIpPw

「昼のいこい」はNHKラジを代表する長寿番組。きのう畑の草刈りをしながらラジオを聞いていたら、「昼のいこい」の歴史について、最初に担当したアナウンサー(ニヒラタケオ)の証言録音(1990年、「言葉の歳時記 あの日あの時」)が再放送で流れていた。

それによると「昼のいこい」の前身は昭和24年に始まった「農家のいこい」。「職場のいこい」という番組と交互に、今と同じ、毎日昼休みの時間帯に放送していたという。

農家向けと一般向けとに分けていたのだが、農家向けのほうの評判がよかったので、昭和27年11月から農家向けに一本化して「昼のいこい」としたということだ。昭和27年と言えば私と同級生(私は昭和28年2月生まれ)。

食糧増産が叫ばれていた時代、全国の農協職員や農事改良普及員(農林水産通信員)から、コメや野菜のつくり方など、農家の生活に役立つ情報を、音楽を交えながら短い時間(10~15分)で提供する。農家は、野良着姿で田んぼの畔などで昼ご飯をたべ休憩しながら聞き、メモをとり、作業に役立てる。

古関のバックミュージックはそんな光景にぴったりである。緑と土に抱かれた農村には夢が広がる。農村が日本を引っ張り、支えている。そんな誇りをもった農家の人たちの支持をえて、この番組は続いてきた。実用性を目的にしたものであった。

私自身の記憶でも、中学生のころ、父について家の山林の下草狩り(山の下刈り)に行き、谷川のそばで昼めしを食べた時、この音楽が流れていた。あの時のシーンが一番古い。今は亡き父との、大切な思い出とセットになっている。

しかし、番組が始まってから67年後の今、農村の現実は様変わり。農村では、子供の顔が消え、学校がなくなり、老人ばかりが目立つ。田んぼは見捨てられ、山は荒れている。

番組の中身も、農家向けから一般向けに変わり、日常の生活の一コマの便りを紹介している。

時代が変わったのだから、これはこれで仕方がない。いまの話題もほのぼのするものばかりで、こころ癒される。古関の音楽もそのままである。

古関の音楽が終わる時が、この番組が終わる時である。

この番組がずっと続くことを願っている。


古関裕而

作曲家古関裕而夫妻を主人公にしたNHK朝ドラ「エール」が始まったので、なるべく見るようにしている。以前から古関裕而に興味、関心があったから。

第一に、国民歌謡のシンボルと言われる古関は数々の名曲を残している。私の耳に染み付いているのは、「栄冠は君に輝く」「六甲おろし」「東京オリンピックマーチ」「NHKスポーツショー行進曲」など。

行進曲風で、かろやか、小気味がいい。自然に一緒に口ずさみ、足もあげたくなる。歌謡曲の「長崎の鐘」「高原列車は行く」「君の名は」などもいい。

第二に、私が農林中央金庫に勤務していたころ、同世代の同僚に古関の母校福島商業高校出身者が何人かおり、OBの中で有名人は古関だという話をなんどか聞いた。また、古関という姓は福島県に多いようで、同姓の先輩もいた。

第三に、古関は一方で、戦時中、戦意高揚、国民動員、鼓舞のための軍歌などもたくさんつくった。「愛国の花」「若鷲の歌(予科練の歌)」「暁に祈る」などは有名であり、勇ましい中に哀愁を帯びたメロデイーは日本人の心をつかみ、いまもカラオケなどでよく歌われている。

軍歌をいまも個人が歌うのはいいとしても、自衛隊音楽隊が歌う「愛国の花」がネットYouTubeで流れているのにはゾッとする。古関のふたつの顔には、不気味さを感じる。

古関が生きたのは1909~1989年。晩年は私の時代と重なるが、テレビなどで顔を見た記憶はない。曲で覚えている。

古関の曲は歌いやすいので、覚えやすい。だから、国民歌謡と言われるのだろうが、それだけに、人の心や感情をコントロールすることができるので、戦争などに利用されやすい。歌はおそろしい。歌は武器になる。

古関自身、敗戦直後は、自分の歌を聞いて勇んで戦地に赴き死んでいった若者たちにも申し訳ないという懺悔の思い、戦犯として拘束されるのではとの恐怖も、もったと言われている。

古関の立場にたてば、戦時中は国民すべてがだまされていたのだから、国から頼まれたら歌をつくるのがあたりまえで、何の悩みや躊躇もなかったのかもしれない。しかも、古関がつくったのは、詩ではなく曲である。

しかし、歌というものは詩と曲が一体のものである。詩だけでは人を動かすことはできない。古関は戦後も、自衛隊の歌をつくっている。

古関は、戦中戦後どんな思いで曲をつくり、折り合いをつけていたのか。NHKはそれをどう描くのか。そこに興味がある。

また、「エール」は本来、今年夏に開かれる予定であった東京オリンピックに向けた企画であった。

2回目の東京オリンピックは「復興五輪」の名のもとに宣伝されてきた。東日本大震災、福島原発事故からの「復興」を世界に示すことを「売り」にしていた。

安倍首相は「原発事故処理は完全にアンダーコントロールされている」と世界に大嘘をついた。聖火も福島県からスタートする予定であった。

ところが、コロナの影響で、この夏のオリンピックは1年延期になった。また、「エール」の製作もコロナ感染予防のため、いまは製作中断している。無事最後まで作れるのか。心配である。(それよりも来年のオリンピック自体も危ないと思う)

古関裕而は戦争のために利用された。いままた、福島出身ということでオリンピックのために利用されている。ともに国威発揚のために。

そんな、曰く因縁(いわくいんねん)がついたドラマの行く末に興味がある。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR