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政治と世界遺産(2)

私が当時心配したとおり、5年前に書いた「政治と世界遺産」(1)の続きを書かなければならない事態になった。

2015年7月、ユネスコは、すったもんだの末、「明治日本の産業革命遺産」を世界文化遺産に登録決定した。(1)では、問題であったその経緯を書いた。

→ http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-163.html

問題とは、日本政府が自分勝手な歴史認識に基づいて、世界文化遺産登録を強引に進めたこと。「遺産」の中に含まれていた、軍艦島(端島炭鉱)や高島炭鉱では、強制連行による朝鮮人労働者を使っていたことは広く知られていたにもかかわらず、そのことには触れなかったこと。

つまり、日本の産業革命の「光り」の部分だけを取り上げ、「闇」の部分を隠していたことに、韓国、中国が反発をした。特に韓国は、登録反対を各国委員に働きかけたことから、日本の登録申請はユネスコ総会で否決されるかもしれないというギリギリの事態になっていた。

そこで、妥協案としてユネスコが、日本政府は「意思に反して連れてこられた、厳しい環境の下で働かされた多くの朝鮮半島出身者がいたこと」を認め、「犠牲者の記憶をとどめるため」の情報センターを設置することを求め、これを両国が認めたことで決着した。

ところが、あれから5年たってやっと日本政府がつくり、このほど公開された「産業遺産情報センター」(東京)には、「軍艦島(端島炭鉱)では朝鮮人差別は聞いたことがない」という島民の「証言」が展示された。

これに対し、韓国が反発。この展示は歴史的事実の歪曲であり、5年前に合意した約束に反するものであり、日本に約束を履行させることを求める文書をユネスコに送った。

日本政府は菅官房長官が記者会見し、「日本は今までもユネスコとの約束を誠実に履行してきたし、今も履行している。今回の展示は何ら問題がない。」と述べた。

両国の言い分のどちらに理があるか。

上記経緯をみれば、明らかであろう。韓国側の言い分の筋が通っている。日本は5年前の合意を履行していないことは、はっきりしている。

菅官房長官は、「誠実に履行している」とよくも言えたものだ。喉元過ぎれば熱さを忘れる、過去の約束は時間がたてば反故にしてもよい、という勝手な判断だろう。

この5年間、日韓間では、いろんなことがあった。従軍慰安婦・少女像問題、徴用工問題・・・

特に、徴用工問題では、韓国裁判所が当時の日本企業が補償をするように求め、企業の資産処分を認める判決を出した。

日本政府は、これに反発し、日本から韓国への半導体原材料輸出への優遇措置を撤廃した。今回の情報センター展示は、その延長線にある。日本の腹いせである。

さらに、直近では、アメリカトランプ大統領が言い出したG7参加国を拡大する提案(韓国、インド、ロシア、オーストラリア、ブラジルを加える)に対して、日本は韓国を加えることに反対である意向をアメリカに伝えた。理由は、いまの韓国の北朝鮮政策は融和的だからだという。

度量のない話で、なんとも情けない。こんなことに意地をつっぱるなんて、子供のようだ。世界に対して恥ずかしい。

大事なことは、歴史に真摯に向き合うことである。日本は1910年、韓国を併合したことは、まぎれもない事実である。

残念なのは、これらの問題で、マスコミの報道の突っ込みが浅いことである。両国の対立の表面的なことしか報道しない。結局、NHKを筆頭に、日本政府に忖度しているからである。

報道機関よ、しっかりしろと言いたい。

コロナ政局9 専門家会議(5)

新型コロナ対策専門家会議が突然、廃止・解散になった。6月24日、同会議脇田座長が記者会見し、同時に西村担当大臣が別に新しい分科会を設置すると発表した。

脇田座長は、同会議は政府に対して提言をする場であったにもかかわらず「あたかも同会議が政策を決定しているような印象を与えた」「政府との関係性を明確にする必要がある」として自主解散をしたような言い方をしている。

しかし、これはおかしい。

私は前回書いたように、緊急事態宣言が解除されてからというもの、最近は専門家会議メンバー(特に、テレビの顔になっていた尾身副座長)の発言がないのは、言いたくとも言えない(場を与えられない)のではないか、と思っていた矢先のこと。

記者会見のもよう、その後の報道等から、私の見方はこうである。

政府として、専門家会議の利用価値がなくなったので切り捨てた。このままにしておけば、政府の立場が危なくなるという判断もあった。

専門家会議は政府に提言をしてもらうために、政府が2月につくった。素人集団の政府官邸としては、専門家の判断をあおぐことは正しい選択であった。

尾身副座長がひっきりなしにテレビに登場した。国民はかたずをのんでそれを聞き、納得した。あの当時(いまもであるが)、安倍首相の発言よりも尾身氏の発言のほうがずっと信頼性と重みがあった。

「あたかも専門家会議が政策を決定しているようにみられた」とは、政治家の勝手な言い分であって、国民はそんなことは思っていない。自分の命を守ることに必死であり、同会議の発言を期待し、信じた。

ところが、事態が収束に向かい、緊急事態宣言が解除された前後から、専門家会議と政府の意見が食い違ってきた。

専門家会議は人の命や安全を重視。しかし、政府は経済活動再開を重視した。その調整が難しくなり、専門家会議がつくった文言がたびたび修正された。

例えば、「無症状の人が感染を広げている」という表現がトーンダウンさせられた。

専門家会議メンバーの間には不満が高まった。独自に見解を出そうという動きもでてきた。

そこで、バタバタと脇田座長が政府と調整して、自主解散ということで納めた。

私は、テレビの顔にもなっており感染症対策の第一人者である尾身氏が座長にならなかったことに、ずっと疑問を呈してきた。

24日、記者会見では、めずらしく脇田座長がほとんどをしゃべり、隣の尾身氏はおもしろくないような顔であった。

隣室では、西村担当大臣が同時併行で、政府に直結する新しい分科会をつくると発表した。そのことを、尾身氏は事前には聞かされていなかったようで、「私は知りません」と憮然としていた。

ここに至ってみると、政府はこうした事態も想定をしていたのではないかと思う。

尾身氏に座長をやらせると、こうした事態になった場合抑えきれない。だから、厚生労働省の機関であり身内(国家公務員)の国立感染症研究所所長の脇田隆字氏に座長をやらせた。

専門家会議では政府との間で相当激烈な意見交換があったものと思う。だから、政府は議事禄をつくらなかった。表に出るとまずいから。

そもそも、2月、専門家会議をつくったのは政府であり、その時の発表も政府がおこなったのに、廃止の時は知らん顔で自主解散のような形にした、ということ自体おかしい。

この間、政府は「専門家のみなさんの意見を聞いて」と繰り返してきたのに、要は自分の都合がいい時には専門家を利用し、都合が悪くなったら切り捨てる、ということである。

宇都宮健児さん

弁護士の宇都宮健児さんが3度目の都知事選に出馬している。過去2回は次点に甘んじたが、今度こそはと、期待している。

私が宇都宮さんを知ったのは、もうだいぶ前になる。サラ金問題が世間を騒がせていたころ、被害者救済に奔走している弁護士がいるということで、有名になっていた。

その頃は、街にはサラ金の看板が林立していた。武富士、プロミス、アコムなどの大手から、名もない業者まで。

宇都宮さんらの奮闘で、サラ金の実態が明らかにされ、その後、不当に高い金利を規制する法律ができたことなどから、いまはそんな名前の企業は消えてしまった。

しかし、当時より貧富の格差が拡大している今は、貧困化の問題は深く潜行している。生活困窮者の多くが多重債務に苦しんでいる構図は変わらない。

宇都宮さんは、常に社会から排除され、虐げられている社会的弱者の立場に立っている。弱者は世の中の仕組みによってつくられる。その仕組みを変えない限り、根本的な解決にはならない。

宇都宮さんが選挙に出るのは、そのためである。

私は宇都宮さんとは何の面識もないが、親近感をおぼえることが二つある。

一つは、宇都宮という名前と出身地。

宇都宮さんは、昭和21年、愛媛県の明浜町(いまの西予市)の漁村に生まれた。宇都宮姓は愛媛県が全国で一番多い。その多くは西予地区。

戦国時代、西予には宇都宮氏という国人・武将がいた。周辺の河野氏や西園寺氏と覇を争っていた。

同時期、土佐の中村には京都から下向してきた公家大名一條氏がいた。一條氏は土佐の西部から南予にかけて勢力を拡大し、4代兼定は、宇都宮豊綱の娘を最初の妻に迎えた。そんな同盟関係にあった。

二つは、大分県国東半島。

宇都宮さん9歳の時、家族は豊後水道を渡り、国東半島に開拓農家として入植。愛媛県はミカン産地であったことから、多くの人たちが、当時、国や大分県が国東半島で進めていたミカン栽培のパイロット事業に参加。電気もない山の中に入り、山を削り、木の根を抜いた。

戦後間もないころは、戦地や満州からの引揚者などが、全国各地に開拓入植した。大分県には、ミカンだけでなく、畜産、高原野菜などへの入植もあった。

資金力に乏しい、そうした入植者たちは、開拓農協をつくり相互に助け合った。

私が昭和51年、農林中央金庫に入って最初に勤務した大分支店では、大分県開拓農協に資金を融資していた。組合の運転資金と、組合員への転貸資金を。

新米の私はその直接の担当ではなかったが、開拓農協の担当の方がよく窓口に見えていたので、いろんな形でのお付き合いがあった。

開拓農協担当の先輩はあちこちの組合員農家を訪ねていた。厳しい生活実態をみると、資金の返済の話をするのがつらいということを言っていた。私も耶馬渓にある畜産農家に一度連れていってもらったことがある。

宇都宮さんは、開拓に汗を流していた両親の苦労が身に染みてわかっている。家の手伝いをしながら、一生懸命勉強をした。

がんばり屋で、成績が優秀だったことから、中学途中から熊本の親戚の家に預けられた。熊本高校から東大法学部へ。駒場寮に入る。

在学中に司法試験に合格。親に負担をかけまいと、卒業をまたずに司法修習生に。卒業証書をもらってからでもいいと思うのだが、その必要は感じなかった。

そして、いまがある。

宇都宮健児さんは、そんな人である。自ら苦労に中に飛び込んでいく。弱者の立場に立てる人。

ぜひ、都知事になってほしいと思う。

コロナ政局8 専門家会議(4)

最近、新型コロナ対策専門家会議のメンバーの顔を見ることがなくなった。あれほど連日テレビに登場していた尾身茂氏(副座長)の顔も見ない。

政府が発した緊急事態宣言が解除され、いまは段階的に普段の生活に戻りつつある状況にはあるが、いずれ第2派、第3派が来ることは間違いないところである。

いまでも連日、東京を中心に、新規感染者が確認されており、いつまた感染が拡大転ずるのか、みんな不安をかかえながら、オドオドとした生活をしている。マスクはいつまですればいいのか、夜の店には行っていいのか、迷っている。

専門家会議の役割は終わったのか。危険だ、危険だと、注意を喚起する局面だけでなく、いまはどこまでなら安心で、どこまでが危険なのか。専門家が話してくれればみんな安心する。みんなそれを望んでいる。

専門家の立場からすれば、そのことを話したいのだと思う。しかし、いまはその場が与えられていないのではないか。

結局、専門家会議は政府に都合がいいように使われているということだと思う。

そのことは、なぜ政府が専門家会議の議事録作成を頑強に拒んでいるかを考えてみれば、明らかだと思う。

先月、政府が専門家会議の議事録をつくっていないことがわかり、国会でも問題になった。新聞報道によれば、尾身副座長は議事録をつくっても問題はないと発言。他の専門家からも同様の発言があった。

世論の動向をみた、菅官房長官は、一度は、議事録を作成することを検討したいと、前向きな発言をした。

しかし、結局のところは、1.すでにつくっている議事概要に発言者の名前を載せる、2.速記録をつくる、ということで結論を出してしまった。

議事概要に発言者の名前を載せたとしても、発言のすべてではない以上、政府に都合がいいように加工することができる。また、速記録はつくっても、公開するのは10年後ということであり、ほとんど意味をなさない。

この結論に対して、野党は抵抗しなかったのか。知らぬ間に、結論が出されてしまったような感じがする。

6月14日付、高知新聞は、この結論は、西村担当大臣が専門家会議の脇田隆字座長に相談をしたうえで、脇田座長は尾身副座長と協議をしたと書いている。

私は、ずっと、専門家会議の顔になっている尾身茂氏が副座長にまわされていることを疑問に思っているが、前回「コロナ政局(7)」にも書いたように、政府はこのような場合を想定していたのであろう。国家公務員の身内(国立感染症研究所所長)である脇田氏を座長に据えたことの狙いがここにある。尾身氏だって、座長に言われれば、妥協せざるを得なかったのであろう。

何事もそうだが、ものごとは始める時よりも、終りにする時がむずかしい。コロナの緊急事態宣言だってそうだ。宣言解除のタイミングはだれもが判断しづらい。

政府は専門家の意見を聞いて、判断したと言っている。基本はそうであろう。

しかし、国民からすれば、その専門家の意見を直接聞きたいと思う。本当の大丈夫なのかと。

しかし、最初はあれだけテレビの登場した尾身氏はさっぱり出なくなった。

これは、尾身氏がいやがっているのではなく、政府がその場を与えないからであろう。尾身氏は、話をしたいのだと思う。

宣言を出す場合は、国民の命を守ることが最優先という大義名分があるので、バタバタと進みやすいが、いざ宣言解除となると、いろんな判断がいる。医学的判断だけでなく、経済、生活への影響など。政治家が判断しなければならないところが多く出てくる。

しかし、その判断の根拠の大きな部分を占めるのは医学的見地であることは間違いがないところであろう。

だとすれば、議事録をキチンと残しておく必要があるし、専門家自らが国民に対して説明、意見をいう場面をつくることも大事であろう。

きょう、東京都知事選が告示された。この間の小池都知事の言動、判断を見ていると、自分に都合がいいように、やっていることがアリアリである。

東京アラートとか言って、独自の3つの指標を示した。ちゃんと考えていますよというメッセージとして。

しかし、減少傾向にあった感染者数が再び増加に転じ、3つ指標全てをクリアーできないにもかかわらず、自分の出馬宣言の日に合わせて、アラートを解除した。自分の選挙の道具として、コロナ対策を利用しているのである。

これは、政府も同じである。

専門家会議は、個々の委員の考えはそれぞれあるだろうが、政府の都合がいいように利用されている面があることを、われわれはしっかり見ておく必要がある。

坂本清馬の養女ミチエさん

中村で定職のなかった清馬の生活を支えたのは養女ミチエさんだった。

清馬自伝「大逆事件を生きる」によれば、清馬は一九三四(昭和九)年仮出獄後、高知で結婚したが未入籍のまますぐに別れた。

その後、太平洋戦争中、松脂採取業で中村に来ていたさい、常宿で女中をしていた「遠い親戚の娘に女房にならんかと持ちかけたら、養女にならなってもいいと言われて、その娘の父親にかけあい、養女に来てもらった」と書いている。

私は二〇一八年十月、ミチエさんの墓参りに愛媛県一本松町(現愛南町)を訪ねた。ミチエさんは実家の保岡家墓に入っており、姪(兄勝久さんの娘)の真喜子さん、典江さんから写真を見せてもらいながら、以下の話(両親、兄から伝え聞いている話を含めて)を聞かせてもらった。


ミチエさんは一九一五(大正四)年一二月二七日、農家の父保岡仲蔵、母コマの次女(二男、四女の四番目)として一本松町に生まれた。若いころから中村に出て、旅館花屋の女中をしていた。どんな経緯で中村に出たのかは聞いていない。

清馬が一本松に来たのは一度だけ。清馬の兄の息子(自伝に出てくる姉の息子義彦のことか?)の嫁にもらいたいとの話だった。その後、その甥が戦死。親はミチエさんに家に戻るか聞いたが、このままでいいと清馬のところに残った。

保岡家が清馬と親戚だったという話は聞いていない。(清馬は一八八五年生まれで三十歳上。養女として入籍はずっと後の一九六五年)。

戦後の昭和二九年、ミチヱさんが家を建て食堂(うどん屋)をしたいというので兄は田んぼを売って資金をつくってやった。少しずつ返済を受けた。家の前に保健所があったのに、移転してからは客が減ったときいた。

清馬の葬儀(一九七五年)には、兄、私(典江さん)、妹で行ったが、追悼集会には行かなかった。

ミチエさんは年に一、二度は盆の墓参りなど、バスを乗り継いで帰って来た。おいしい和菓子をみやげに。ハイカラな身だしなみで化粧をして、ヒールもはいていた。兄弟姉妹が集まり、二、三泊していた。おだやかで、ゆっくりとしゃべる人だった。

晩年、私(典江さん)が中村の家に行った時、家の中におしぼりをたくさん持って帰っていたのを覚えている。料理屋の手伝い、掃除、病人の付き添いなどをしているようだった。一九九六(平成八)年五月一五日、ガンのため中村の病院で亡くなった。 臨終には間に合わなかった。

葬儀は火葬場の斎場で身内だけ。中村に友達がいたようには思えなかった。享年八二歳。戒名・恵照妙乗信女位。自分の財産処理は公証人に委任していたので、家もすぐ買い手がついた。

ミチエさんは生前、一本松の常宝寺に清馬の永代供養として位牌を預けていた。後に高知の親戚という人が来て、相談のうえ持って行った。

清馬所蔵の本は、清馬没後ミチエさんが中村市立図書館に寄贈をしたが、手書き原稿・書類等はゴミのようにたくさん残っており、全部いったん一本松に持ち帰った。そのあと大部分は捨てたが、弟が大事そうなものを残し、西口孝町会議員(共産党)に預けた。清馬の墓は高知のほうにあるものと思っていた。中村にあるとはいままで知らなかった。(以上。聞き取り)


ミチエさんはおとなしく、目立たない人であった。ミチエさんは清馬のことを「お父さん」と呼んでいたそうだ。

私は今回、二人が住んでいた家(中村大橋通五丁目)の近所に住む年配者の何人かに聞いたところ、ミチエさんのことは覚えており、おとなしく品のある人だったという印象を持っていた。しかし、その中に親しく付き合っていた人はいなかったし、他に友達がいたようにも思えないとのことだった。二人を夫婦と思っていたという人もいた。

顕彰会会員でも清馬没後のミチエさんの生活の様子や消息を知る人はほとんどいない。ミチヱさんは顕彰化とは「関係ない」人となってしまった。清馬の原稿類が残さっていることも忘れられていた。ミチヱさんが亡くなったことも知らなかったぐらいだから。

わずかに、生前の清馬の面倒をみてきた尾﨑栄さん(一九九四年没)の家族が後でミチヱさんの死を知り、栄さんの妻と長男(清氏、本号寄稿)が一本松の保岡家を弔問している。

つくづく考える。ミチエさんはなぜ清馬と一緒に暮らすことを受け入れたのだろうか。天皇暗殺を企てた極悪人とされていた戦中のことである。当時、二十歳代半ばという若い身で。相当な覚悟があったのだと思う。

写真で清楚にみえる娘時代のミチヱさん。実家は堅実な農家で、兄、姉妹は普通に結婚し家庭をもっていた。みんな仲が良かった。ミチエさんの身に秘めた何かがあったような話もない。

世間から相手にされない清馬の話を、ただ一人旅館の女中として黙って聞いてやっていたという話もあることからすれば、清馬に同情する、共通の心の寂しさをもっていたのかもしれない。

二人が一緒に暮らすようになった経緯も、清馬自伝と保岡家の話は違う。清馬の甥の消息がわかればいいのだが(本当に戦死なのか)。清馬の位牌を持って行ったという親戚とは誰なのか。清馬両親、兄姉の墓がどこにあるのかも、わかっていない。

ミチエさんの生活は二人の時も、一人になってからも地味でつつましいものであった。しかし、実家に帰る時はハイカラな格好をしていたのは、芯の強い人であったのだろう。自分の死後の段取りまでつけていたというのだから。清馬と同じ墓に入りたいという気持ちはなかったのだろうか。

清馬を支え、尽くしたミチエさんのことはもっと知られるべきだと思う。清馬資料はその後当顕彰会に戻ってきて、いまは私が管理している。

娘時代のミチエさん    清馬追悼集会で
娘時代のミチエさん    清馬追悼集会(中村)で

幸徳秋水を顕彰する会機関誌「秋水通信」28号所収
原題「清馬の養女ミチエさん」
2020.5.20発行

幸徳秋水を顕彰する会ホームページにリンクしています。 
http://www.shuusui.com/
 

健康福祉委員会

四万十市には、市内各地域・集落単位に、健康福祉委員会という組織があります。

この組織は、四万十市が2012年度から始めた「四万十市健康・福祉地域推進事業」に基づき、つくられたものです。

いま、どの地方もそうですが、過疎高齢化が進み、「今は自分も家族も健康だし、地域の活動もなんとか行われているので心配ないけれど、10年後はどうなるのだろうか?」と、将来に不安をもって過ごしている方が多くいます。

このような現状を踏まえて、若い時から健康づくりに関心をもってもらい、いつまでも健康・元気で住みやすい地域社会をつくっていくことを目的としています。

「高齢となっても、住み慣れた地域でいつまでも元気に健康で安心して暮らすことができる地域」をめざすことが、基本コンセプトです。

地域の中に健康で元気な人を増やしていくと、高齢化が進んでも活き活きとした地域をつくることになり、隣近所同士の助け合いや見守り等の地域内のつながりが強くなってきます。①元気(健康)、②活き活き(生きがい)、③助け合う(支え合う)が基本です。

市内には、区長さんを代表として置いている地域集落が169あります。私が住んでいる実崎(さんざき)もその一つで、戸数60です。

健康福祉委員会というと、何か難しい組織のように思うかもしれませんが、地域集落自治と同様、その集落の住民全員を対象(全員が会員)としており、やってもらうことも似ています。

ただ、区長さんに全部をまかせると大変なので、代表は別の方になってもらい(区長が兼ねてもかまいません)、目的意識をはっきりしてもらうことによって具体的取り組みを行ってもらおう、というものです。

① は、市がおこなう特定検診などへの全員参加を呼びかけるほか、健康に関する学習会を開くことなど。

② は、介護予防のための健康体操や、家に閉じ込めさせない活動など。

③ は、地域の見守り、巡回や、親睦会など。日頃から、みんなが仲良くなる活動。花見や敬老会なども、いいことです。

市では、各地区でおこなうこれらの事業に対しては、委託金という形でお金を提供します。(助成金、補助金のようなもの。)

実崎地区では、②の健康体操(いきいき百歳体操)を中心に行っていますが、コロナのため、3,4,5月は、休止を余儀なくされました。

しかし、きのうから再開、13人が参加しました。

きのは、併せて、今年度の役員改選があり、私ははじめて事務局長になりました。

私はいま67歳ですが、地域では大先輩が多くおられ、私はまだ「若者」の1人です。

自分が生まれ、住んでいる地域で、これからもみんなと一緒に、仲良く暮らしていけるよう、いろんな事業を計画して、みんなと取り組んでいきたいと思います。

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横田滋さん

北朝鮮拉致被害者家族の会、前代表の横田滋さんが6日、亡くなった。87歳。昨夜から、さかんに報道されている。

いま私の胸の中は、日本政府への怒りで煮えたぐっている。

いまの被害者家族の会代表の飯塚繁雄さん(81歳)は昨夜、報道陣取材に答えて、「結局、なにもしないと、こういうことになることはわかっていた。何もしてこなかった。」と無念の言葉を、絞りだしていた。

「何もしなかったとは」、日本政府のことであり、政府がなにもしてくれなかったという恨み節である。しかし、「政府が」とははっきり言わなかったし、言えないところに、拉致被害者救済活動の複雑な背景がある。

2002年9月、当時の小泉首相が北朝鮮に飛び、蓮池夫妻らを連れて帰ってきた。それを機に、両国間でいろんな動き、やりとりがあった。

しかし、2012年、第二次安倍政権になってからは、少なくとも前向きな動きはパタリと止まってしまった。

安倍首相は、2002年小泉政権時には拉致問題担当の内閣官房副長官であり、小泉首相に随行し、北朝鮮に行っている。

だから、安部首相は、拉致問題は自分のライフワークだ、自分に任せてほしい、などと、この経験を、さかんに「売り」にしてきた。

家族の会もこれを信じ、安倍さんならやってくれるだろうと期待をし、政府の指示をあおぎながら、署名活動、集会など、いろんな救済活動に取り組んできたものと思われる。

しかし、期待は裏切られるばかりであった。特に、北朝鮮が弾道ミサイル実験を始めると、政府は拉致問題とセットで、北朝鮮の脅威をあおり続けた。

それは、拉致問題を解決するためではなく、北朝鮮脅威論をふりまき、自分の政策に利用するためであった。特定秘密保護法、憲法解釈変更による安保法制、共謀罪など、平和憲法をないがしろにする、大立ち回りを次々にやってきた。

トランプが来日した時には、横田さんらを会わせ、自分の手柄にした。しかし、トランプには日本の被害者家族救済など眼中になかったことは、当時の口ぶりからもあきらかであった。実際、トランプはこの問題で何も動かなかった。

ここ2,3年、韓国と北朝鮮、米国と北朝鮮の対話が電撃的に開かれた局面があった。しかし、こうした際にも、日本はカヤの外。

4か国協議(中韓米日)と言われる国の中でも、安倍首相だけがキムジョンウンにまだ会ったことがない。日本は外交において、北朝鮮からまったく相手にされていない。

それなのに、「あらゆるチャンスをとらえ北朝鮮に働きかける、次は私自身がキムジョンウンに会う」などと、空々しい強がりを繰り返してきた。

安倍首相の昨夜のコメントは、「めぐみさんを救出してやれなかったのは、断腸の思い。申し訳なく思う。」と、さすがに神妙なものであり、強がりめいたことは言わなかった(言えなかった)。

北朝鮮は異常な国家である。他国人を拉致するなど、決して許せるものではない。そうした国が相手であるから、問題解決は非常に困難なことである。誰が首相であっても容易なことではない。

しかし、私が許せないのは、難しいことはわかっていながら、被害者家族に期待をもたせ、自分の政治的立場の維持や、政治的野心の実現のために、さんざん利用してきたことである。

首相になれたのも拉致問題のおかげである。安倍首相にとっては拉致問題があったほうがいい。北朝鮮との緊張関係を利用できるから。だから、問題を解決する気などさらさらない。

被害者家族は弱い立場にある。国と国との問題においては、自国の政府に頼るしかない。安倍さんならやってくれるだとうとの期待もあったろうが、こんな安倍さんは信用できない、言葉だけでやる気が感じられないなど、いろんな思いがあったはずだ。しかし、政府に頼るしかなかった。

飯塚繁雄さんの昨夜の言葉は、政府への不満、批判を腹の底からしたかったのであろうが、奥歯にものがはさまって言い方で、本音を抑えていたのは、安倍首相に頼った自分たちの運動の進め方に対する、忸怩たる思いがあったのであろう。また、あきらめの気持ちもあるのであろう。

私は被害者家族の弱みにつけ込み、もてあそんで、利用し尽くした、安倍首相を断じて許すことができない。横田さんは、その犠牲者である。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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