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祖父 吉本武之助 (5)

武夫は太平洋戦争中、八束郵便局長のかたわら八束村農会副会長も務めていた。八束は水に浸かるからと、大方の加持、入野などにも田畑を拡げていたが、戦後の農地改革でそれらは不在地主として国に没収された。

昭和二十二年、武夫は六十八歳で局長をやめた。豊暖は親元を離れ、大阪逓信講習所に入れてからは人並みに逞しくなっていた。中村郵便局から戻してもらい、二十二歳であとを継いだ。

下田ノ口の実家も兄吉本亀太郎が昭和十八年に没し、息子廣末の代になっていた。武夫は下田ノ口には時々帰っていた。昭和二十一年十二月、南海地震の夜は実家に泊まっていた。未明の揺れで飛び起き、郵便局が心配だと言ってすぐに実崎に戻ったが、八束の被害はたいしたことはなかった。

甥の廣末は馬荷から嫁をもらっていた。中馬荷の矢野百馬の長女光子である。

光子の母は榮。同じ中馬荷の矢野良太郎の長女。良太郎の妻(榮の母、光子の祖母)は下田ノ口の徳広勝吉の娘多津(明治四年生)であった。

下田ノ口から見れば、当時の馬荷は今以上に「奥」という感じであったと思うが、何かの縁があったのであろう。矢野光子が吉本の家に来たのは、こうした多津の縁によるものである。

広多津は上林暁(徳広巖城)の家と親戚であったと聞いているので、入野の長泉寺で調べてもらった。

徳広勝吉(明治三十一年没)の家系は、三代前の悦之丞(安永九年没)から始まっていた。勝吉の後は、長次―本次―利政と続いたが、利政から下田ノ口を離れ、いまは屋敷跡しか残っていない。

徳広巖城の家は、父伊太郎の代は村長を務め、造り酒屋もやっていた「ふとい家」であったというから、古い家系であろうと思っていた。しかし、寺の過去帳では伊太郎の父伊作から始まっている新しい家であった。伊作は馬喰(ばくろう)だったという話が残っている。

伊作の代に蓄財したのだろうか。それにしては、伊作は伊太郎九歳の明治二十三年没。妻愛は大正十三年没なのに、上林暁の小説「父イタロウ」では、伊太郎は祖母に育てられたと書かれている。祖母とは誰であろうか。

寺の記録では徳広両家の関係はわからなかった。いろいろ調べてみたが、両家の近い関係者も地元にいないので、これ以上を知ることはできなかった。年代からみて、徳広伊作は勝吉の家からの分家かもしれない。

ところで、吉本の家に来た矢野光子の末の妹(四女)に五月(昭和二年生)がいた。戦中、入野の実科女学校に通っていた。矢野の家では三女が山口の軍需工場に勤労奉仕にやられていた。五月までも徴用にとられては大変と武夫に郵便局に入れてほしいと頼んだ。五月は実崎に来て、しばらく住み込みで働いた。渡し舟で川を渡るのが、えらく遠くにやられたようで寂しかったそうだ。

武夫は息子の嫁は身内から探したいと思っていた。五月は戦後、馬荷に帰っていたが、五月を気に入った武夫は話を進め、昭和二十四年、豊暖の嫁にもらった。

翌年孫の佳(このむ)が生まれた。これで次の跡取りもできた。昭和二十六年九月、武夫は生まれて一年たつ佳を「這いだしたねや」と満足そうな顔で見てから、不破の八幡さんの祭りに歩いてでかけた。

八幡さんから戻ると急に熱を出し寝込んだ。それからわずか一週間で息を引き取った。武夫は胆石持ちで酢の物が好きだったが、ほかに持病はなかった。高熱の原因は不明。それだけに医者が間違った注射をしたのではないかと言われたほどである。

その秋、武夫は八幡さんまでにあわただしく稲の取り込みをすませた。いつもより早かったので、なんでそんなに急ぐのか妻常野は不思議に思った。虫の知らせだったのだろう。

日露戦争で旅順の銃弾をくぐりぬけてきた勇士にしては、あまりにもあっけない死であった。七十一歳であった。二年後、次男の私が生まれた。

常野は昭和四十五年三月、風呂の中で心臓麻痺で死んだ。八十五歳。

豊暖は地元では「とっさん」、郵政仲間では「ほうだん」と呼ばれた。昭和四十年、八束局を近くに新築移転。同五十九年、五十九歳で退職。局長を職員の小野幸男さん(鍋島)に譲った。その後は気ままに暮らした。

八十二歳の時、長患いをしていた五月に先立たれた。その頃から、自分の両親は寝つかずポックリ死んだことをいつも自慢していた。自分はそんな系統だから、同じように逝けるはずだと。

私がこの文章のために、武夫のことをしつこく聞くと、面倒くさそうに「オヤジはあまり話さなかった」「覚えていない」と不機嫌になった。

豊暖は今年一月十一日、寝ている間に脳出血で意識を失い、市民病院に運ばれ、八日後逝った。前の日まで家で普通に生活していたのに。

武夫のことを聞いておくのにギリギリ間に合った。魍魎(もうりょう)のような祖父の輪郭が人間の顔になり、血筋の縦糸がつながった。

満足そうな八十八歳の父の顔であった。(終)  
             
                         
大形文芸学級「大形」280号   2014年5月



祖父 吉本武之助 (4)

武之助から改名した田中武夫が大正八年、八束郵便局を開設したころの家族は妻、娘、妻の両親の五人であった。

娘千恵子は結婚二年後の明治四十二年に生まれた。さらに二年後、待望の男の子も生まれたが、わずか十二日の命だった。小さな地蔵石に正穂と名を刻んだ。

夫婦は悲しさを忘れるように仕事に精を出した。武夫には役場勤め、その後も局長としての仕事もあったが、妻常野は百姓仕事がすべてであった。字もろくに書けなかったので小学校も出ていたのかわからない。裸足で田んぼや畑を這いまわった。実崎では「しごとし」で通っていた。気も強く、夫婦喧嘩になると武夫は「わしゃ田ノ口にいぬる」と無駄な抵抗をした。

財産を少しずつ増やしていく中で、間崎の大島にも畑を買い、舟で渡り甘蔗(サトウキビ)を植えた。家のせんち(便所)から家族のモノを肥やしに運んだが、それだけでは足りないので、対岸の下田の人家からも分けてもらった。こっちで汲み取りをしてもカネを払い、舟底にそのまま流し込んで武夫が艪を漕いだ。そんな舟の中で昼飯も食った。

八束では甘蔗栽培はいまは絶えたが、当時はかなり作られていた。実崎の舟だまりの羽根で馬を使って共同搾汁し、黒砂糖にしていた。

常野の両親、富治(安政四年生)と武根(文久二年生)は欲のない、のんきな人間であった。だからみるべき財産も残していなかった。家督はあっさり武夫に譲った。

富治はメジロが好きで、十八歳の時から八十二歳で死ぬまで飼った。近くの池でフナを釣ってはすりつぶして餌にした。メジロは土地に居着いたのが声の張りがいいと言って深木の奥に落としに行った。

川漁も好きで、竹かごを作り田んぼの蟹(ガネ)をつぶして泥に混ぜてかごの底板に練り込んで川に沈めておくと、チヌなどが入った。この仕掛けは「ウエ」と言った。川に植え込むという意味だろうか。いまではもう見ない。

武夫夫婦にはその後しばらく子ができなかった。あきらめかけていたところに、大正十一年、男の子が生まれ、宏と名付けた。利発そうな子であった。しかし、言葉をしゃべりだした一歳半の時、またもや肺炎を患い死んだ。常野は二つになった地蔵石に毎日通い、ひざまずいて泣き通した。

これでいよいよ子をあきらめていたが、その二年後大正十四年、三度目の男の子を授かった。武夫四十五歳、常野四十一歳の古種であったせいか、弱々しい子だった。武夫は今度こそ丈夫に育ってほしいと願い、奈良吉野山の高僧のところに出向き豊暖(とよはる)と命名してもらった。

さらに当時はよくあったようだが、近所の田中善明の家にいったんやり、善金(よしかね)という名を付けてもらってから戻してもらった。家では善金と呼んだ。

豊暖と長女千恵子の年の差は十六。千恵子が弟を背負って子守をしていると、同級生の男の子から「お前にはいつ子ができたのか」とからかわれたという。

武夫は新しもの好きというか、社会の先端をいくものへの好奇心が強かった。当時の田舎ではめずらしく土陽新聞を郵便でとった。ラジオを買うのも早かった。家にはじめてタイルを使ったりもした。

武夫は自分が小学校を出ただけで勉強をしたくともできなかったことから、子どもの教育には前向きであった。千恵子は中村の女学校に入れた。実崎では二人だけだった。袴をはいて、歩いて中村に通った。

千恵子は卒業後、同じ実崎の富治の妹、餅(もち)と田中市太郎の四男で教員の一(はじめ)と一緒にさせた。一は下田ノ口馬野々の嶋津清次(富治弟)の家に一年間下宿して入野の高等三年に編入し、師範学校に入った。豊暖はまだ幼く将来に不安があったので一は中継ぎ養子とした(のちに解消)。

市太郎の長男恒治、三男兼三郎も教員であった。実崎は万年水に浸かり農業には不適地であったことから、当時から勤め人の教員になる者が多かった。

田中恒治は大正十三年、加持小学校校長になり自由教育を実践。戦後は大方町の教育委員長、教育長を務めている。一も、のちに大方中学校校長を務めた。

豊暖は八束小学校高等科を出たあと中村中学(旧制)に進ませたかったがうまくいかず、入野の高等青年科(青年学校)に一年間自転車で通って翌年も受験した。しかし、二度目も失敗。成績は悪くはなかったが、気弱な性格のため口頭試問で落とされた。

豊暖本人よりも武夫のほうがくやしかった。後年、私が高知の高校に合格した時、伯母の千恵子が「おじいちゃんが生きていれば、どんなにか喜んだろうに」と言っていたことを思い出す。

豊暖にはいずれ八束郵便局を継がせることにしていたので、ならばと大阪逓信講習所に進ませ、中村郵便局に入れた。逓信講習所には二年後、再び高等科にも進ませた。

日米開戦間もない頃であり、豊暖はモールス信号等通信技術をたたき込まれた。電報等の通信は戦争遂行のためには欠かせないものだった。

戦局が厳しくなると、旧制中学に進んだ者も含め同級生の多くが出征していったが、豊暖に最後まで赤紙が来なかったのはこのためであった。
      

大形文芸学級「大形」279号   2014年3月


発見された幸徳秋水書簡について

兆民遺墨「天下一品」、幸徳秋水書簡見つかる。

高知新聞8月19日付総合版で大きく報道(1面左、9面全部)。この書簡は1902年(明治35)年7月、長野県坂城町の児玉勝助という人物に宛てたもので、児玉が秋水の師中江兆民が描いた絵の写真を送ってくれたことに対する礼状。

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兆民には、信州小諸出身の小山久之助と言う弟子がいた。小山は1859(安政6)年生まれであるから、秋水より12歳上の先輩であり、一番弟子といえる人物。

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小山は自由民権運動の活動家で、1898年、地元長野から衆議院選挙に出馬し当選している。兆民は応援のために長野に行ったさい、小山の親戚にあたる児玉に「山水の図」を描いてやったようだ。

喉頭がんで余命1年半を宣告されていた兆民は、その通り、1901年12月没。手紙はその約半年後に書いている。

内容は、
1.天下一品の絵を見て兆民先生のことを思い出し感慨にふけっている、
2.理想団の件ではお骨折りをいただき感謝している、
3.小山家の人々へもよろしく伝えてほしい、など。

当時、秋水は萬朝報の看板記者であった。

この年の4月、日清戦争後、台頭する軍国主義と愛国主義を告発する「廿世紀の怪物帝国主義」を出版。7月には、萬朝報社長黒岩涙香の呼びかけに、同僚記者の堺利彦、内村鑑三らと応じ、社会改良をめざす理想団を結成、長野でも組織拡大をしていたことがうかがえる。日露戦が迫り、秋水が非戦論を展開しはじめる時期である。

兆民は闘病記ともいえる絶筆の書「一年有半」「続一年有半」を残している。この書は自失になりそうな師に秋水が提案、叱咤激励して書かせたものである。出版の段取りは小山久之助と一緒にした。

秋水も兆民没後、師への哀惜を込めて「兆民先生」を書いている。師弟愛あふれる二つの書は当時ベストセラーになり、名著として今も読み継がれている。


実は、小山久之助は兆民より2か月前に没している。首に腫物ができるリンパ腫であった。兆民は「一年有半」の中で、自分のことよりも小山の病状を心配していたことを書いている。

また、秋水も「兆民先生」の中で、「小山久之助君、先生の帰京を聴き、病を扶けて往で謁す、師弟相見て暗然語なき者之を久しくす、幾くもなく小山君先づ死す、末の露本の雫、老少の定めなく、後光の測りがたき眞に此如き哉」と書き、涙を誘っている。

久之助は、腫物がひどくなり、7月30日、渋谷赤十字病院に入院。その時、秋水あてに出した一枚の葉書が四万十市立図書館所蔵秋水資料の中にある。

「猛烈なる病勢を以て攻撃せられ力支ふるあたわず 遂に昨三十日を以て赤十字病院に逃籠せり・・・八月一日 渋谷赤十字病院にて 小山久之助」

今回発見されたのは秋水の書簡のほか、兆民の山水画と書、大石正巳の書簡など5点であり、セットで名古屋市の人物が所蔵していたものを岐阜市の長良川画廊(古美術商)が買い取って、公開したものである。(大石正巳は土佐出身の民権運動家で兆民の仲間)

これら5点は,いまは長良川画廊東京ギャラリー(六本木 03-5544-9091)に行けば見せてもらえる。(つい最近まで展示もしていた。)

秋水の書簡に書かれていることは、礼状であり儀礼的な内容であるが、兆民、久之助を通した、秋水と長野の人たちとの交流の様子がうかがえる。さらに、兆民、久之助、秋水という、深い信頼と愛情で結ばれた師弟関係も知ることができる。

兆民は貧乏をしていたので、久之助の選挙支援のために、長野の人たちに絵や書を書いてやっていたようで、高知新聞記事によれば、長野県内には兆民遺墨があちこちに残っているという。


祖父 吉本武之助 (3)

田中富治の養子になった武之助は、明治四十一年、沖ノ島での巡査勤めを二年間で辞め、実崎に帰って来た。幼い時両親を亡くし、奉公に出てよその家の飯を食ってきた武之助にとって、妻の両親との暮らしは初めてえた家庭であり、自分の巣であった。

ほどなく、武之助は八束村役場に書記として採用された。役場に入ることが決まってから巡査を辞めたのか、しばらく実崎で農業に従事したあとなのかわからない。武之助は小学校しか出ていなかったが、読み書きソロバンが達者だった。独学なのだろうが、ソロバンで難しい掛け算、割り算もできたという。それを見こまれて役場に誘われたのだ。

武之助が養子に入った当時、実崎では藁ぶきの家は富治の家だけだった。少ない田畑に働き手として両親と妻がいたので、武之助は役場に出ることにした。もちろん百姓仕事もしながらのことである。明治四十三年、大逆罪で幸徳秋水らが逮捕されるという大事件がおこったころである。

明治は四十五年で終わり、乃木希典は天皇に殉じた。翌大正二年、武之助は名前を武夫に改名した。日露戦争旅順港閉塞作戦において壮烈な死を遂げ、のちに軍神としてあがめられた人に広瀬武夫がいた。旅順総攻撃で命を拾った武之助は、自分の名を明治に殉じさせたのではないだろうか。真意は伝え聞いていないが。

その頃、八束村にも郵便局を設置しようという機運が盛り上がっていた。日本の郵便制度は明治四年から始まった。現在、郵便局には「局番」がある。その番号は明治以降の設立順になっている。高知県下では、高知が一、幡多では宿毛六、下田九、中村十一、大方三十七、川登七十六・・・というように、当時郵便網が拡大していたが、脆弱な国家財政下、そのほとんどが三等局といって、地元の地主などの有力者に局舎を建てさせ、運営を委託する制度であった。

ある日、武夫は村長から「お前が郵便局をやれ」と言われた。突然のことで、驚いた武夫は「うちには、そんな財産はありません」と声を震わせ答えたが、村長は「そんなもん親戚のを全部書いて出せ。ワシが判を押すから」と言った。

村長は岡本壮司といって蕨岡の人だった。その頃、八束村は政争が激しく、地元では村長を決めることができず、「よそから雇う」ことになり、県会議員であった同氏を迎えていた。当時は県議と村長の兼務ができた。

岡本壮司については、金井明『四万十川 赤鉄橋の町』(高知新聞社)に詳しく書かれている。大正四年、中村から具同への渡し船が転覆し、幡多実科高等女学校の生徒ら十一人が溺死。旧制中学へ入学したばかりの上林暁(徳広巖城)も捜索に加わった。この事故を機に架橋運動が盛り上がり、大正十五年、鉄橋が完成するのであるが、この間、県の予算獲得や地元調整に尽力をしたのが政友会の大物政治家岡本壮司であった。のちの林譲治などはその直系だった。

岡本は八束村長を大正三年から十年まで務めている。八束村には郵便局をやりたがっている有力者が何人もいた。なのに武夫が指名をされたのは、政争の産物としか言いようがない。村長は日頃から武夫の勤勉な仕事ぶりや生活を見て、目にかけていたのだろう。実際、田中富治の家は武夫が養子に来てから運が上向いていた。

日露戦争は日本がはじめて国家としてたたかった戦争であった。それだけに戦死者や従軍者に対する戦後の補償は厚かった。

本山町出身の作家大原富枝は自伝『吉野川』に書いている。両親は再婚同士。母の前の夫は日露戦争の旅順総攻撃で戦死。お国から弔慰金百円のほか遺族扶助料など当時としては思わぬ大金が入ってきたものだから、嫁が残ると何かと面倒だということもあって、母は泣く泣く男の子を残して家を出されたそうだ。

武夫は日露戦争では旅順で左腕を負傷しながらも生還し、従軍功労勲八等功七級の金鵄勲章を受けた。このため、通常の軍人恩給に加え傷病恩給も支給された。弔慰金ほどではなかったにしても、それなりのものだったのであろう。

武夫は土地への執着が強かった。「こまいとこ」のみじめさが体に染み込んでいたからだ。武夫はまとまった金が必要な時は高利貸から借り、恩給や役場給料でコツコツと支払いながら、田畑、山林を少しずつ増やしていた。

八束郵便局は大正八年、開局した。武夫は役場を辞め局長になった。武夫三十九歳、局番は百十九であった。家(すでに藁ぶきではなかった)を道路側に増築して局舎とした。局の運営は国からの請負であり、職員の採用などは局長の裁量に任せられていたので家業のようなものでもあった。

最初の職員には沖ノ島での巡査時代に縁のあった家の少年を迎え、住み込みで家族同様に生活させた。局長といっても今と違って常時局にいる必要はなかったので、武夫は昼間は百姓仕事中心の生活であった。

大正はわずか十五年で終わるが、大正デモクラシーとか大正ロマンなどの言葉がある。通信・交通網が整備され、四国西南の地にも西洋文化が流入してきた。八束でいえば、伊豆田峠越えの道路開削を経て、大正三年、郡道中村―清水線が開通。同十四年には、同区間をバスが走り出した。

中村には同五年、大衆芸能の拠点中央座(中劇の前身)が落成。同十四年、初めて飛行機が着陸。四万十川鉄橋が完成した同十五年には、映画専用の太陽館も開業し、「おまち文化」が隆盛する。そんな時代であった。


文芸「大形」278号   2014年1月

祖父 吉本武之助 (2)

武之助は日露戦争から生きて帰って来た。旅順総攻撃で左腕を負傷したので、早期除隊になったのか、四十四連隊本隊と一緒に高知に復員(明治三十九年一月)したのかはわからない。どちらにせよ、今後のあてはなかった。姉からは「死んでこい」と言われたように、帰る家はなかった。

武之助は高知の町で巡査の募集をしている張り紙を見つけた。負傷の左腕は幸い肩までは動かせたので、申し込んでみた。小学校しか出ていない自分ではたぶんダメだろうと思っていたが、合格通知が届き、明治三十九年度高知県巡査に採用をされた。

当時の巡査の採用状況を『高知県警察史』で調べてみたところ、翌年の明治四十年度の記録が残っており、志願者二百九十四名に対し採用七十四名となっている。かなりの難関だったようである。武之助は三か月の教習(研修)を受けたあと、沖ノ島村の駐在巡査として赴任した。

沖ノ島は明治になってから島全体が高知県になったが、江戸時代には土佐藩(弘瀬)と宇和島藩(母島)に分かれていた。武之助が赴任をした明治三十九年、島の人口は二五一七人(三百九十四戸)。両地区は言葉や風習の違いから婚姻を結ばない等の対立が色濃く残っていた。巡査駐在所は明治二十一年、母島の役場近くに置かれたが、当時は民間の家を借りていた。

その頃、八束村実崎の田中富治との養子縁組の話がもちあがった。縁組をすすめたのは、下田ノ口馬野々の嶋津清次であった。清次は富治の実弟であった。

田中富治の家も「こまいとこ」であり、当時、実崎では唯一の藁ぶき屋根だったという。武之助は清次から「八束に行ってくれないか」と頼まれた。武之助がその時どんな気持ちだったのかはわからない。

富治の子は女一人だった。「こんな家でよければ」と武之助を迎え、明治四十年七月、吉本武之助は富治、武根の娘常野(私の祖母)と祝言をあげ、田中武之助となった。武之助二十七歳、常野二十三歳であった。

ところで、富治の弟田中清次が馬野々の嶋津榮作の家に養子に入ったのは明治十六年。武之助から私の父が聞いた話では、清次は当時「弁当持ちで養子の口をさがした」そうだ。そして十九歳で榮作の娘古満と結婚している。

「米糠(こぬか)三合あれば養子にはやるな」という言葉がいつの時代に生まれたのか知らないが、自ら弁当持ちで養子の口をさがす、とはどういうことなのか。富治の家が貧しく、分家など考えられなかったこともあるが、より深い真相は当時の徴兵制度にあったらしい。

清次は元治元年(一八六四年)生まれ。維新後の明治五年、明治政府は「徴兵告諭」を出した。二十歳以上の男子に兵役を課すものであったが、地租改正に加えた負担に反発も大きく、しかも「兵役=血税」と書かれていたことによる誤解もあり、全国各地に徴兵反対の「血税一揆」がおこった。

明治七年、川登では農民五百三十人が中村の役所を襲撃するという事件もおこっている。「あぶらとり一揆」と呼ばれている。

一方で、「告諭」では戸主、長男のほか役人、代人料を払う者などは兵役を免除された。また、養家の養子も免除をされたため、養子先をさがしたり、名字を変え独立した家を装う者が続出したと記録されている。清次もその一人であった。

清次には田ノ口との縁もあった。富治、清次兄弟の父は孫平であるが、その妻夏は田ノ口村森幸右衛門の娘であった。幸右衛門夫婦の墓(本人慶応二年、妻天保十四年没)が実崎のわが家の墓の一角にあることから、最後は娘の嫁ぎ先で一緒に暮らしていたらしい。どういう縁があったのかわからないが、この時が田中の家と田ノ口とのつながりの始まりではなかろうか。

上田ノ口にはいまでも森姓が多く、森幸右衛門もそのあたりの出であると思われるので、竹島の菩提寺や入野の長泉寺で調べてもらったが、手がかりになるものはなかった。何かご存じの方がいれば、ぜひ教えていただきたい。

いずれにせよ、田中清次は兵役を逃れるために必死で探していた養子の口を、母夏の縁もあって下田ノ口馬野々の嶋津家に見つけたものと思われる。

なお、明治政府は明治二十二年、徴兵令を改正し、戸主、長男、養子などの免役規定をなくし、国民皆兵の原則を強化した。しかし、師範学校を出た者等、一部の免役は残している。上林暁の父徳広伊太郎は、これの適用を受けている。

さて、話を戻すそう。田中の家の養子になった武之助であるが、結婚後も常野を連れ一年間、沖ノ島で巡査を続けている。

島の主食はイモであり、麦飯がごちそう、米を食べることは稀という生活であったが、常野にとっては思い出深い新婚生活であったのであろう。晩年、沖ノ島のことをよく話していたことや、島で縁のあった方から長く海産物が送られてきていたことを、私は覚えている。

私よりだいぶ年上の従姉妹(祖母の孫)は、「お月さんももいろ」のわらべうた(珊瑚漁を歌ったもの)をきかせてもらったこともあるそうだ。

そんな沖ノ島を私はこの九月、初めて訪ねてみた。島のいまの人口は二百人を切り、巡査も廃止されて久しく、かつての賑わいは偲ぶよしもないが、それでも本土にはない海と空の独特の色とにおいは変わっていないはずであり、百年前、若い祖父と祖母が受けたであろう刺激と感動を、それが血のつながりというものであろうか、私もこの体の髄に感じたのであった。


大方文学学級「大形」277号  2013年11月

祖父 吉本武之助 (1)

私は祖父を知らない。祖父は私が生まれる二年前の昭和二十六年、七十一歳で亡くなった。

祖父は日露戦争を生き延びたあと、私の家に婿養子で入り、八束郵便局をつくったりしている。祖父は日記を残している訳でもなく、写真もわずかしかない。今年八十七歳の父に聞いても、祖父は幼少時代のことは多くを語らなかったそうだ。

私にとって祖父は魍魎(もうりょう)とした存在である。

最近、祖父が昭和十八年に使った手帳が一冊出てきた。そこに学歴、従軍歴の簡単なメモ書きがあったので、それをもとに寺や役場などでも調べ、明治、大正、昭和を生きた一人の日本人の足跡をたどってみたいと思った。


祖父吉本武之助は、明治十三年七月二十九日、幡多郡田ノ口村下田ノ口で父兼平、母キミの次男として生まれた。ほかに一人の姉と兄がいた。

上林暁は自分が生まれた下田ノ口のことを多くの小説に書いている。「ちちははの記」には、「ふといとこ」「こまいとこ」という記述がある。田畑など資産の多い家、少ない家という意味である。

当時の吉本家は「こまいとこ」であった。しかも、武之助五歳の時母を、十二歳の時父を失い、兄亀太郎が十七歳で家督を継いでいる。

武之助は明治二十四年、下田ノ口尋常小学校四年を卒業した。「田ノ口小学校百周年記念誌」(昭和六十一年刊)の卒業生名簿九名の最初に名前が出ている。明治の初めのころであり全員男、上林暁(本名徳広巖城)の父徳広伊太郎の名前もある。 

武之助は武(ぶ~)、武(ぶ~)と呼ばれた。勉強好きな子であったと言われている。だからであろう、家も苦しい中ではあるが、入野高等小学校に進ませてもらっている。しかし、一年でやめている。十一歳であった。

そのあとは、近くの家に奉公に出た。どの家なのか、どんな奉公だったのかはわからないが、当時「ふといとこ」には、百姓仕事や家の賄い、子守りなどを手伝う、住み込みの男女がいたというから、そんなことであったのであろう。

後年、武之助は孫娘が家の食事に不満でぐずったりすると、「家族みんなが一緒に食べることができるというのに何の不足があるか。いやなら食うな」と叱った。自分には家族がなく、また奉公時代は主人の家族が暖かい飯を食べていても、自分たちはあとで冷たい飯しか食べられなかったことを言いたかったのだ。

武之助は二十歳になった明治三十三年十二月、兵役についた。実家ではなく、奉公先から門(かどい)出(で)をしてもらい、高知の歩兵第四十四連隊に入営した。そして、明治三十六年十一月、兵役三年満期により下田ノ口に帰った。どこで荷をほどいたのかわからない。

半年後、明治三十七年四月二十六日、日露開戦による充員召集を受け、再び四十四連隊に入営。この時、姉多喜(加持の植田家に嫁いでいた)から「死んでこい」と言われた。御国のために死ぬというのではなく、帰っても家には何もないという意味だったと聞いている。 

五月七日、高知を出発、伊予高浜港で四国内各部隊と合流し、第十一師団(本部善通寺)として編成をされ、同月二十二~二十五日出港、二十八~二十九日、遼東半島張家屯に上陸をした。

第十一師団は、ただちに第一師団(東京)、第九師団(金沢)とともに乃木希典大将率いる第三軍に入り、旅順包囲作戦に加わった。ロシア海軍の基地旅順港は、まわりの二〇三高地、盤龍山、東鶏冠山などにつくられた難攻不落の要塞で守られていた。

第三軍は苦しんだ。ロシア要塞には最新型の機関銃が備えられていた。武之助らは盤龍山への突撃を命ぜられた。弾丸の雨の中、戦友が「豆の子を転がすように」バタバタと斃れていった。武之助も左腕に弾があたり負傷。屍(しかばね)の中に腕をおさえて伏せ、静まってから下山したという。帽子を脱ぐと弾が貫通、腰の銃剣にもあたっていた。

第三軍は八、十、十一月の三回総攻撃を行い、ようやくにしてロシア要塞を陥落させた。武之助がどの攻撃で負傷したのか、そのあと奉天の会戦などにも従軍をしたのかはわからないが、四十四連隊は明治三十九年一月、高知に復員している。

陸軍上等兵であった武之助が明治政府からもらった従軍功労、勲八等功七級の金鵄勲章が家に残っている。明治三十九年四月一日付、「日本帝國明治三十七八年従軍記章の證」。日露という文字はない。 

今回、徳広伊太郎についても調べてみた。「父イタロウ」は上林暁の小説でほぼ事実どおり書かれている。伊太郎は明治十四年八月八日生まれで武之助より一年あとだが、尋常小学校は一緒に卒業している。

徳広家は「ふといとこ」であった。小地主で後に造り酒屋にもなっている。伊太郎は一人息子として祖母に育てられた。尋常小学校を卒業したあと、入野の高等科四年も修了。十八歳で結婚をした時は、高知師範学校簡易科に在籍していた。妻は十七歳で子を産んだが、柿の実を多く食べていたので、難産で母子ともにすぐに亡くなった。

伊太郎は二十歳で再婚。妻春枝は十五歳。翌年長男巖城が生まれた。その頃は宿毛のほうの学校に赴任をしていたが、教員は義務年限の七年だけで辞め、家に帰って役場に入り、三十五歳から田ノ口村村長を十八年間つとめた。

伊太郎は兵役にはついてはいない。当時の徴兵制度では、師範学校に進んだ者は免除をされていたのである。

村長を辞めたあとの晩年、伊太郎はこう述懐していたという。
「武は家さえ貧乏でなければ、村長ぐらいはやっていただろう」
(続く)


大形文学学級「大形」276号投稿 2013年9月

秋水非戦の碑建立計画について

来年2021年は幸徳秋水生誕150年・刑死110年にあたります。幸徳秋水を顕彰する会では、毎年1月24日の秋水命日(刑死日)に墓前祭を開いていますが、10年きざみの節目の年には、規模を大きくした記念事業に取り組んでいます。

来年は刑死110年が生誕150年(11月5日)と重なることもあり、記念事業の目玉として秋水二つ目の顕彰碑を建立する計画を進めています。

いまある顕彰碑は刑死70年記念事業として1983年為松公園に建立したもの。秋水が死刑判決を受けた日、獄中で書いた漢詩「区々成敗・・・」を刻んでいる。われわれはこれを「絶筆碑」と呼んでいます。

秋水は明治4年、中村に生まれ、若くして中江兆民に師事。新進ジャーナリストとして活躍。日露戦争においては、非戦論を唱え、戦争容認に転じた萬朝報社を退社し、盟友堺利彦とともに平民新聞を創刊しました。

秋水の非戦論は「反戦平和の原点」であり、戦後、永久平和・戦争放棄の日本国憲法九条として結実しました。しかし、戦後75年たったいま、安倍政権は解釈改憲によって安保法を成立させ、日本を「戦争ができる国」に変えてしまった。さらに、明文改憲に執念をみせている。

われわれはいまこそ、秋水の非戦論に立ち返り、憲法九条を守らなければならない。今度の碑は秋水非戦論の代表的論説で1904年1月、日露開戦前夜、平民新聞に書いた「吾人は飽まで戦争を非認す」の中の次のフレーズを刻み、「非戦の碑」と呼んで、平和を愛し守る国民総意のシンボルにしたいと願っています。

吾人は飽まで戦争を非認す
之を道徳に見て恐る可きの罪悪也 
之を政治に見て恐る可きの害毒也 
之を経済に見て恐る可きの損失也 
社会の正義は之が為めに破壊され 
萬人の利益は之が為めに蹂躙せらる 
吾人は飽まで戦争を非認し 
之が防止を絶叫せざる可らず

建立予定場所は秋水墓がある四万十市内浄土宗正福寺境内。除幕式は秋水誕生日に合わせ2021年11月を予定しています。

建立にかかる費用は約300万円で広く全国から協力寄付金(1口=5千円)を募っています。ぜひ、多くの方のご賛同と、ご支援をよろしくお願いいたします。振込先は次のとおりですが、ご連絡くだされば郵便振替依頼書をお送りします。

郵便振替 01610-7-0009071
ゆうちょ銀行 一六九支店 当座 0009071
名義 幸徳秋水を顕彰する会
連絡先 090-6827-9129 田中全

高知民報2020.8.9

高知民報    チラシ完成版




プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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