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「幡多」のアクセント

公共放送であるNHK天気予報において以前は「高知県西部」とひとくくりに言っていたエリア表現を最近は「幡多」と言ってくれているケースが多くなった。「あした幡多は晴れるでしょう」とか。より具体的な言葉を使ってくれるので、予報がわかりやすくなり、歓迎したい。

しかし、他県出身のアナウンサーのためであろう、幡多という言葉のアクセントやトーンが普段高知県人一般が使うそれと明らかに違うことが多いのには違和感がある。

アクセントやトーンの違いを文字では表現しにくいが、例えば蜘蛛(くも)と雲(くも)、牡蠣(かき)と柿(かき)のように、同じ言葉でも話に方によって全く意味が違ってくる。

古代の古事記、日本書紀の時代には「幡多」はもともと「波多国」であり、「都佐国」と別れていたのだが、のちに「土佐国」として統一されたという歴史がある。今でも幡多弁が土佐弁と違う背景もここらにあるのかもしれない。それだけに、われわれ幡多人は幡多という言葉にこだわりと誇りをもっている。

地名を意味する言葉は、その地元で日常的に使われているアクセント、トーンをもって正確とすべきだと思う。

NHKは幡多という言葉の使い方について正確なアクセント、トーンで使ってほしいと思う。


高知新聞「声ひろば」投稿
2020.11.30

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咲かずの藤

一條神社は土佐一條家を祭った神社であり、幕末の文久2年(1862年)に建立された。

先の関白一條教房が京都の戦乱(応仁の乱)を避け、一族を引き連れ中村に下向してきたのは応仁2年(1468年)。以来4代、約100年、土佐一條家は続いたが、その間には、一條神社はつくられなかった。

一條家が土佐を去ってから約300年後に神社がつくられた言われについては、神社階段横の藤棚の根本に立っている石碑「霊藤記」に刻まれている。

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土佐一條家4代目の兼定は、長宗我部元親に追われ、中村を去ることになる。その時、庭の藤の木に向かって、次の歌を残した。

 植え置きし 庭の藤が枝 心あらば 来ん春ばかり 咲くな匂うな

藤は主人の言いつけを守り、その後300年間花をつけることはなかった。しかし、文久元年(1861年)、突然咲いた。

中村の町人たちは、これに驚いた。それまで一條家を祭らずにきたことを反省し、翌年、資材を持ち寄り、神社を建立した。

文久年間といえば、幕末の騒乱記であり、勤皇・尊王運動が盛んになっていた時期である。一條家は天皇家とも婚姻を結んでいて、一体であった。

実際、この藤はいまでも少ししか咲かない。わずかに花びらをつけるだけである。その理由は、科学的に言えば、土壌の問題か、なぜなのかわかっていない。

藤の花は、中村市時代から四万十市の「市の花」になっている。毎年5月3日には、土佐一條公家行列「藤祭り」が開かれ、公家装束をまとった男女が藤の花をかざして、土佐の小京都中村のまちを練り歩く。

春は藤祭り、秋は一條さん。

中村は一條家とは、切っても切れない町である。

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一條さん

今年も11月22日~24日、一條神社の秋の大祭が開かれた。地元ではこのお祭りのことを「一條さん」と呼ぶ。

今年の一條さんはコロナの影響で規模を縮小。参道入り口の駐車場での大道芸や歌などの催し物は行われず、屋台も県内業者に限定し、間隔をあけ、びっしり並ぶという訳にはいかなかったため、寂しい感じはしたが、それでもまずまずの人出であった。

9月に行われる不破の八幡さんの秋祭りは、神事の一部だけが行われ、屋台などはまったく出なかったので、一條さんも同じだろうと思っていた。しかし、一條さんはほぼ例年と同じような形で行われたので、よかった。中村の人間にとってこの季節、一條さんがあるのとないのでは全然違う。

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最近は人口そのものが少なくなったため、人出も少なくなったが、私が子供のころの人の数はすごかった。中村の近郷近在から人が町に集中していた。

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当時、移動はバスしかないので、満員バスに揺られて中村に出てくる。坂本橋を渡り、堤防にあがると赤鉄橋が遠くに見える。だんだんとお町が近づいてきて来る。いよいよ鉄橋をバスで渡る時は胸がドキドキした。中村はそれだけあこがれのお町であった。

一條神社にお参りしようとすると、階段下には傷痍軍人姿をした人たちが顔や手足に包帯を巻いて、松葉杖を肩にかけ、哀愁を帯びたアコーディオンを流しながら、援助を乞うていた。

私はこども心に、その姿を見るのが気の毒というより怖くてたまらず、目を合わさないようにして前へ進みたいとあせるのだが、人が押し合いへし合いで、身動きがとれなかった。

町の中は人であふれていた。サーカス小屋もあった。三つあった映画館も満員であった。

近郷近在の農家などは、普段は中村にでかけることはないが、一條さんの時だけは家族そろってでかけ、うまいものを食べてから映画などを見る。一年に一度の楽しみであった。

いまはどの家にも車があり、簡単に町に行ける。町の値打ちがなくなった。しかし、一條さんだけは、中村の昔からの威光のようなものをかもし出している。中村と一條さんは歴史も文化も一体である。

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新庄村

11月3日。家に帰る日。早めにホテルを出て、倉吉の名所、白壁土蔵の町並みを歩く。2年前も2度来ているから、土地勘はできている。行きたい店を選んで入る。玉川のせせらぎのひんやりした冷気が身を引き締めてくれる。

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倉吉が好きになったのは、山田太一の名作、NHKドラマ「鳥帰る」(1996年)の舞台になったから。田中好子、杉浦直樹、香川京子が出演。母子の愛憎を通して家族のこころの襞を描いた。今は亡きスーちゃんの代表作になった。

http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-451.html

まっすぐ南に進む。関金温泉を通り、犬挟峠の長いトンネルを抜けたら岡山県の蒜山高原。紅葉真っ盛り。2年前も同じ時期来ているので、その時行かなかったジャージー牧場で一息入れる。

いつものとおり湯原から勝山へ抜けるつもりであったが、観光地図をみていると新庄村回りでもそう時間が変わらないことがわかった。

30代のころ岡山に転勤で3年いた時、県内ほとんどの所に行ったが、新庄村はまだであった。岡山県西北端、県で一番小さな村で「がいせん桜」があるということは知っていた。

初めての道を走り15分で着いた。途中、いつもと違う角度から大山を遠望できた。ススキと紅葉の先に。

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村の中心部といっても小さな集落で、「がいせん桜」はすぐにわかった。がいせん=凱旋で、1906年(明治39年)、日露戦争の勝利を祝って、出雲街道の宿場に植えたもの。通りに沿って137本の桜並木が5.5メートルの間隔で残っている。みんな背が低く、通り抜けのようになっている。

端から端まで300~400メートルくらいであろうか、歩く。春の花とは違い、柿色に染まった葉桜の見ごろで、情緒いっぱい。秋の桜の美しさを感じた。宿場の本陣や脇本陣の白壁の建物もあり、すばらしいコントラスト。

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黛まどかさんの句碑も建っていた。

 峡(かい)の日を のせて漂ふ 花筏(はないかだ)

観光交流プラザがあったので入って話を聞く。背が低いのは、道路端で人間の足で踏まれるため成長が抑えられたため。それでも枯れないのは、道の両側に水路が流れており、適度の水分が年中たもたれるため。その微妙なバランスで、100年を超える古木が生き続けてきた。もちろん、地元の人たちが村のシンボルとして大切に守ってきたことが一番大きい。桜とせせらぎの音は、「日本の音風景百選」にも選ばれている。

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村の人口は約800人という。私がいたころの真庭郡9町村は、2005年、新庄村を除いて合併し、真庭市になった。新庄村は早々と自立宣言をし、残った。立派である。

というのも、ものすごい歴史があるからだ。日本の近代地方自治制度ができたのは明治22年であるが、その前の明治5年、「自然村」ができた当時から、いまと同じ範囲の新庄村だった。だから、村には大字がない。各家の番地は新庄村○○番地なのだ。新庄村は日本の地方自治体の中で完全純血種なのだ。

誇るべき村。そんな村だから、凱旋桜も守られてきたのであろう。

奇しくもこの日は11月3日。戦後は文化の日(憲法公布日)であるが、戦前は明治天皇の誕生日であり、天長節とか明治節とか言われた。

桜並木沿いの家の玄関には日章旗を掲げているところが多かった。国民の祝日に日の丸を掲げる家は時々みかけるが、これだけ並んだのを見るのは初めて。

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凱旋桜があるのでこうした光景が続いているのであろうか。桜の苗木を植えた当時の様子が目に浮かんだ。大陸からの帰還兵が凱旋ラッパを先頭に行軍する。勇ましく、かっこいい。

しかし、日露戦争は「勝った」のではなく、「負けなかった」というのが真実。日本は戦争を続ける余力は残っていなかったので、アメリカに仲裁を頼んだ。(ポーツマス条約)賠償金もとれなかったので、あとで国民の不満が爆発した。(日比谷焼き討ち事件)

幸徳秋水は日露戦争に反対した。非戦論を唱えて。その結果、のちには大逆事件の首謀者に仕立て上げられ抹殺された。

凱旋桜はそんな日本の歴史の負のイメージも背負っている。しかし、この桜並木に価値があるのは、村民が100年以上にわたり、桜の物語を大切にし、営々と守り続けてきたこと。それが村のシンボルとなり、誇りとなったからこそ、幾多の町村合併の誘惑にも負けず、独立自尊を守り続けられているのだと思う。

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道の駅「がいせん桜新庄宿」で名物の「ひめのうどん」を食べてから、勝山に下った。紅葉に包まれた30分の快適な道であった。

勝山(真庭市)では、いつもの辻酒造西蔵に寄る。風情ある「のれんの町」を少し歩く。4時、落合ICから高速に乗り、家に着いたのは10時であった。

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湯村温泉

11月2日。豊岡に泊まった翌日は日本海の海岸線を通った。朝からしとしと雨で肌寒い。私の心は日本海の濃い青の鉛のような色に引き込まれる。太平洋の淡白な色とは違った人間の深さをおぼえる。雨がその雰囲気を一層かもしだしている。

丸山川の土手を下ると河口の手前、支流が注ぎ込むところに城崎温泉がある。文豪志賀直哉の「城崎にて」で有名であるから、一度どんなところか来てみたかったところ。城崎町は、いまは合併で豊岡市の一部。

幸徳秋水らの平民新聞を資金面で支援をした京都丹波の岩崎革也(須知町)の常宿もあり、堺利彦が訪ねて来て一緒に逗留したこともある。その宿はいまも残っているのだろうか。

温泉街を流れる支流に沿って柳が濡れている。テレビの旅番組そのままの光景。大正から昭和初期のような情緒的な雰囲気の建物がびっしり軒を並べている。飛び石連休の中日のせいか、観光客らしきおおぜいの人が傘をさしてぞろぞろ歩いている。みんなマスクをして。GO-TOさまさまか。

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車を降りて少し歩きたいと思ったが、駐車場がない。しかも渋滞。しかたがないので、そのまま通りすぎる。来たんだという記憶だけもらえればいい。

また、本流に沿って下るとすぐに河口だ。海に向けてぱっくり口を空けている。河口なのか湾なのか、海と川が一体になっている。地図では津居山湾となっている。

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港があり大きな漁船が3艘つながれている。カニ船団だろうか。四万十川でいえば下田港のような位置だが、はるかに大きな港だ。防波堤に立つと沖にカモメが飛んでいた。

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2011年7月、東北震災のあと、被災地視察に行った際、石巻市の大川小学校のすぐ下流の新北上川河口を見たが、あそこも追波湾といって、海と川が一体となっていた。よく似ている。

車は海岸の崖の上に沿ったくねくね道を西に進む。海が見えたり隠れたり。小さな湾の入り江に家が点在している。旧竹野町(現豊岡市)の役場があったところを過ぎ、香美町(旧香住町)に入ったところの交差点で海にお別れをし、内陸部を通る高速道路佐津ICに向かっていると、幸徳寺という道路標識が見えた。オッと思った。

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道をそれて矢印の方向に向かうとその寺はあった。誰かと話をしたかったが、人気がない。本堂前で手を合わせただけで辞した。

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すぐにネットで調べたところ、曹洞宗の禅寺であった。全国には、幸徳寺という名前の寺は、大阪府堺市と佐賀県鹿島市にもあることも知った。幸徳秋水とのつながりはないのだろうが、「幸」「徳」という名前はいかにもご利益がありそうで、お寺や神社にはふさわしい、いい名前だと思う。

高速に乗り、きょうの一番の目的地、4年前はパスをした湯村温泉をめざす。前回、高速は余部までで、そこで名物の旧鉄道橋を見たが、この日は高速も延長されていたので、そのまま進む。すぐに終点浜坂ICに着く。山側に左折し15分で湯村温泉に。

湯村温泉はTVドラマ夢千代日記の舞台。私の好きで尊敬する脚本家、早坂暁の3部作であり、名作であった。主演は吉永小百合。(映画にもなった。)

夢千代日記は、単なる鄙びた温泉の芸者の話ではない。夢千代は広島で胎内被曝をした被爆者であり、反核平和への熱い思いを込めた作品なのである。日本海のよどんだ暗い海と空は、作品のイメージにぴったりであった。その雰囲気を体感したかった。

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二つの谷川が合流する狭い谷間に宿が集中している。隠れ宿といった感じ。城崎温泉の色気と華やかさがある街並みとは違う。橋を降りたところにシンボルの荒湯があり、湯けむりがあがっている。向かいの山側には夢千代像があった。

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温泉に入るのが目的ではないので、土産物店をぶらぶらし、夢千代館に入る。
舞台セットなど、ドラマの世界が再現されていた。ビデオも流れていた。3人のメッセージも色紙に。

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早坂暁 「夢千代は淋しくとも愛の微笑に囲まれて」

深町幸男(演出家) 「長いトンネルをぬけると、鉄橋があった。走り抜けると山陰本線。低い山々の中の盆地の中央に夢千代日記の里があった。懐かしくて、暖い人の情けいっぱいの湯村温泉の人々。私は沢山のテレビドラマ、映画の地方ロケで、日本各地でロケーション撮影をやって来たが、私が心に残るロケ地は湯村温泉以外にない。今でも、私は感謝の気持ちで一杯である。ありがとう。」

吉永小百合 「夢千代はお母さんの胎内で被爆しました。私はその少し前、東京大空襲の三日あとで生まれました。戦争がなかったら、原爆が落とされなかったら、夢千代はお母さんと倖せに暮らしていたでしょう。核兵器のない、平和な世界をめざして行動することは私の願いです。」

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ここは明治22年、最初の村名が温泉村。その後、温泉町になり、いまは隣の浜坂町と合併して新温泉町。字名は「湯」である。

山側の国道9号に出て鳥取砂丘方面進む。雨も強くなり、暗くなってきたので、どこに泊まろうかと思案をした末、翌日の帰りのコースを考え、倉吉に決めた。倉吉は2年前2度来ているので、なじみのホテルへ。

竹田城跡

 11月1日、「大逆事件を明らかにする兵庫の会」の結成集会に出席した翌日は「天空の城竹田城跡」を訪ねた。

竹田城跡は前から一度行きたいと思っていたので、いつもなら淡路島を通って帰るのだが、但馬→鳥取→岡山とぐるりと山陰を回って帰ることにした。

大阪市内を午前中に出発し、中国縦貫、舞鶴道、北近畿自動車道を、途中の休憩時間を除けば、スイスイ約2時間で午後1時に和田山に着いた。思ったよりも早い。インターを降りるとすぐに竹田駅があり、駅の前にそびえる山の頂上(標高353メートル)に竹田城跡がある。

山の裏側の麓に「山城の郷」というドライブインを兼ねたような広い駐車場があり、一般の車はそこまで。そこから約40分をかけて歩いた。ちょうど紅葉が見ごろの日曜日で、またGO―TOキャンペーンの影響もあるのであろう、結構な人であった。

つづら折りの道は、頂上まで舗装をされているので、歩きやすいが、険しい山道という感じはしない。伝次郎(わが家のパグ犬)もトランクから出してやると、開放感いっぱいに、グイグイひっぱって先に進む。人間より元気だ。

頂上の手前で500円の入場料を払うと、いよいよ城跡だ。最後の急な石段を登りきると、視界が開けた。高い。足元の下に恐る恐る竹田の城下町が覗ける。JR播但線の線路も。危険なので、先端には近づけないようにロープが張られているが、それでもこわい。

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竹田城は嘉吉元年(1441年)、山名氏によってつくられた。播磨、丹波、但馬の交通上の要所であり、秀吉もおさえ、甥秀長を配置したこともありが、関ヶ原の戦いのあと廃城となり(その時建物は取り壊された?)、幕府の直轄、生野代官所の管理下におかれた、そうだ。。

城跡をぐるり歩いた。天守閣跡に立てば、周りの視界は360度全開。尾根沿いに、直線的に石垣が何段にも重なって組まれているので、「東洋のマチュピチュ」というのもうなずける。(私はマチュピチュに行ったことがないが・・・)

竹田城跡は、向かいの山から撮ったあの雲海に浮かび写真1枚で一躍有名になった。観光客が殺到し、いまに至っている。

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その写真と、実際に天守閣跡に立った印象からいえば、これは戦艦大和だ。太平洋戦争中、宿毛湾沖で走行訓練をしている大和の写真が残っているが、それとそっくり。海に浮かぶ鉄のかたまりだ。宇宙戦艦ヤマトで描かれたあの姿だ。

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一方で、歴史の風雪に耐えた、朽ち果てた古城という雰囲気はない。江戸期を通して廃城だったからであろうか。人や血の匂いがしない。人の痕跡も感じられない。場内には古木もない。池もない。平坦な広い芝生だけで、さながら公園のよう。

同じく、城郭のなくなった山城でも、以前訪ねた大分県の岡城、奈良県の高取城のような、いまにも武士の亡霊が現れそうな、重苦しい気配はない。

あの写真1枚で有名になってから、多くの観光客を受け入れられるように、山道や城内を整備したからであろうか。貴重な歴史的遺構であることには間違いがないけれども、日本人がマチュピチュを訪ねても、地元の古代インカ人のにおいをかぎとることができないように(私は勝手にそう思うのだが)、ここには武士の匂いをかぎとることはできない。

廃城のまま野ざらしにされた江戸300年の間に、その匂いは風化し、消されてしまったのではないか。

ここには一度来たかったので、やっと来れたという満足感と、見たのは古城ではなく、縄文や弥生の発掘遺跡のような城の遺跡であったという、距離感を感じてしまった。

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秋の日はつるべ落とし。山を下りてから、宿は豊岡にとることに決め、車を走らせた。ここも初めての道。

豊岡の手前に八鹿というところがあった。道路標識をみて、ああここが八鹿かと思った。八鹿といえば、1974年、同和問題にかかる八鹿高校事件があったところ。私が大学時代のことで、事件の性格から一般にはほとんど報道をされなかったが、私の印象には強く残っている。

当時は養父郡八鹿町、いまは合併して養父市になっている。竹田城も朝来郡和田山町であったが、いまは朝来市である。合併で貴重な地名が失われていくのはさみしい。

豊岡は4年ぶり。その時も大阪での大逆事件サミットの帰り、天橋立、丹後半島を通っての帰りであった。

夜、ホテルで、大阪都構想の住民投票の開票速報をヒヤヒヤしながら見た。僅差で、今回も反対票が上回った。よかった、よかった。大阪市が守られた。気分よく眠れた。

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大逆事件を明らかにする兵庫の会

10月31日、神戸において「大逆事件を明らかにする兵庫の会」の立ち上げ集会が開かれ、参加してきた。

大逆事件では、1911年1月18日、24人が死刑判決を受けた。その中の2人、小松丑治と岡林寅松は神戸に住んでいた。2人は高知市出身で、同じ小学校(高知師範付属小学校)の同級生であり、神戸海民病院に勤めていた。

日露戦争時のことで、2人は幸徳秋水の非戦論に共鳴。秋水らが発行していた平民新聞の読書会(神戸平民倶楽部)を開いていた。ただそれだけのことが原因で、事件に連座させられた。2人以外にも取り調べを受けた仲間が多くいた。

2人は翌日恩赦という形で無期懲役に減刑され、その後長崎監獄に送られた。(死刑判決24人のうち12人は無期懲役に減刑された。)以降、1931(昭和6)年の仮出獄まで、21年間、獄中生活を送った。

「兵庫の会」がつくられることになったきっかけは2017年9月、神戸市灘区の「憲法を生かす会・灘」の4人のみなさんが秋水の墓参にみえ、交流をしたこと。その中のお一人、津野公男さんは須崎市出身で、以前から幸徳秋水を顕彰する会の会員であった。

4人が中心になって、2018年4月には、「幸徳秋水を語る神戸のつどい」を開催。5人が講演を行い、私も「現代に生きる幸徳秋水」について話をさせてもらった。会場は今回と同じ神戸学生青年センターで、約80人集まった。

同年10月、第4回大逆事件サミットが和歌山県新宮市で開かれ、神戸のみなさんも参加。その席で、第5回サミットは神戸で開く方向になった。

今年1月24日には秋水墓前祭に10人が参加し、高知市内にある小松、岡林の墓参もした。

神戸の皆さんはその後4回の勉強会を重ね、今年10月17日、神戸サミットを開催すべく準備をしてきたが、新型コロナウイルス感染拡大により、いったん中止を余儀なくされた。

しかしながら、これまで準備や勉強会を進めてきた成果を継続的な組織として活動を続けようということになり、兵庫の会を結成することのなったのだ。会場はコロナのため人数を抑制し約50人集まった。

兵庫の会は大逆事件だけをテーマにしているのではない。平民新聞、平民社の果たした歴史的意義や、当時の権力によって事件がフレームアップされた実態、背景を学ぶことによって現在の政治状況を考える。改憲を阻止し、平和と民主主義、国民の生活を守る糧としていく。そんな規約と活動方針が承認された。代表世話人は津野公男さん(事務局長兼務)、飛田雄一さん、稲村知さんの3人。サミットはコロナの状況を見て来年以降に開催される見込みである。

私は幸徳秋水を顕彰する会を代表して連帯のあいさつをさせてもらった。記念講演は山泉進明治大学名誉教授(大逆事件の真実をあきらかにする会事務局長)による「大逆事件と今後の運動」。

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「戦後の復権・顕彰運動」から「大逆事件100年以降」へ。2010年以降、サミットが継続的に開かれ、各地の運動に新たな広がりがみられるようになり、メディア、出版でも新しい視点で取り上げられるようになった。第1回サミット(2011年、中村)において「大逆事件の犠牲者たちの人権回復を求める全国連絡会議」が結成されたように、今後は、「かわいそうな犠牲者たちを助ける運動」から、「自分たちの大切な人権を守っていく運動」に発展させていかなければならない。~という論旨。

そんな意味では、今まさにおこっている日本学術会議の6人任命拒否問題は、国に逆らう者や思想は許さないという弾圧であり、大逆事件につながるものである。学者研究者の人権にとどまらず、国民一人一人の人権をおびやかすことになるという視点で考え、批判し、行動しなければならないと思う。

会場には高知新聞が取材に来ており、後日記事になった。

兵庫の会
高知新聞 11月3日










プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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