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市長選挙を振り返る(1)

4月25日の四万十市長選挙から今日で1か月たった。選挙結果を受け入れ、今回の選挙がどんな選挙であったのか、なぜ自分は敗れたのか等について自分なりの総括をするためには一定の時間が必要である。だからこのブログもこの間何も書く気にはなれなかった。いまの時点でも心の整理が十分にはできず、納得がいく選挙総括ができたとは言えないが、1か月は一応の区切りなので、選挙を振り返っていまの思いをいろいろ書いてみたい。


1. 出馬までの経緯

私は12年前の四万十市長選挙に出馬して当選し、2009年5月~2013年5月の4年間市長をつとめさせてもらった。選挙で公約した私の基本姿勢は次の五つであった。

1. 対話を大切に市民の力を引き出す。
2. 弱い立場の人を応援する。
3. 「地元で出来るものは地元で」、地元を優先する。
4. 四万十川を再生する環境・産業を育む。
5. 幡多の歴史と文化を育む。

これらに基づいて、いろんな取り組みを行い、確かな手ごたえを感じていた。だから、次の4年間も当然続投させてもらえるものと思っていたし、その自信もあった。しかし、今回も敗れた中平正宏氏に3400票という思わぬ大差で敗れた。

私は市長になる約半年前に地元に帰ってきた。それまで農林中央金庫に勤めていたことから行政経験はなかった。しかし、ふるさとに対する思いは誰にも負けないものをもっていたと今でも自負をしている。

地元の人たちのために仕事ができることは大きな喜びであった。4年間はあっという間であった。取り組み途上や、着手したばかりの事業も多かったことから4年間では時間が足りなかった。自分としても不完全燃焼であり、登っている途中ではしごを外されたようなものであった。

だから、次の選挙には再チャレンジしたい、やる気満々であった。

しかし、選挙というものは自分一人ではできない。支援者がいないと戦えない。次の選挙では、その十分な選挙体制ができなかった。

私は市長として、市民病院の医師確保による体制立て直しや、健康福祉委員会の立ち上げ、デマンドバス・タクシーの導入、地域づくり支援員制度など、市民生活に密着した施策に取り組んだ。

また、2011年の東日本大震災を受け、地震防災対策や、西土佐総合支所の建て替え、道の駅建設にも着手した。

4年間という短い期間にしては、かなりのことができたと思っているし、これらの事業は市民の間でも歓迎され、評価されたと思っている。市長をやめてからも自分がやった事業に対する不満、批判のようなものは聞かない。

しかし、あとではっきりとわかったことだが、こうした事業そのものではなく、その進め方等については、関係者にかなりの不満があったようだ。関係者とは議会や市職員のこと。

議会については、最初の選挙を戦った時から、私を応援してくれた議員は少数派であった。だから当選してからも少数与党であり、議会対策ではずっと苦労をした。議会というものは理屈だけでは通らないことも多い。議員も人間であるから、選挙の「しこり」もある。理不尽な辞職勧告決議を受けたこともある。

それならばそれで、私としても理屈や政策とは関係ない部分を含めた、議員との融和、コミュニ―ション(酒のつきあいなど)を図ればよかったのであるが、私としては元来そういうことは苦手であり、好まなかった。

こういう私流のつきあいの仕方は、市の職員、特に幹部職員との間でもそうであった。私は半年前に里帰りしたばかりで、地元の実情もよくわからないことから、いろんな事業は周囲からの提案・意見を受けて策定をしたものが多い。周囲とは市の職員が多い。私よりもずっと行政経験が豊富な訳だから。

私は自分の基本政策に沿ったような提案はドンドン受け入れた。しかし、その進め方に性急すぎた面があったと思う。

私は農林中央金庫という民間企業(団体)で32年間仕事をしてきたので、そこでの仕事の進め方が身に染みている。しかし、民間と役所では仕事の進め方が違う。役所には役所流のやり方がある。予算は議会を通さなければならないし、国や県との調整もある。ややこしい手続き、段取りを踏まなければならないことも多い。総じて時間がかかる。

そのギャップはいろんな面に現れた。私はイライラしてよく職員を叱った。民間では上司が部下を叱るのは当たり前であり、私もよく叱られた。

農林中央金庫は全国組織であるから、だいたい3年で転勤・異動がある。職場で叱られ、気に入らない上司や部下であっても、少しがまんすればお互いの転勤で組み合わせが変わる。転居を伴う異動が多く、たいていの場合、しばらくは顔を合わせることはない。だから、ある程度ドライに付き合える。

しかし、市役所という職場は、たとえ異動があっても同じ庁舎内でいつも顔を合わせることになる。それだけ人間関係は濃密である。その関係は退職するまで続くのであるから、お互い傷つけあわないようにする、いい意味では「配慮」「気使い」、悪い意味では「馴れ合い」のようなものがある。

私としては地元への熱い思いをもち、まじめに一生懸命取り組めば、市民はわかってくれるし、ついてきてくれるものと信じていた。しかし、そんなことは選挙(特に地方選挙)というものを知らない素人の甘い考えであった。

市長選挙というものはある意味人気投票である。政策や実績をしっかり見てくれる市民ばかりでない。市長と市民の間には第一に議員がいる。第二に市職員がいる。こうした人たちのフィルターを通した噂や風評のようなものによって市長のイメージがつくられる。私はマイペースで強引、人の話を聞かない、ちょっと近寄りにくい市長と見られたのだと思う。

選挙は中央政治の影響も受ける。私が当選した当時は、民主党が上げ潮であり、長年続いてきた自民党政権(自公政権)から交代する直前であった。しかし、その4年後は、民主党政権はもろくも崩壊し、自民党が政権復帰し、アベノミクス絶好調の時であった。私の支持者には自公政権に批判的な人たちが多かった。

こうした情勢下、二度の選挙で私を支持してくれた議員や市民の間にも、もう一度私をかついでも勝つことはむずかしいだろうという雰囲気が一定広がり、なかなか選挙を戦う体制ができなかった。

私はそれでも出馬をしたい気持ちがあったが、最終的には断念した。

私は諦めきれない思いをもっていたが、こうした経緯から、三度目の出馬をする機会はもう来ないだろうと、自分に言い聞かせ、納得をさせてきた。

しかし、今回、あれから4年がたったところで、過去2回の選挙で私をかついでくれた人たちから次の市長選挙への出馬の打診、要請を受けた。

昨年11月下旬のことである。私は1週間後、応諾の返事をした。(続く)

プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
フェイスブック(FB)もしています。

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