丑治の足跡

 小松丑治は大逆事件犠牲者の1人である。明治36年、平民新聞読書会である神戸平民倶楽部をつくり活動する中で、同43年(1910年)事件に連座。無期懲役の判決を受け、20年間獄中生活を送った。出獄後も迫害、差別、貧困の中、敗戦直後、昭和20年10月、京都で没した。このことについては、このブログ「二人の墓 岡林寅松 小松丑治」(7月20日)にも書いた。

9月23日、私は妻両親の彼岸の墓参り(岐阜県関ケ原町)に車で出かけたので、その往復途中、神戸、京都、そして明石(妻ハルさんの最期の地)に、丑治の足跡を訪ねた。

 小松丑治は明治9年、高知市生まれ。明治31年、神戸に出て、海民病院で事務(薬務?)の仕事についた。同病院は船員相手に、兵庫港岸壁に近い、東川崎町にあった。その場所はいま公園になっていた。川崎重工本社工場の目の前であった。兵庫港は平清盛が開いた、当時神戸で最大の港であり、労働者のまちであった。丑治は病院近所の小間物店の娘ハルさんと知り合い結婚した。

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海民病院は山の手の夢野村に分院を開設し、本院もそこに移転。その頃、丑治は、高知市から小学校同級生の幼なじみ、医師志望の岡林寅松を病院に誘った。神戸平民倶楽部はこの2人が中心になってつくった。この病院は、いまは湊川病院と名を変え、同じ場所に残っていた。

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丑治は病院を辞め、近くで養鶏業を始めた。ハルさんが鶏を飼うのが好きだったからだ。その場所には、いま神戸市の市営住宅が立ち並んでいた。ハルさんは丑治が入獄20年間、ここで独り、鶏を飼いながら待っていた。(昭和6年出獄)

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「極悪人」の卵を買ってくれる者は少なかったが、近くのキリスト教多聞教会の今泉真幸牧師だけはいつも買ってくれ、心のよりどころになった。ハルさんは洗礼を受けた。その教会も、神戸大学病院の正面、そのままの場所にあった。いまの牧師に話を聞こうと思ったが、不在だった。

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丑治と岡林寅松が大逆事件に結びつけられたのは、箱根から出てきた僧侶内山愚堂に一度会ったこと。養鶏場近くの熊野橋で落ち合い、病院で爆弾製造の話をしたというもの。2人に薬務知識があったことが、「デッチ上げ」の根拠とされた。熊野橋の下を流れていた川は埋め立てられていたが、同名の橋は残っていた。その日、案内していただいた戸崎曽太郎さん(治安維持法犠牲者国家賠償同盟兵庫県本部副会長)によると、内山と落ち合った橋は、すぐ近くの夢野橋かもしれず、はっきりとしないという。いずれにせよ、どちらかの橋だった。

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旧夢野村、いまの神戸市兵庫区夢野・湊川界隈は、当時は人家が点在するだけの村であったが、いまは住宅がビッシリ立ち並ぶ高台である。古くは、平清盛が安徳天皇を擁して、福原京をつくろうとした一帯であり、「ひよどり越え」や楠木正成の湊川古戦場など、平家にゆかりのある古跡が残っている。神戸の中心がいまの三宮周辺に移ったのは、ごく最近、戦後のことである。戸崎さんに、いろいろご教示いただいた。

 翌日。京都市伏見区深草綿森町15番地。さすが歴史のまち京都。戦前の地名、番地がそのまま残っていた。京阪電鉄深草駅や伏見疏水のそばのその場所には、カーナビが簡単に案内してくれた。丑治が昭和18年頃、甥(兄の長男)を頼って、同居したところ。妻ハルさんは鶏の世話があるので夢野に残ったものと思われる。

 最近、丑治縁者から聞いた話によると、丑治は当時白内障で失明同然だったようだ。戦時下、極貧の生活のうえに食糧難。丑治は栄養失調同然で昭和20年10月4日、ここで死んだ(68歳)。やっと戦争が終わったのに、その直後。奇しくも、マッカーサーが政治犯釈放指令を出した日であった。

その場所は、師団街道龍大前交差点から少し入った静かな路地の中にあった。もちろん、丑治の痕跡は何もない。驚いたのは、綿森町を含む周辺一帯は旧日本陸軍第16師団のまちだったこと。旧司令部はそのままの建物で聖母学院短大として残り、練兵場跡地は龍谷大学になっていた。師団街道や第一、第二軍道という、いかめしい名前の道路もそのまま。丑治は死ぬまで、明治政府の亡霊にとりつかれていたのだ。

 伏見区深草綿森町15番地     深草綿森町前 龍谷大学     DSC_3258.jpg

 妻ハルさんは独りになってからは、キリスト教京都洛西教会に身を寄せた。晩年の2年間は明石の老人ホーム明石愛老園(当時キリスト教施設)に入所。昭和42年、ここで没した(83歳)。2人に子はなかった。

中村への帰途。愛老園は名前もそのまま、現在は入居定員100名の大きな施設として残っていた。いまはキリスト教と関係ない。施設長に、ハルさんの記録があるか聞いたが、何もなかった。ハルさんの存在すら知らなかったので、資料をさしあげた。驚いていた。

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丑治・ハル夫妻の墓は高知市筆山にある。これも先のブログに書いた通りだ。私は、今年7月、高知市内にある丑治と岡林寅松の墓をはじめて訪ねてから、2人の遺族縁者を探した。幸いにも、それぞれ県内におられる縁者が見つかった。貴重な話も聞け、古い写真も見せてもらった。

岡林寅松は昭和6年同時出獄後、大阪の大衆病院に勤めたが、戦災に遭い、戦後高知に帰郷。妹の嫁ぎ先に身を寄せていたが、昭和23年没。入獄まもなく子を亡くし、妻からは離縁されていた。

つくづく思うのは、大逆事件はすさまじい思想弾圧事件であったということ。無実の人間を陥れ、その家族や親類までも日蔭者の生活を強いる。それは戦後になっても続く。(死刑12人、無期懲役12人、有期刑2人)

小松丑治と岡林寅松。二人は明治20年代の幼少期、自由民権運動活動の息吹を吸って育った。後年の活動舞台は神戸であったが、まぎれもなく土佐の民権運動の申し子であった。自由・平等・博愛を掲げた先人。しかしながら、いま高知県人ですら、二人の名前を知る者はほとんどいない。二人の顕彰のためには、何よりも名前を知ってもらうことが大切だ。

県内の民権運動研究者グループとも相談し、二人の墓地整備を含めて、今後の取り組みを検討しているところである。この間の経過については、第2回大逆事件サミット(10月12日、福岡県みやこ町)でも報告することにしている。

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    小松丑治            岡林寅松

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海民病院→湊川病院

興味深く拝読させて頂きました。今の湊川病院は大正4年の創立で、今年百周年を迎えました。県内最古の精神科病院です。書かれております通り、湊川病院の前身である明治時代の海民病院や仁全病院の資料が殆どなく、参考になりました。ありがとうございます。私は2年前まで湊川病院に勤務していましたが、今は系列病院で勤務しています。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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