奪天工

中村の歴史は川との戦いの歴史です。
天の工(自然の技)を奪う(凌駕する)。

大正15年(1926年)、四万十川橋(赤鉄橋)が完成をしたとき、中村の人々はその巨大さに驚愕をし、「奪天工」の碑をたもとに建てました。(題字島崎正勝中村町長) 

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中村はもともと中ノ村。川の真ん中の村。大正4年、渡船の転覆事故で幡多実科高等女学校の生徒ら11人が犠牲になったことから、架橋運動が盛り上がり、2年3か月の工期を経て「島」が橋でつながりました。 

延長438m、幅員5.5m。南海の果に、なぜ当時四国最大という分不相応な橋ができたのか。関東大震災で崩落をした帝都(東京)の名だたる橋がまだ復旧されていない時期です。軍港・宿毛湾へつながる道として軍事的役割があったという見方もありますが、総工費48万円が国庫補助なしの全額地元調達(寄付など)であったことからすれば、地元の並々ならぬ熱意が原動力であったとみるべきでしょう。以降、鉄橋は中村のシンボルになりました。

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川との次なる戦いは治水事業でした。
中村は出水のたびに水に沈むのが年中行事。当時、堤防ごときといえば一條家時代以前から築かれていたという岩崎堤防と藩政時代の右山堤防だけでした。町の家はすべて2階建。毎年の洪水対策に膨大な県費を要したことから、土陽新聞は社説で「住民を移住させろ」とまで書いています。

県、町は国営事業として治水事業を行なうべしとの猛烈な陳情を行なった結果、四万十川は四国で吉野川に次いで2番目の国直轄河川に指定をされ、昭和4年(1929年)夏、中村に内務省渡川改修事務所(現在の中村河川国道事務所)が開設されました。場所は県幡多支庁内でしたが、同年秋、中村高等女学校が新築され、その旧校舎に移転しました。

四万十川は当時、計画洪水量日本一。日本で一番やっかいな暴れ川でした。事務所長以下は幡多支庁長(地方事務官)よりはるかに格上の中央の高等官であり、赴任は「地の果てに行く」思いであったと語っています。(『渡川改修四十年史』1970年刊行)

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調査測量に続き、昭和6年、鉄橋上の具同側から築堤工事を開始。その時、名勝の松林が伐採されました。戦争を挟んで、昭和24年ごろまでには、後川の付け替えを経て、中村の町の周りの堤防は、具同、佐岡側を含め、ほぼ完成をみています。

最大の難関は、「蛙が小便しても田がつかる」水はけの悪い中筋川の合流点を具同から八束の実崎へ付け替える事業でした。坂本の前に背割堤を約4キロ築き、甲ヶ峰を削り取って、山路川につなぐ。着手は昭和12年、完了は実に昭和39年でした。以後もダム事業(中筋川、横瀬川)から現在の不破築堤事業に至るまで、四万十川の治水事業は延々と続けられています。

しかし、昭和4年以降でも、昭和10年、38年(古津賀堤防決壊)、平成17年の大洪水、昭和21年の南海地震(鉄橋崩落)もありました。

3・11から1年。
次の南海地震では、川を遡る津波にも備えなければなりません。  

「奪天工」いまだならず。自然の力、恐るべし、です。


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  「広報四万十」2012年3月
 「市長談話室」
 写真は今回貼り付け




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津山市のナカガミです。
四国高知は思いでの町です。
伴先生には大変お世話になりました。
毎回四万十の歴史を有りがとうございます。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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