大逆事件サミット

 第2回大逆事件サミットが、10月12日、福岡県旧豊津町(現みやこ町)で開かれ、参加してきた。

同サミットは、大逆事件犠牲者たちの名誉回復と顕彰活動に取り組んでいる全国の団体・個人が一堂に会し、それぞれの活動報告と経験交流、今後の取り組みを議論する場であり、第1回は3年前、私が市長時代、幸徳秋水刑死百周年記念事業の一環として、中村で開いた。第2回を、幸徳秋水の盟友堺利彦の生誕地豊津で開くことになったもの。

前回は主催者として迎える立場だったが、今回は、幸徳秋水を顕彰する会を代表して参加した。中村からは尾崎清さんと2名、ほかに松山、姫路からも会員が参加。台風19号の接近が気になりながらも、前日、車で八幡浜からフェリーで別府に渡り、暗くなってから、豊津に隣接する行橋市のホテル着。

 当日、午前中は、曇天の中、地元のみなさんがフールドワーク(史跡巡り)に案内してくれた。バス等に分乗して約50人。私は以前、福岡市に3年間勤務をしてことがあるが、ここら京築地域(京都郡、築上郡)には来たことがなかった。どこも初めてのところばかり。

葉山嘉樹は小林多喜二と並ぶプロレタリア文学作家。鶴田知也も同分野で第3回芥川賞を受けた作家だが、戦後は農民運動指導者の面が強い。堺利彦を含め、豊津が生んだこの3人の顕彰会(堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の偉業を顕彰する会)が今回のホスト役で、それぞれの記念碑を案内してくれた。

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3人は、明治~昭和前期、時の権力によって弾圧された側だ。今回、驚いたのは、3人の対極にある権力側の、特に司法分野の重鎮も、この地から出ていること。

末松謙澄・・・第4次伊藤博文内閣内務大臣、社会民主党の結社禁止を命じた。
安広伴一郎・・・第2次桂太郎内閣法制局長官、山縣有朋の懐刀、大逆事件の裏のキーパーソン
松室到・・・大逆事件時の検事総長、第3次桂内閣司法大臣

彼らの学んだ私塾跡(水哉園、行橋市)、墓(豊津)なども案内された。大逆事件を仕組んだ側と、その罠にはめられた側の「呉越同舟」。不可思議な土地だ。

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その背景には屈折したこの地の歴史がある。幕末、小笠原藩(小倉城)は幕府側につき、長州との戦いに大敗北。小倉から豊津に逃れ、豊津藩をおいた。長州への怨念が自由民権運動につながる面と、権力(藩閥政府)におもねる面と、両極あったのではないだろうか。堺利彦をはじめ、小笠原家臣の出が多い。

サミットは、午後から、豊津福祉センターホールで開かれた。約100人の参加。コーディネーター(進行役)は「大逆事件の犠牲者たちの人権回復を求める連絡会議」代表の山泉進明治大学副学長。以下の12団体代表がパネリストとして活動報告(私も)した。(報告順)

大逆事件の真実を明らかにする会(東京)
幸徳秋水を顕彰する会(中村)
「大逆事件」の犠牲者を顕彰する会(和歌山・新宮)
「大逆事件」犠牲者の名誉回復を実現する会(和歌山・本宮町)
森近運平を語る会(岡山・井原)
大逆事件犠牲者顕彰碑建立発起人会(熊本)
信州明科事件を語り継ぐ会(長野・あずみの市)
真宗大谷派解放運動推進本部(京都)
京都丹波岩崎革也研究会(京都)
平出修研究会(東京)
管野須賀子を顕彰し名誉回復を求める会(大阪)
堺利彦・葉山嘉樹・鶴田知也の三人の偉業を顕彰する会(福岡・豊津)

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前回サミットでの報告は8団体だったので、この間の運動が広がりがわかる。大阪の会(管野須賀子)などは、2年前、結成されたばかり。会場発言もあり、今後も取り組みの輪を広げていくことを確認し、以下の「豊津宣言」を採択した。


  大逆事件サミット豊津宣言

 「大逆事件」から100年を契機にして、事件の真実をもとめる活動、犠牲者に対する顕彰運動は全国各地において、ますます広がりをみせている。それだけ、この事件が近代日本の歴史に深い傷跡を残してきたことの証でもある。
 日本の平和運動の原点は、堺利彦と幸徳秋水によって創立された平民社の「非戦論」にあった。彼らは人類社会のめざすものとして「自由」「平等」「博愛」を掲げ、政治的自由と参加、社会格差の解消、戦争の禁絶と軍備の全廃を主張した。そして、アジア、世界各国との連帯を模索した。「大逆事件」後の日本は、彼らの主張を抹殺することによって侵略と戦争の道へと進んだ。戦後69年、現在の日本は再びナショナリズムと戦争、言論弾圧、社会的格差を拡大する道をたどりつつある。
 この時にあたり、ここ堺利彦の故郷・豊津に集い、歴史的転機となった「大逆事件」の意味を問い直すことは、大いに意義あることと考える。
 堺利彦は、「赤旗事件」での出獄後、妻の為子とともに、獄中の被告や家族たちとの連絡と救済にあたり、獄中書簡を「大逆帖」として残し、また1911年3月末から、岩崎革也の援助のもとに、39日間にわたる被告遺家族を慰問する旅へと出かけた。さらには、エマ・ゴールドマンたち、外国同志からの支援の窓口となり、国際連帯の輪を広げた。
 豊津での第2回大逆事件サミットの成功を通して、「大逆事件」の犠牲者たちの名誉回復と顕彰運動がますます深化し、人権弾圧のない平和な世界を築いて行くための礎となったことを確認する。   
    
 2014年10月12日
 12団体連名


 サミットには、地元の井上幸春・みやこ町長も参加され、歓迎の挨拶をされた。井上町長は、前回サミットでも中村においでくださった。3年ぶりの再会であった。幸徳秋水と堺利彦が盟友だったように、2人の縁を、四万十市、みやこ町、自治体同士の交流深化につなげたいと思う。夜の交流会で固い握手をした。次回サミットの開催時期と場所は未定であるが、交流会での雰囲気では、大阪で、2年後ぐらいに開催になりそうである。

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以下、番外編。
翌日は、台風の接近で大荒れの天気になり、帰りのフェリーが欠航。さて、どうするか。同伴の尾崎さんの希望もあり、「関門めぐり」をした。風雨をついて、門司に向かい、レトロ街を散策。次いで、海峡のトンネルを下関にくぐり、高杉晋作の足跡を追い、長府の功山寺へ。晋作が最初に決起し、長州藩を倒幕に動かせた「回天義挙」の地。長府藩は萩藩の支藩。はじめて来たが、萩ほどは俗化していない、静かな城下町であった。多くの軍人を生み、乃木希典もここの出で、乃木神社もあった。そにあと、下関市中心街にある「高杉晋作終焉の地」へ。

長州、下関といえば、近代日本の起点。しかし、のちの長州閥の首相の顔ぶれ(いまも)を見れば、いい印象がない。山縣有朋(首相にはならかったが、元老としてそれ以上の実権をもった)などは、「大逆事件」をつくりあげた中心人物だ。高杉晋作の盟友。晋作は29歳で死んだため、美名だけが残っているが、もし長生きしていれば、どんなだったろうか。龍馬にもいえることだが・・・

長州藩が小倉に攻め入り、大敗した小笠原藩の家臣から堺利彦が生まれた。また、門司は、戦前、大陸への窓口(侵略の拠点)だった。その嚆矢は、秋水・堺らが非戦論で反対した日露戦争・・・

その日は、下関泊。台風のおかげで、期せずして、豊津~門司~下関、と日本近代の縮図を歩かせてもらう旅となった。下関からは、もときたルートを戻り、中村に帰ってきた。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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