小松丑治と岡林寅松

 10月12日、第2回大逆事件サミットが福岡県・みやこ町(旧豊津町)で開かれ、参加してきた。

第1回は3年前、私が市長をしていた時、「幸徳秋水刑死百周年記念事業」として四万十市(旧中村市)で開いた。2回目は秋水の盟友、堺利彦の生誕地である

大逆事件(1910年)の犠牲者は死刑12人、無期懲役12人を含む26人に及ぶ。サミットでは、事件犠牲者の名誉回復と顕彰運動に取り組んでいる全国12の団体が各活動を報告し、人権弾圧のない世界を目指すことを確認した

私は市長を退任したが、サミットの初志を忘れないため、和歌山・新宮、岡山・井原、大阪へでかけ、当地の団体と交流を深めた。そうした中、ハッと気づいた。肝心の地元高知の秋水以外の犠牲者を忘れているではないかと。それは秋水以外に4人。奥宮健之が死刑、坂本清馬、小松丑治、岡林寅松が無期懲役であった。

秋水は事件の頭目にされ、「幸徳事件」とも呼ばれたぐらい。日本を代表する思想家、ジャーナリストとして名を残している。また、健之は植木枝盛らとも行動を共にした自由民権運動家として、清馬は事件最後の生き残りとして再審裁判を行ったことなどから、名前を聞いた人もいるだろう。健之墓は東京に、清馬墓は秋水と同じ中村にある。

 しかし、高知市内に墓がある残る2人、小松丑治、岡林寅松の名前はほとんどが埋もれた状況のようだ。そこで、2人のことを調べてみた。

ともに1876年、高知市生まれで、高知師範付属小学校の同級生だった。 丑治が先に高知を出て、神戸の海民病院の仕事(事務)につき、医師になるため独学中の寅松を呼び寄せた。神戸港湾は労働者の町。2人は秋水らが創刊した
平民新聞を読み始め、読書会を始める。神戸平民倶楽部と称した。

ただ、それだけの活動なのに全国の社会主義運動家を一網打尽にする大逆事件の罠(わな)にはめられ、ともに長崎・諫早監獄に送られた。20年後の1931年、仮出獄した。

その後の記録は少ないが、たどってみると、丑治は神戸で1人待つ妻のもとに戻っていた。しかし、世間からの迫害、差別、貧困の中で太平洋戦争敗戦2カ月後、栄養失調で没した。

寅松は事件直後に妻と離縁。出獄後は大阪で独り暮らしたが、戦災で焼き出され、高知に帰郷。春野の妹夫婦宅に身を寄せていたが48年、病死した。

 私はこの7月、2人の墓をようやく探し、手を合わせた。丑治は高知市の筆山、寅松は同じく小高坂山。参る人も少ないような状態であった。9月には、2人の足跡を神戸市兵庫区に訪ねてきた。
 
遺族関係者によると、丑治は失明寸前だった40年、目が見えるうちに先祖の墓を参りたいと、在所村(現香美市香北町)へ帰省した。部屋の奥にじっと座り、「聖人」のようだったという。

寅松も帰郷後はいつも静かに本を読んでいたそうだ。自分の運命を口にすることは微塵もなかったという。

晩年の2人には、俗世間から超越した人間の気高さを覚える。丑治は「天愚」、寅松は「野花」「真冬」の雅号を持っていた。

 県出身の大逆事件犠牲者の活動舞台はいずれも県外。それゆえ総じて県民にはなじみが薄く、また罪人のぬれぎぬを着せられたための無理解も残っている。 しかし、丑治と寅松も、秋水同様に多感な少年時代、自由民権運動の息吹を
吸って育った、まぎれもない土佐の民権運動の申し子であった。

 自由は土佐の山間より。自由、平等、博愛を掲げ、斃(たお)れた先人がここにもいることを、記憶にとどめてほしい。


 高知新聞「所感雑感」投稿
 2014.11.17

ブログ 2人の墓 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-92.html
ブログ 丑治の足跡 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-110.html

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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