坂本清馬

 1月15日、坂本清馬没40周年だった。幸徳秋水と一緒に眠っている正福寺の墓を、有志(秋水を顕彰する会)で墓参した。坂本清馬は大逆事件(1910年)の犠牲者の1人。死刑判決を受けたが、翌日無期懲役に減刑。

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父は中村出身だが、室戸で生まれた。旧制高知二中を中途退学し、上京。小石川砲兵工廠で働く中で、幸徳秋水の思想に共鳴。自ら秋水に近づき、秋水の書生となったり、啖呵を切ったり。秋水に「坂本君は豪傑だからね」と言わしめたように、土佐のいごっそう、直情径行の行動派だった。

大逆事件のころは秋水と喧嘩別れして東北にいたので、明治政府がでっちあげた事件とのかかわりは何もなかったが、秋水一派として逮捕された。

清馬は獄中でも一貫して無実を訴え続けた。だから、獄中でも問題囚とされ、仮出獄が許されたのは、無期懲役12人(死刑も12人)の中では最も遅い、24年後(昭和9年、1934)だった。

戦後は秋水のふるさと(自分の父のふるさとでもある)中村に住む。昭和36年(1961)、大逆事件再審請求の訴えを東京高裁におこす。裁判支援の全国組織として、「大逆事件の真実を明らかにする会」が東京に結成される。再審は認められなかったが、これをきっかけにして、それまで闇に葬られようとしていた事件の真相が広く知られ、犠牲者の名誉回復、顕彰運動が広がっていく。大逆事件サミット等、今につながる運動の起点は清馬による再審請求である。

清馬は大逆事件最後の生き残りであったが、昭和50年(1975)死去。89歳。
清馬なかりせば、大逆事件は忘れ去られていたかもしれない。清馬の果たした役割はきわめて大きい。にもかかわらず、清馬の顕彰活動はこれまでキチンとは行なわれてこなかった。ひとり秋水だけが取り上げられてきた。秋水の墓前祭は戦後まもないころから行なわれ、秋水顕彰会もできているのに。

清馬は秋水の陰に隠れたからなのか。それもあるが、その傲慢で独りよがりと誤解を招く性格や行動が、中村市民一般には受け容れられにくかったことがあるようだ。

清馬が亡くなったのは私が大学生時代。当時、清馬の名前は知っていたので、帰省中に会おうとおもえば会えたかもしれない。しかし、当時の私はそこまでの関心はなかった。いま思うと、一度会っておけばよかったと悔やまれる。
秋水顕彰会メンバーでも、清馬の果たした役割の大きさは理解していても、その強烈な個性から距離を置いていた者が多い。

24年間の獄中生活が清馬の性格をそうさせたのであろう。しかし、そんな清馬だからこそ、24年間を耐え、さらに再審請求を起こすことができた。執念を燃やし続けられたのだと思う。

没40年。すでに歴史の人である。
考えてみれば、秋水のように処刑されたほうが楽だったかもしれない。無期懲役で生きながらえ、法的には罪人の汚名を着せられたままの生き地獄。清馬こそ顕彰されるべきである。

幸徳秋水を顕彰する会では、秋水刑死日の1月24日、毎年行なっている秋水墓前祭を、今年はじめて清馬との合同墓前祭とする。清馬の墓は秋水一族と並んで右隅の裁判所壁際(秋水から右5つ目)にある。

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<ご案内>
幸徳秋水刑死104周年・坂本清馬没後40回忌 合同墓前祭
1月24日(土)12時半~
正福寺墓地(中村小姓町、裁判所裏)

引き続き14時から記念講演会。
作家 山岡千枝子
「秋水と地元ゆかりの人々」
市立文化センター1階会議室

主催 幸徳秋水を顕彰する会
  (連絡先 088039-2017 渡辺)
後援 四万十市教育委員会

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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