宮尾登美子の満州(2)

 宮尾登美子が満州に渡ったのは昭和20年3月。日本敗戦のわずか5か月前である。

宮尾は大正15年(昭和元年)、高知市生まれ。娼妓紹介業という父の仕事がいやで、早く家を出たかったことから、高坂高等女学校卒業後、17歳で代用教員として吾川郡池川町安居国民学校(小学校)に赴任。愛媛県境に近い、山の中の僻地であった。そこで先輩教員に見初められ、わずか4カ月後の昭和18年、18歳で結婚。これも実家から逃れたいためであった。ここまでが、小説「櫂」、「春燈」に書かれている。

当時、高知県からは多くの満州開拓団が編成され、大陸に渡っていた。夫は、この開拓団の中につくる国民学校に赴任することになり、家族3人(長女が生まれていた)で渡満した。

その開拓団は大土佐開拓団といって、高知県で最も規模の大きい開拓団であった。『高知県満州開拓史』(1970年)によれば、大土佐開拓団は、県下10か町村で編成し、昭和19年3月~20年5月にかけて、1441人となった(家族含む)。10か町村は、安芸郡6町村(安芸町、羽根村、川北村、井ノ口村、吉良川村、野根村)、吾川郡2村(神谷村、清水村)、幡多郡2村(津大村、大正村)であった。

入植先は、吉林省九台県飲馬河(インバホウ)。「満州国」の首都・新京(現・長春)の近郊で、鉄道で1時間ほどの鉄道沿線であった。見渡す限り山のない大平原は、現地人が開墾した田畑であったが、これを日本が買収し、開拓団に与えたもの。実際は、安い価格で強制的に取り上げたものであった。

大土佐開拓団は、広い耕地を、出身地ごとに4区画に分け(安芸郡2、吾川郡1、幡多郡1)、分散して居住した。住居は、これも現地人を追い出したあとのもの使った。

子供たちのための小学校も飲馬河駅近くにつくった。宮尾家(当時は前田家)は、学校近くの教員用住宅に入った。子供たちの家は遠く、低学年の子は通学ができないことから、寄宿舎もつくった。

開拓団員は家族総出で農業に従事する。団員は高知県の山間部で、狭い土地しかもっていなかった者が大半。満州に行けば広い土地がもらえるとの宣伝で来たことから、みんな家族総出、必死で汗を流した。

しかし、教員は開拓団員ではない。教員には給料がでる。宮尾は教員の妻として、家にいて、乳飲み子を育てるのが仕事であった。寄宿舎の賄いは別に人を雇っていたので、宮尾の仕事ではなかった。子どもがまわりにいることから、親代わりというよりも、子どもたちと一緒に遊んだ。

宮尾は生まれも育ちも高知市の下町のお嬢様であった。農業には縁がなかったし、土にさわったこともなかった。それでも開拓団の中にいれば、土に汚れることもあると思うのだが、あくまで「教員の奥様」として、そんなことはせず、箪笥にいっぱい詰め込んできた服を、毎日着替えて、楽しんだりする、気ままな若妻であった。

そんな様子が小説「朱夏」に書かれている。しかし、そんな生活も突然の敗戦で一変。混乱の中での引き揚げとなる。飢えと寒さの中での難民生活・・・(続く)

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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