満州 大清溝

  「広報四万十」2012年6月号より

 そこは旧満州の最奥地であった。
五月一日から五日まで、西土佐日中友好訪問で旧満州大清溝へ行ってきました。目的は大清溝江川開拓団で犠牲になられた方々の慰霊です。

 太平洋戦争下、国は満州開拓団を重点的に送り出す特別指導郡を全国に十二、四国では幡多郡を指定し、北幡に指導が集中。昭和十七年、江川崎村は先頭を切って村を分ける「分村移民」を断行。大陸に渡った総勢百十八戸、四百二十九人のうち、敗戦後の困難な引き揚げの中で七割以上の方々が亡くなりました。 
 
西土佐村では日中国交回復後、昭和五十九年から慰霊訪中団を派遣しており、今回が六度目。四万十市長として同行するのは初めてです。 

 一日目。一行十二人は関西空港から遼寧省の首都瀋陽市へ。二時間半。日本人には旧名奉天のほうがなじみ深い。中国で人口五番目の重化学工業都市だが、メーデー三連休で静か。バスで隣の炭鉱の町撫順に移動。飢餓と病気により引揚者収容所で二百三十七名という最大の犠牲者を出したところ。旧工業学校であった収容所跡地を訪ね慰霊のローソクと線香を焚く。露天掘りの大山炭鉱をのぞきながら引き返し、瀋陽泊。

 二日目。吉林省長春市へ。列車で二時間。窓の外に黒い大地が続く。山がない。長春(旧新京)は旧満州国時代の首都。旧政府や関東軍本部、満鉄などの建物がそのまま残っている。ここから開拓団のあった樺甸市大清溝までは車で行くしかない。途中の市の中心部まで約三百キロ、四時間バスを走らせる。見渡す限り平原と丘陵。一面トウモロコシ畑。種まき作業中だ。遠くに野火が立つ。樺甸泊。 

 三日目。大清溝をめざす。バスでさらに九十キロ、一時間半。松花江を渡ったあたりから山が迫ってくる。北朝鮮につ
ながる長白山系、日本の高原のような色だ。大清溝とは開拓団がつけた地名であり、いまの地図にはない。現地名は松花江の支流木箕江に沿った暖木条子、腰甸子、下帽児、荒溝の四集落だ。

 開拓団は現地人ですら入植しようとしなかった未開の奥地を開墾。役場(団本部)、学校、診療所、神社もできた。北海
道の旭川と同じ緯度であり、農作業ができたのは五月から十月まで。半年は雪と氷に閉ざされ、零下三十度を超えた。

 いまでは国道は舗装され、車も行きう。しかし、一歩集落内に入れば、人間は牛馬と同居している。道は泥んこ、牛馬
の糞がいたるところに落ち異臭を放っている。家の垣根も板を立てただけ。テレビなど電化製品がある家は一部のようだ。馬車にサトウキビと人間を一緒に乗せて走る風景。自分が子供のころにタイムスリップしたようだ。

 これまでの訪問でなじみの人も多く、家から写真を持ち出してきて話がはずむ。ここらは日本人が最初に開拓をした
ことをみんな知っており友好的だ。当時の学校寄宿舎がそのまま残っており、診療所に使われていた。

 いまの日本と変わらないような都市部と昭和三十年代(戦前かも)のような農村風景。違うのは農村に若者や子供が
多いこと。農村重視こそ中国の底力だろう。四集落それぞれ畑の片隅で慰霊。夜もホテルの一室で慰霊。樺甸泊。

 四日目。同じ樺甸市内の廟嶺を初めて訪問。引き揚げ途中合流した京都開拓団の拠点であった場所だ。開拓は侵略。現地人の襲撃にあい、最初の犠牲者十六人を出した。過去の訪中では反日感情に配慮して避けていた。地名が変わっていためあちこちバスを走らせて、赤い夕陽が沈むころやっと発見。川に花束とビールを流し、念願を果たす。暗闇の道を四
時間引き返し、長春泊。

 五日目。長春空港から大連経由で関西空港へ。夜八時、江川崎に帰る。
 あっという間の五日間であったが、ズシリと心に重い旅であった。

 戦争と農民。開拓団は鍬の戦士であった。津大村も吉林省飲馬河に開拓団を送っている。この歴史は四万十市が引き継がなければならない。 両村開拓団の記録は今回も団長役で引率してくださった武田邦徳さん(西ケ方)が編集された『さいはてのいばら道』(昭和六十一年、西土佐村刊行)に詳しい。

 
 「広報四万十」~「市長談話室」
 2012年6月







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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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