泰作さんと羽生山

 きょうはじめて、泰作さんの墓を訪ねた。
泰作さんの墓は、中村の市街地を見下ろす羽生山にあることは知っていた。一度は訪ねてみたいと思っていたが、ずっとそのままになっていた。きょうは彼岸の中日。ご縁のある方のお墓参りにお供した。そのお墓は羽生山にあるので、帰りに少し横道に入った泰作さんの墓も訪ねた。

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「泰作さん」と言っても、中村の人以外はほとんど知らないであろう。知っている人でも、中村の土産物になっている、藤屋本舗(泰作さんの縁筋)のお菓子の名前としてのほうが有名かも知れない。

泰作さんこと中平泰作は、江戸の幕末に生きた中村の商人だった。商人と言っても大店(おおだな)ではなく、周辺の山間地の家々(郷の人)にいろんなモノを売り歩く、行商人(あきんど)だったようだ。

泰作さんは「テンクロー」だった。ここらの言葉で「ほら吹き」のこと。口が達者で商売上手。実直な農民などに、うまいことを言ってモノを売りつけるだけでなく、ちゃっかりもらいものをするのが得意だったとか。それでいて、憎めない、ひょうきん者だった。

だから、いろんなトンチ話が残っている。上林暁に「泰作咄」という小説がある。また、地元教員OBグループが発掘収集した「幡多の昔話」や「幡多昔むかし」にも載っている。最近では、中脇初枝がインターネットでも紹介している。
→ http://www.webfukuinkan.com/magazine/790

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私は若いころ大分県で仕事をしたことがある。そこにも、吉四六さんと言って、おもしろい話が伝わっていた。吉四六さんも江戸時代に実在した農民であり、人気者だった。吉四六さんが主人公の県民オペラもつくられていた。

泰作さん夫婦の墓は小さく、ポツンと座っていた。案内看板もあった。妻文政2年(1819)、泰作さん安政4年(1857)没、と刻まれていた。泰作さんは長いこと男やもめだったようだ。笑いの中に、悲しさがある。

 私が羽生山に登ったのも今日が初めて。
羽生山といえば、この間、3回開いた「中村の百年写真展」の中で私が最も気に入ったのが、昭和初年頃と思われる、羽生山から中村の町を一望した写真であった。一條神社のこんもりした杜を中心に、白と黒の瓦の家並が続いている。その先には、旧制中村中学(現・中村高校)の新築間もない校舎が見える。「おまち中村」を象徴する、ほれぼれする写真である。

 昭和4年の中村~1

当時は羽生山から、こんな写真が撮れたのだ。しかし、いまは竹や雑木、ヒノキが高く伸び茂り、うっそうとした暗い林になっているため、とても中村の町を眺望することができないのは残念であった。

上林暁が「四万十川の青き流れを忘れめや」の詩的断片を書いたのも、昭和初年、この山に登った時であった。いまでは四万十川も望めない。
山は荒れ、お墓も荒れたものが多かった。

同じように中村のまちも荒れ・・・
とは思いたくない。
そうさせてはならない。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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