四万十市合併10年を考える(2)

 小泉内閣による行財政改革。いわゆる三位一体の地方分権を唱え、強力な合併を誘導。1995年から約10年間で、全国の市町村の数は、3,200から1700に減った(40%減)。

中村市は、この「平成の大合併」の渦に巻き込まれたというよりも、これに積極的に乗っかったといえる。理由は、カネがほしかったためである。

人口減少による税収減等により、地方財政はどこも厳しい状況におかれていたが、中村市は特にそうだった。中村市には老朽化した市庁舎の建て替え問題が待ったなしの懸案としてのしかかっていた。しかし、カネがない。

政府が合併誘導のための飴(アメ)としてぶらさげた財政優遇策は「渡りに舟」であった。合併特例債は70%返済免除という破格の条件だった。また、以後、地方交付税が段階的に削減されるのに対し(鞭=ムチ)、合併すれば10年間、その削減が猶予(合併算定替)された。

 幡多地域の中核である中村市は、周辺に積極的に合併を呼びかけ、2003年、大方町、佐賀町、西土佐村との間で、合併準備のための協議会を立ち上げた。

しかし、大方町と佐賀町は住民投票で合併反対が多く、すぐに離脱。主な理由は、財政難の中村市と一緒になると赤字のツケを回されるというもの。1年で協議会は解散となり、合併構想はご破算となった。

しかし、どうしてもカネがほしい中村市の澤田市長(当時)は、その直後から、西土佐村に、4つがダメなら2つで合併しようと働きかけた。西土佐村では2度の住民投票を行ない、2度とも合併支持が多かったこともあり(2度目は僅差)、これに応じた。

当時(合併直前)の人口は、中村市3万4371人、西土佐村3745人。ざっと10対1であったので、澤田市長は、新しい市の名前は中村市を残したいと打診したが、西土佐村は、それでは村が吸収された形になると言って、これを拒否。中村市は、名前にこだわれば、縁組がまたも破談になることから、西土佐村の意向を受け入れた。

 ここで問題なのは中村市民の声である。最初の合併構想(4市町村)のさい、3町村では合併の賛否を問う住民投票を行なった。しかし、中村市では行なわれなかった。

中村市議会では、住民投票にかけるべきだとして住民投票条例案が提出されたが、市長与党はこれを否決。その背景には、市長は合併に熱心であったが、一般市民の関心はいま一つで盛り上がっていなかったことがある。規模の小さい町村とは住民にも温度差があった。

新しい市の名前は、市の内外から公募されることになったが、こんな状況であるから、票が集まったのは県外からのほうが多く、知名度の高い「四万十」になった。自分たちの市の名前を決めるのに、なぜ部外者の声を聞く必要があるのか、おかしな話である。人気投票ではないのだから。中村市となったら困るからであろう。

これについては、いよいよ合併が近づいた段になってから、市民から中村の名前がなくなるのはおかしいという声が出てきた。もうあとの祭りであるが、これを無視もできないことから、中心市街地(旧中村町)の町名(字名)の頭に「中村」をかぶせることで折り合いをつけた。中村天神橋、中村大橋通、中村小姓町、中村桜町など・・・。これによって、「中村市四万十町」は「四万十市中村四万十町」という訳のわからない名前になった。これには市民にも責任がある。合併論議に無関心であったツケである。

こうして、2005年4月10日、四万十市が誕生した。新市長には澤田五十六・中村市長、副市長には中平正宏・西土佐村長が就いた。ちなみに、その後、大方町と佐賀町も合併し、黒潮町になった。

  (続く)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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