西村ルイのこと 秋水最初の妻(2)

 ルイの孫ら三人は中村で触発されたのか、戻ったあとも熱心に動いた。木原さんは中村の思い出、印象を高知新聞に二度投稿している。三人はその六月にはルイのルーツ探しに、福島県郡山市を訪ねた。ルイ出身地とされる三春辺の開拓地とは国営安積開墾地(現郡山市)。ここに入植した主力は九州の旧久留米藩士であった。
 
 安積開墾とは何か。以下は、鈴木しづ子「士族授産の政治的側面についてー国営安積開墾における久留米および高知士族入植の事情―」(福島大学行政社会学会論集、一九九五年)による。

 安積開墾は、明治十一年、大久保利通の提唱により、士族授産国営モデル事業として開始。旧久留米藩士百五六戸が入植。その大半は、明治四年の久留米藩難事件に関わった旧士族たちであった。

同事件とは、不平士族の反乱。藩内の尊王攘夷派が明治新政府の開国和親に反発し、藩主をかついで反政府クーデターを起こそうとした。彼らは鎮圧され、熊本監獄などに入れられたが、西南戦争で熊本が戦場になったことから、新政府に協力することを条件に釈放された。そのリーダーだった森尾茂助、太田茂らが安積開墾事業へ送り出されたのである。

三人が郡山市役所でルイの除籍謄本をとってみると、ルイは明治十五年六月九日、父西村正綱(祖父怒平)、母チツ(千鶴)の二女として生。住所は、明治二十七年二月十七日、福岡市天神より転住後、福島県安積郡喜久田村の太田伝方に同居となっていた。太田伝は母チツの実弟であり、太田茂は二人の兄であった。

開墾地跡には記念館があり、各藩の旗や入植者名簿が展示されていた。森尾茂助、太田茂の写真もあった。名簿に西村正綱の名がなかったのは、だいぶあとから(十六年後)開墾に合流したためであろう。

 そんなルイがどんな経緯で秋水と縁組をしたのか。秋水の従姉妹岡崎てるは「従兄秋水の思出」に「中江(兆民)時代の友人森田さんが好いというのを、君が宜ければそれでいいと簡単に結婚して了つた」と書いている。森田さんは画家だったとも。神崎清「実録幸徳秋水」には「中江門下の友人森田基」とある。森田基とはどんな人物か。この森田基と旧久留米藩グループと何らかの接点があったものと思われる。

一つの可能性として考えられるのは自由民権運動の接点。というのも安積開墾には土佐の民権家グループも入植していた。
立志社といえば土佐における自由民権運動の中核的存在であるが、その周りにはたくさんの地域結社があった。高知城下新町には、水野寅次郎をリーダーとする「共行社」があった。

明治十年、西郷隆盛らの蜂起(西南戦争)に呼応することを恐れた政府は立志社を弾圧(立志社の獄)。林有造、大江卓、水野寅次郎らを逮捕した。しかし、その後水野は無罪放免となり、これにあわせて共行社は立志社から分離。政府に協力する形で安積開墾事業に参加するのである。明治十四年、百六戸入植。

福島は高知と並んで自由民権運動が盛んだったところ。安積に隣接する三春には河野広中らがいた。河野は高知に来て板垣退助らに会っている。ならば、安積へ入った共行社は、政府に懐柔されたグループだったとはいえ、河野らと接触があったとは考えられないか。そうした人脈・ネットワークが東京の中江兆民門下生の森田基につながっていたのでは。あくまで推測だが・・・

 (続く)

 「文芸なかむら」30号
 2015年7月刊 一部加筆

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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