西村ルイのこと 秋水最初の妻(3ー終)

 その後のルイはどうなったのか。実家で秋水からの離縁状を受け取ったルイは途方に暮れたことであろう。

世から消えてしまっていたルイの存在が再び浮かびあがったのは昭和五十七年のこと。朝日新聞が「幸徳秋水に忘れ形身」とスクープした。続けて高知新聞も。

記事によると、ルイは秋水の子を宿していた。ルイは東京にいた妹センを頼って再び上京。そこで大工職人の横田与八(明治十一年生)と出会う。横田はルイに同情し、自分の実家埼玉県栗橋に連れて行き、ルイは土蔵の中で女の子(ハヤ子)を産み落とした。二人は結婚し、ルイは横田の子四人(二男二女)も生んだ。中村に来た女性三人のうち二人は、横田の長男正一の娘である。

スクープは当時世間を驚かせた。しかし、その後ルイやハヤ子のことを詳しく追跡した記事は現れなかった。研究者にとっては大逆事件の本質とは離れた「事象」であり、また横田家に配慮した面もあったようである。

先の女性三人は、郡山に続いて、秋水が最後に逮捕された湯河原も訪ねている。この三人と横田みつゑさん(孫二人の兄嫁、朝日新聞スクープのきっかけになった情報を秋水研究者に提供。私は電話で聞いた。)の話を総合すれば、ルイの「その後」はこうだった。

ルイは大工棟梁の妻となり、浅草に落ち着いた。与八は腕のいい大工で、火事のあとの浅草仲見世再興や上野不忍池弁天橋建造にもかかわった。生活に余裕も生まれ、娘たちには三味線を習わせ、女学校にもやった。横田の親戚一族は舟で荒川、隅田川を下って浅草まで遊びにやって来てワイワイ賑やかだった。

しかし、与八は四十三歳で死ぬ。直後に関東大震災で家が倒壊。その後、長男正一が押上で始めたレコード喫茶が繁盛。ルイは芝居を見たり、避暑に出かけたりした。  

だが、またも戦争で一変。正一は出征。東京大空襲で焼け出され、正一妻の実家があった福島県平(現いわき市)に疎開。正一復員後七年たってもどってきた江東区大島では、新しく建てた自宅にアパートを併設。その頃、ルイは近所の子供たちにお菓子を配ってあげたりする、やさしいおばあさんであった。

正一は昭和三十三年、四十七歳で逝く。ルイも昭和四十八年、滝野川の病院で生涯を閉じた。九十二歳。墓は青山高徳寺にある。

小谷姓になっていた「秋水の娘」ハヤ子も朝日報道の翌年、八十一歳で没。ハヤ子は六人の子を生んだ。四男二女のうち二女がいまも健在である。

岡崎てるによれば、秋水の母多治はルイが素直で可愛いかったので、気に入っていた。始終、「あの子がいたら達者な人だったから子供も生まれたであろうし、子供さえあったら伝次(秋水)もあんな騒動はすまいに」と残念がっていたという。秋水は二度目の妻師岡千代子とも管野須賀子が絡んで離縁。その須賀子からも、最後、獄中で絶縁状を突き付けられている。

 今回わかったのは、西村ルイは明治十五年、旧久留米藩領だった福岡県黒木町(現八女市)に生まれ、同二十二年、福岡市へ転居。さらに、同二十七年、ルイ十二歳の時、福島県安積へ移住したこと。

西村家は江戸時代から続く黒木では名門の豪農であり、久留米藩から士分(武士の身分)を与えられていた。享保年間には、私財を投じて隣の矢部村山地を開墾した記録が「黒木町年表」(昭和六十三年刊)にある。屋敷には井戸が五つあり、ルイ兄弟にはそれぞれ乳母がついていたほどであった。しかし、西南戦争で西郷方に肩入れしたこともあって、次第に財を失い、福岡市(久留米藩領外)経由で福島県へ移ったものと思われる。正綱は移住後、視学官(教育行政官)をつとめたという。ルイは移住後三、四年で秋水と結婚(十五、六歳か)。ルイは孫たちには黒木の思い出は話したが、福島のことはあまり話さなかった。

ルイの兄(長男)西村軍次郎も、その後横田つながりで与八の妹ゑよと結婚。西村家の墓は今でも黒木の宗真寺にあり、正綱、軍次郎もそこに入っている。現当主(軍次郎孫)は久留米市の隣、佐賀県鳥栖市にいる。

ルイは「名門」の出であり、開墾地の「田舎娘」ではなかった。そんなルイがどんな糸で秋水とつながったのであろうか。引き続き調べてみたい。

なお、黒木の西村家跡地にはいま大藤が育ち、観光名所になっている。同所には酒蔵(後藤酒造)もあり、酒の銘柄は「藤娘」というそうである。

(終)

 「文芸なかむら」30号
 2015年7月刊 一部加筆

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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