追悼 中村政則先生

 一橋大学時代の恩師中村政則先生が8月4日、亡くなった。満79歳、肺がんであった。8月11日、12日の通夜、告別式に参列させてもらった。

 中村先生との出会いは1972年、大学入学早々、前期教養課程の「日本史」の講義であった。やっと受験勉強から解放されたばかりであり、いまさら日本史でもないだろうと思ったが、単位消化のためと割り切って選択した。

私はそんな安易な気持ちで受けた最初の授業で、大きな衝撃を受けた。講義は、戦前日本、1920~30年代、経済・歴史学会を二分して展開された日本資本主義論争から始まった。

明治の産業革命を経て、当時の日本は経済発展のどういう段階にあるのか。日本は西洋諸国に遅れて近代化を進めてきたため、農村における地主制のように封建時代の遺物をなお色濃く残しているとする講座派に対して、そういう要素は残しつつも資本主義は成熟した段階に達しているとする労農派に分かれた。中村先生は両論の相違点、問題点、課題等をきわめて論理的に説明してくれた。

私はそれまで、歴史とは「暗記する学問」だと思っていた。歴史的事実や年号を正確に暗記すること。退屈でつまらない。しかし、受験にはそれが求められる。私は高校時代、日本史は好きではなかった。歴史的事実は一つであり、それを巡って論争があることは考えられなかった。

私は先生の話に、グイグイ引き込まれていった。毎週の講義が楽しみであった。10月、学生自治会による学費値上げ反対(授業料月1→3千円)の1か月ストライキがあり、私もまわりも授業がなくなるので喜んだが、ただ一つ、中村先生の講義も休みになったのだけは残念であった。

先生の専門は近代日本経済史。当時は、地主制の研究に力を入れられており、講義はそうした分野にも及んだ

私は経済学部に入ったのだから、当然ながら、漠然と「経済学」を専攻したいと思っていた。しかし、中村先生の講義を聞いてから、3年生からの後期専門課程のゼミは中村先生の「日本経済史」に入れてもらうことを決めた。「経済史」は、経済学と歴史学を総合したものであり、狭義の経済学よりも幅広くかつ奥深い。

中村ゼミ3年生は、毎年農村調査に出かけた。私ら7人は山形県西村山郡三泉村(現寒河江市)の昭和初期の役場資料を調べた。昭和恐慌後の農村がどのような状態におかれていたのか。4年生の時も、私は3年生の長野県下伊那郡南方村調査(現中川村)に加えてもらった。ちなみに、この中川村の現村長の曽我逸郎さんは、私と同じ「脱原発をめざす首長会議」のメンバーであり、昨年の総会でお会いした時、そんな話をしたら驚いていた。

南方村は満州開拓団を送出していた。そんな資料を見たことがきっかけとなり、私はふるさと高知県幡多郡の満州分村について調べ、いまでも地元の満州引き揚げ者の方々とのつながりをもっている。私の卒論は、中村先生の影響を受け「日本地主制解体過程の研究」。その中に、満州分村のことも書いた。

 中村先生は一橋学生時代ホッケー部に入っておられた。研究者となってからも体を動かすのが好きで、よくソフトボールをやろうと言って、汗を流してからゼミを始めた。

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中村先生はたくさんの著作、研究書を残しているが、それまでの歴史叙述のあり方を変えたとされる名著「労働者と農民」(1976、小学館「日本の歴史」シリーズ)の原稿を書かれていたのは、私が4年生のころ。夏休み明け、だいぶはかどったよと、笑っておられた。卒業ゼミ旅行は伊豆下田。旅館で勉強会をしてから、遊びに出かけた。

私が卒業後の就職先に農林中央金庫を選んだのも、そんな農業つながりから。私自身農家の生まれということもあり、農協組織の中央本部機能をもつ同金庫には親近感があった。

中村先生が一橋大学を退官されたのは1999年。育てたゼミ生281人に及ぶ。退官を機に、ゼミ卒業生の会「せいそく会」がつくられ、私は初代幹事(事務局長)をつとめさせてもらい、先生ご夫妻を招いて定期的に如水会館で親睦会を開いたりした。

先生は神奈川大学に移られたあとも、精力的に研究を続けられ、「昭和史」(岩波新書)や、「坂の上の雲と司馬史観」(岩波)、「昭和の記憶を掘り起こす」(小学館)などを出版された。ハーバード大学、オックスフォード大学にも行かれ講義もされた。海外からも日本を代表する歴史家として位置づけられていた。

そんな多忙な中ではあられたが、私が地元に帰り市長になって2年目(2010年9月)、四万十市民大学の講師をお願いしたところ、快くお引き受けくださった。講演のテーマは、こちらからお願いして「坂の上の雲と幸徳秋水―司馬史観を問うー」としてもらった。四万十市が取り組んでいた「幸徳秋水刑死100周年記念事業」の一環であった。

先生の名前と同じ「中村市」は合併で四万十市となったけれど、この中村に、文子夫人とご一緒にお迎えし、講演後、四万十川(屋形船、沈下橋)、足摺岬や幸徳秋水墓などをご案内できたことは、私にとって大切な思い出になっている。四万十川の天然ウナギをおしそうに食べられていた先生のお顔を思い出す。

 秋水の墓 (2)     四万十川下り     足摺岬

先生はその1年後から体調を崩され、最近は病床に伏されていたが、ついにお別れの時が来てしまった。

私にとって中村先生は学問の師である以上に、人生の師である。「生き方」を教えてもらったからだ。歴史学とは自分の生き方を考える学問であると思う。

過去の歴史や事象を調べ研究するのは、今という時代を知るため。歴史の発展や流れのなかで、今はどういう時代、社会なのか。そして、われわれはその社会とのかかわりの中で、何をしなくてはいけないのか。

中村先生は1935年(昭和10年)、東京新宿生まれ。国民学校9歳の時、群馬県草津に学童疎開し、東京に戻ってきたら焼野原で伊勢丹ビルだけがポツンと建っていた。その光景が自分の歴史研究の原点であると、よく言われていた。

歴史学は実践的な学問である。いつの時代も権力者は自分に都合がいいように歴史を書いてきた。国民一人一人の政治意識の裏面には、それぞれの歴史認識がある。教科書の記述で問題になるのは、いつも歴史教科書である。安倍首相が過去の「侵略」や「おわび」に抵抗するのは、そのためである。自分の歴史観を国の歴史観にしたいためである。

告別式での奥様のご挨拶によれば、中村先生は最期まで憲法9条を守らなければならないと言っておられた。その活動もされていた。解釈の変更という新手のやり方で憲法が機能不全にされそうないま、先生は先立たれた。

戦後70年。きょう8月15日は、その出発の日。
私はいまを、そしてこれからも中村先生から学んだ歴史学を座標軸にして生きていきたい。

先生、ありがとうございました。

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土地台帳

何時も勉強になる投稿有難うございます。
早速ですが学生時代よく勉強されたのですね!私にとって講座派、労農派は単なるコップの中のことだと思っております。結局論争の結果どうなったの!というのが心境です!社会科学と自然科学、検証の差が明白に違います。時節の詳述は略します。
長野県の村で土地台帳等を調査されたのではないですか?
高槻市での長い用地買収の経験から言うと土地台帳は近代、若しくは現代史の宝の山ですね!高槻市でも地域により大地主と自作農と小作の形成過程が違うのがかいま見れました。用地取得が仕事のため統計的に分析は出来ませんでしたがかなり面白い傾向がありました。市井の身、学術的ではありませんが、色々ゆっくりお話してみたいと思っております。税理士会の若い連中には結構興味を持てれております。又雑談的に言うと電子部品メーカーの材料担当から、用地の取得の仕事に就いたとき日本は資本主義国家ではない!地本主義国家だと仲間内で発言し賛意を示す人が多々ありました!
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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