馬塚と牛塚

 最近知った、地元の戦の歴史を紹介したい。

 四万十市では、10月、今年も不破八幡宮大祭で「神様の結婚式」がにぎにぎしく取り行われた。この伝統行事は、15世紀、応仁の乱を避けて、前の関白一條教房公が京都から中村に下向後、この地域で行われた略奪婚などの蛮習を戒めるために、始めたものと言われている。

八幡宮(はちまんさん)の男神様に、一宮神社(いっくさん)の女神様が輿入れする。一宮さんは四万十川河口近くの間崎地区にある。女神輿は飾りをつけた舟(神舟)に乗り、太鼓をたたきながら、川を遡る。お供の舟(供船)を従えて。

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しかし、舟が竹島沖を通過する時は、しばしの間、太鼓をたたくのをやめる。
理由は、かつての戦で敗れた高島城主の霊を鎮めるためである。

竹島は、昔は「高島」と呼ばれていた。時は、天文2年(1533)。一條家は戦国大名になり、幡多地方の支配を着々と広げていたが、地元の国人(豪族)に中には、一條家の命に従わないものもいた。その1人が、高島城主岩越五兵衛だった。

一條家は、四万十川をはさんで対岸の、従属した国人、間崎の間崎孫左衛門、坂本の大越の2人に高島城攻めを命じた。

しかし、高島城は川に直立する岩場の山上にあり、難攻不落。間崎、大越は何度も攻勢をかけたが、容易に城は落ちなかった。

尋常な作戦では城を落とせないとみた間崎は、牛を使った奇策を考えた。牛の角と尾(しっぽ)に松明(たいまつ)をつけ、攻め込ませたのである。城に火が付き、兵も混乱。岩越はあえなく討ち取られた。

この時、城の中にいた馬も焼け死んだ。
その馬たちを弔った塚(墓)が今でも残っているというので、私はこのほど、はじめて訪ねた。

高島城のあとは、いま神社(岩越四所神社)になっている。ここまでは以前に来たことがあった。しかし、その裏に、馬塚があるとは知らなかった。塚は、丸い石があるだけだが、最近、地元の有志が真新しい石碑を立てていた。神社の下の段の旧竹島小学校跡には、昨年、地震津波対策のため地域防災センターが建てられている。

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一方、間崎には、攻め込んだ牛の功を称えた塚もある。大文字山のふもとの畑の中に、こんもりとした藪がある。ここも初めて行った。

すぐ近くには、小さな祠の剣神社もある。牛には勇ましい女性が口に剣をくわえて乗り、攻め込んだと伝えられている。まるでジャンヌダルクだ。その女性を神様として祭っている。

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この戦が終わった翌年、女神輿を乗せた舟が太鼓をたたいて八幡さんに向かっていたら、高島の前で大波が起こり、舟は沈み、供の者は全員死んだ。これは、岩越のたたりである、ということになり、翌年から、高島の前では、太鼓をたたかなくなったという。

高島(竹島)では、この戦以降、牛を飼わなくなった。農耕用には馬だけを使用。周辺は、みんな牛を飼っていたのに、である。

私は、子供のころから、八幡さんの秋祭りには、何度も行っているが、このような「云われ」や歴史を知ったのは、最近のこと。

この戦については、江戸時代に編纂された「土佐国群書類従」の中の「敷地民部藤康戦記」に書かれている。

歴史はいまも生きている。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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