続 西村ルイのこと 秋水最初の妻(1)

 前号の原稿(本ブログ 2015.7.23,24,25)を書いたあと、私の手元に西村ルイにかかる二つの資料(記録)が届けられた。これらをもとに新たにわかったことなどを書いてみたい。

資料の一つは、福岡県黒木町(現八女市)の郷土史家が発見してくれた『篤行傳』。この本は、大正六年、八女郡役所が発行したもので、地元の発展に尽くすなど、徳の篤かった人物を紹介したものである。その中の一ページに「西村良平」が載っている。

「西村良平は、上妻郡(今八女郡)黒木町の豪家なり。父を仁兵衛と云う。家世々豊富にして田産饒し、而して深く貧人を憫み、慈恵を施し、其名遠近に聞ふ。上妻山中人多くして田少く、人常に食を得るに苦しむ、而して矢部村最も甚だし。仁兵衛深く之を慨し、及貧人奨励し、資を輿へて田を墾せしむ。是に於て、人皆争て開墾に従事し、矢部村中に多くの良田を得たり。久留米藩主、其功を嘉し、享保中、徴して士籍に列し、年々米百五十俵賜ふ。良平父の後を継ぎ、家道益豊なり、其貧人を救助するに、敢て徒に輿へす、必す之をして産に就き、業を得しむるを期す、故に人の職業なく、他に傭作すべきものは、日を期せすして、己の家に就かしめ、自ら之を率ひて、田圃を耕助し、山野を開墾し、少も暇逸せしめす、而して日に正當の傭銭を給し、且帰途には、必己の山林より各一荷の薪を伐り採り、其家に持ち帰らしむ、是を以て人皆其恵に復し、来りて傭を請う者、日々三十人を下らずと云う・・・」

さらにこんな話も。ある日、良平が自分の林を見回っていた時、身なりの貧しい一農婦が山に入って筍を掘っていた。良平を見て驚き、筍を捨てて逃げ帰った。良平はこっそりとあとを付けて行ったところ、農婦はあばら家に入っていった。良平は家に帰り家人に命じて芋一荷を届けさせた。

前号でも紹介したように、『黒木町年表』(昭和六十三年刊)に、享保年間、西村仁兵衛が矢部村山地を開墾したことは書かれていたが、それ以上のことはわかっていなかった。この『篤行傳』により、士分を与えられた時期や禄高がわかる。また、西村家は地元全体が潤うようにいろんな手立てを講じていたことや、それゆえに地元民から慕われていたことも。

別に調べた西村正綱の戸籍とこの『篤行傳』をあわせると、西村家の家系は享保年間の仁兵衛から、良平―恕平―正綱―軍次郎・・・とつながる。ルイは正綱の二女、軍次郎の妹である。

隆盛を誇った西村家にも幕末維新の大波は及ぶ。ルイが晩年、孫たちに残した話によれば、明治十年の西南戦争で西郷方に肩入れ(大砲を買う資金を提供)したことなどから次第に財を失う。この地域は西郷方につく者が多かった。

それでも明治十五年生まれのルイが幼いころには兄姉妹ごとに乳母がいたというから、相応の財力は維持していたものと思われる。

そんな西村正綱が明治二十二年、福岡市に出て、さらに同二十七年、旧久留米藩士グループが入植していた福島県郡山の安積開墾地に合流したのにはどんな事情があったのだろうか。

正綱は安積では視学官(教育行政官)をつとめ、酒好きで開拓民にもふるまっていたというから、落ちぶれて福島に渡ったというイメージはない。請われて赴いたのだろうか。(続く)

 「文芸なかむら」31号
 2015年12月刊

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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