続 西村ルイのこと 秋水最初の妻(2)

次に、私のもとに届いたもう一つの資料は、大阪の大逆事件研究者からのもので、「大阪民衆史研究」37号(1995年4月 )に載っている民衆史研究者西尾治郎平氏の「幸徳秋水の遺児」という記録であった。

西尾氏といえば、「秋水に忘れ形身」という昭和57年の朝日新聞スクープを仕掛けた人である。秋水から離縁されたルイが横田与八と再婚して生まれた長男の息子の嫁(孫嫁)にあたる横田みつゑさんが西尾氏に情報を提供したのだ。

みつゑさんが西尾氏のことを知ったのは同年1月の新聞記事「秋水の墓、大阪から中村へ」を見てから。

幸徳家は、もとは幸徳井(かでい)という京都の陰陽師であったと伝えられているが、漢方医であった初代から5代までの墓は大阪市西区の竹林寺にあった(秋水は16代目)。その墓碑1基を西尾氏らの尽力で中村の正福寺へ移したのが、その年の秋水墓前祭にあわせた1月であった。

秋水は先祖の墓が大阪にあることは知っており、妻千代子を連れて一度訪ねたことが千代子「風々雨々」に書かれている。

私は昨年6月、この竹林寺を訪ねた。住職に幸徳家墓碑があった場所を案内してもらった。すぐ近くに森重久弥先祖の墓もあった。それらの古い墓のほとんどが黒く煤け、表面が剥げ落ちたものが多かった。原因は昭和20年4月の大阪大空襲によるもの。

寺に隣接して松島遊郭街があった。遊女たちは塀で閉じ込めたれていたため逃げられず、300人が焼け死んだという。哀れな供養塔が寺の中で泣いていた。

中村の正福寺に移された墓碑は、秋水墓と同じ並びの一番手前に据えられた。やはり黒く焦げ、上半分が剥げ落ちているのですぐわかる。寛保2年(1742)に建てられたものというが、「幸徳梅隣建之」と刻字だけはいまでも読み取ることができる。

こんな経緯で驚くべき情報を受けた西尾氏は「秋水の子」とされる小谷ハヤ子に埼玉県で会い、いろんな話を聞き、これは真実であると確信。幸徳家に連絡をとり、当時高知市にいた幸徳正三氏(駒太郎孫)とハヤ子を対面させたのが昭和57年7月であり、これが朝日新聞記事となった。

正三氏の「秋水とそっくりです。こんなに似ておられるとは」という実感のこもった言葉がのっている。

西尾氏はすでに故人となっているが、その時、ハヤ子から聞いた話を書き残したのがこの記録である。

私は朝日新聞記事でその概要は知っていたが、詳細な部分はわからなかった。西尾氏はこんな記録を残していたのだ。そのいくつかを紹介したい。 (続く)

「文芸なかむら」31号
2015年12月 刊

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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