長谷川賀彦 元中村市長

 12日、長谷川賀彦さんが亡くなった。享年90歳。
2代目中村市長を昭和37年から3期12年、続いて県会議員(社会党)も3期つとめられた。

昭和2年、旧蕨岡村生まれ。地元青年団長。郵便局に入ってからは組合運動に熱心で、全逓(全国逓信労働組合)中央本部執行委員(専従)として東京にも派遣された。

昭和36年、大逆事件最後の生き残り、中村の坂本清馬が事件の再審請求裁判を東京でおこした時、長谷川さんも東京にいたこともあり、その支援組織「大逆事件の真実をあきらかにする会」の結成にもかかわった。

中村市長になったのは34歳の若さであり、きりっとした顔立ちと堂々とした体躯に、党派を超えた人気があった。発足間もないころの中村市(昭和29年合併)の安定と発展のために尽力。国鉄中村線の開通(昭和45年)と安並運動公園の整備が、その代表。中村は名実ともに、高知県西部、幡多の中心となった。

中村まで汽車が着いたのは、私が高校3年の時だった。それまでは土佐佐賀まで。初めて中村から汽車に乗った時の感動は忘れられない。幡多が「陸の孤島」ではなくなった。一條神社境内にその記念碑が建っている。

私の父も郵便局につとめていたので、同年代の長谷川さんとは親交があった。しかし、私が長谷川さんと直接お話をしたのは、私が四万十市長(中村市から通算8代目)になってから。

長谷川さんは、すでにすべての公職を離れられ、ご体調も十分ではないため、ご自宅で静養をされていた。何度かお伺いする機会があり、いろんな思い出話をうかがった。

その一つが、昭和44年落成の文化センター建設の経緯。
長谷川さんは中村市にも公民館以外に総合文化施設がほしいと思っていた。その候補地として旧県立中村女学校跡地があがっていた。しかし、土地は県有地であることなど、いろんな経緯があり、県が「幡多文化センター」として建設することになった。

いろんな経緯の一つが、県側の思惑。長谷川さんは高知県西部を代表する「革新市長」であったので、当時の中内知事には目障りな存在であった。多くの実績をあげていた長谷川市長にさらに「手柄」を与えたくないとの背景があったという。

長谷川さんが市長引退後、文化センターは中村市に移管(譲渡)され、「中村市立文化センター」となった。

この文化センターは、いま老朽化し、建て替えが必要な状態になっている。私はこんな経緯からも、県に関与(協力)を求めることが必要であると思っている。

県立施設として建設したのなら、本来その後の運営管理も県が行うべきであった。実際、ハコモノというものは、建設費用よりもその後の管理費用の負担が大きいものである。この間の中村市(四万十市)の負担は、すでに当初の建設基金の額をはるかに超えている。いまさらながら、なぜ県から譲渡を受けたのだろうと思う。

宿毛市には県立病院、土佐清水市には県立水族館、黒潮町には県立総合スポーツセンター(サッカー場、体育館など)などがあるにもかかわらず、いまの四万十市には幡多の中心にもかかわらず、そのような県の施設は何もない。

私は平成25年度から文化センター建設基金積み立てを開始していた。しかし、私が市長を辞した翌年からはこの積み立てがストップしている。

現市長には、以上の経緯をふまえ、文化センター建て替え事業に積極的に取り組むことを期待したい。

長谷川さんは、いまの日本の行く末を心配されていた。
3年前、元市長として「脱原発をめざす首長会議」への入会をお願いしたところ、こころよく承諾をしてくださった。

地方自治の先輩、長谷川賀彦さんのご冥福を祈ります。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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