上林暁と幸徳秋水(2)

 上林暁は幸徳秋水に対してどのような想いを抱いていたのだろうか。作品の中から考えてみたい。

 小説「四万十川幻想」(昭和四十六年)は、中風で寝たきりになった上林が再び四万十川を見ることはできないという郷愁の想いを込めた作品であるが、この中でこんなことを書いている。

「四、五年前、私の文学碑が中村に建った。郷土の大先輩である幸徳秋水ですらまだ碑がないのに、自分の碑を建てるなんて僭越だ、と心の中で思ったが、病気である私を力づけようとする郷里の有志や同窓生たちの好意を思うと、無下に断るわけにはゆかぬ。結局好意に甘えることにした。」

 文学碑は、昭和四十三年、中村の為松公園に建てられた。除幕式には本人に代わって母が出席した。碑文は「四万十川の 青き流れを 忘れめや」

 「郷土の大先輩」・・・この言葉に上林の想いは凝縮されている。秋水の思想や生き様に対して畏敬の念をもつと同時に、幡多の同郷人としての親しみを持っていた。いや、同郷人であるからこそ、関心を持ち、尊敬の気持ちをもち続けていた、というほうが正しいのだろう。

 上林が気にしていた幸徳秋水顕彰碑(絶筆碑)は、昭和五十八年、同じ為松公園の一角に建立された。

 時代を遡って、小説「柳の葉よりも小さな町」(昭和二十七年)も中村への郷愁を込めた作品である。

 「近世に至って、この町から異色ある人物が現れて、日本の社会を震撼させたことがある。彼は、明治の時代における大逆事件と称せられる事件の首魁と目された革命家である。」と、秋水にふれ、自分が初めて禁断同様になっていた裁判所裏にあるその小さな墓を訪ねたのは終戦後のある年の秋だった、とも。

 知人から聞いたという、こんなエピソードも紹介し、秋水に共感的である。

 「この革命家が、クロポトキンの『パンの略取』という本を日本で初めて訳したのも、この町においてであった。彼は、当時中学三年生であった彼の甥を相手に、それを口述筆記させた。甥は筆記に飽きて来ると『をんちゃん(伯父さん)腹が減った。』と空腹を愬(うつた)へた。すると、彼は『うん、もう少しぢや。済んだら、饂飩(うどん)をおごっちゃるぞ。』と甥を励ましながら、口述を続けたさうである。」

 また、そのものズバリ、「幸徳秋水の甥」(昭和五十年)という随筆もある。この随筆はそれまでに書いた随筆や短文六十三編を収録した随筆集第二作に収められている。その書名も「幸徳秋水の甥」としているのは、秋水への想い入れがあることの証明でもある。しかし、この随筆は予期せぬ波紋を呼んだ。

 秋水の甥とは、画家幸徳幸衛のこと。兄亀治の長男である。秋水は明治三十八年、当時十五歳であった幸衛を連れてアメリカに渡った。本人は八カ月後に帰国したが、幸衛は絵の勉強をしたいと残る。秋水処刑後はアメリカにいても常に日本政府からマークされた。それからは「死影」の号を使う。フランスにも渡り、日本に戻って来たのは二十四年後であった。

 帰国後は、中村の実家や、高知市の絵愛好者(パトロン)の病院に寄宿などをして絵を描き続けていたが、昭和八年、四十三歳の時、大阪で客死する。

 上林は、そんな幸衛の数奇な生涯に興味をもち、帰省した時などに、その足跡をたどっていた。そうした材料に基づいて書いたのがこの随筆であるが、その内容に幸徳家関係者がクレームをつけたのである。文章の中に、「幸衛は色盲であった」、「母親は貞操が悪く家を追い出されたという」等の表現があったため、これは本人だけでなく親族に対する侮辱である、と。

母親の甥にあたる同じ画家であった木村林吉氏は、幸衛母子を知る者として、幸衛の生涯を紹介した高知新聞連載「眼のない自画像」(平成十二年)の中で強い不満をぶつけている。おそらく上林は、このような噂話や風評を誰かから聞き、そのまま書いたのであろうが、その裏付けをとることをしなかったのであろう。この連載は、翌年、同名の単行本にもなっている。
 
上林の作品は、どこまでが小説でどこまでが随筆(エッセイ)なのか境界がはっきりしないのが特徴である。「幸徳秋水の甥」が小説だとすれば、多少の創作は許されたかもしれない。しかし、本人が随筆に分類した以上、関係者に対する配慮は必要であったであろう。このあたり、創作意欲の貪欲さの裏返しで、上林の鈍感なところである。

 上林はこの随筆の中で、この作品はライフワークになるような小説にしたかった、しかし、自分は病床にあることや、「私の才能はこの材料には不向きである」ことから、これを断念し、随筆に代えたと書いている。「不向き」とは、ほかの人も言ってくれたとも。ほかの人とは出版社の編集者あたりで、上林の作風に向かないと言われたのであろうと、私は推測する。

 たしかに、この材料を柱にした小説なら、深刻で暗くなりそうで、上林の作風には向かないと思う。しかし、そんな作風になっていったのは途中からであり、初期のころの作品をみるとそうでもない。


 大方文学学級「大形」288号(2015年9月)掲載
 5回連載

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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