上林暁と幸徳秋水(4)

 私にとって上林暁の熊本五高および東京帝大時代は謎である。

 満十八歳から二十四歳までといえば、人間の思想形成において最も重要な時期である。社会とのかかわりの中で自分はどう生くべきか、どんな役割を果たせるか等々、悩み、苦しみ、悶えるものである。しかし、上林にはその痕跡が見られない。

 上林は旧制中村中学(県立三中)時代、文学に目覚め、将来は芥川龍之介のようになりたいと作家を夢見るようになる、とされている。

 全集の年譜によれば、熊本五高の交友会雑誌に最初の小説「岐阜提灯」を書き、三等入選している。これがどんな小説だったのか知りたいところだが、全集には載っていない。熊本で下宿していた上林町の名を後年ペンネームにしたくらいだから、熊本は作家上林暁の原点のようなところであったことは間違いない。

 上林は随筆で「僕は、熊本のことと言えば、人のことでも地理のことでも何でも関心を持ち、そして熊本びいきである」「熊本は僕にとって、文字通り第二の故郷になつてゐる」と書いている。

 しかし、私が疑問に思うのは、この時期、社会(さらに言えば政治)とのかかわりの中で彼がどれだけ目覚め、社会構造の中に己をどう位置付けようとしていたかである。

 五高時代の同級生美作太郎は、上林を「何かのスポーツに熱中するのでもなく、そうかといって当時もたげていた社会科学研究のグループに加わるようなこともなかった」「地味で目立たない」「愉快で朴訥な」仲間だったと書いている。(全集第一巻「月報」)

彼の一級上には社会科学研究会で熱心に活動していた林房雄(一時、プロレタリア文学をリード)がいたのに在学中は縁がなかった。

 上林が熊本ですごした三年間は大正十年から十三年まで、大逆事件(明治四十三年)から十一~十四年後である。

 大逆事件では全国の社会主義者たちが一網打尽にされ、二十六人が処刑(死刑十二人、無期懲役十二人、有期刑二人)されたが、その中には熊本の四人(松尾卯一太、新美卯一郎、佐々木道元、飛松与次郎)もいた。彼らは、「熊本評論」を発行していて、事件に連座させられた。事件は熊本の町を震撼させたであろうし、当時もその傷跡のようなものは残っていたであろうに。

 熊本の初代県令(知事)は中村出身の安岡良亮であった。安岡は神風連の旧士族に襲撃され殺された。その墓が熊本城のそばにあり、上林は五高時代に見たことがあると書いている。天皇を暗殺しようとした「極悪人」の頭目とされた人物が自分と同郷から出ていたことは耳にしていたであろうが、安岡がその幸徳秋水の母多治のいとこであったことは、当時知る由もなかったであろう。

 上林は同じ下宿の女学生と下宿の娘と三人で文集をつくったことを小説「梧桐の家」に書いている。また、「天草土産」という作品もある。しかし、それらの映像は春霞のように朦朧としている。

 ロマンチックというか、少女趣味というか、それが上林にとっての熊本だったのであろう。

 そんな熊本時代の映像はおぼろげでも描くことができるからまだよいが、東大時代(英文科無試験入学)のそれはブラックボックスである。年譜にはさしたる記載はない。熊本では書いていた小説など創作の記録もない。大正十四年にいたっては全くの空白である。

 上林は本郷の大学近くに下宿していた。その下宿代はその後新婚時代に住んだ借家代よりも高かったというから「いい身分の学生さん」だったのであろう。

 上林自身、のちも東大時代のことはほとんど書いていない。私の知る限りでは下宿生活を書いた「菊坂の家」ぐらいであったが、最近「大学構内」という昭和十八年の小説を見つけた。この中に、こんなくだりがある。

 「卒業証書を貰った時は嬉しかったでせう」
 「ちつとも嬉しいとは思わなかったなア・・・」
 「なぜか知らん」
 「一つには、僕が文学志望だつたからだよ。例へば僕が医者になるのだと、学校で習ったことが直ぐに手立てになるんだが、小説 を書くには、学校を出たつて手放しも同然だからね。・・・僕などは一生懸命勉強するでもなく、さりとて大学に見切りをつけるでも  なく、無気力無感激のうちに大学をでちやつたんだ。・・・」

 中学生のころからの文学への夢を抱き続けたことは、上林の想いの深さや意志の強さの表れであろうけれども、文学を超えた領域での大学時代の思想遍歴や行動変化といったものは、その後彼の書き残したものでもうかがうことができない。

 昭和二年、上林は大学卒業後、長野県の中学教師への口が決まっていたが、あとから合格した改造社(総合雑誌社)のほうに入社した。これが彼の思想に広がりをもたせる転機になったと私は見る。

 入社後すぐに五高時代の友人たちで同人誌「風車」を創刊。ここから上林暁のペンネームを使うようになる。

 当時はプロレタリア文学の全盛時代であり、東大の同人誌もほとんどがその系統であった。しかし、「風車」はそうではなかった。上林はそのころプロレタリア文学とは距離があった。全集第一巻を見ると、小説「渋柿を齧る少年」ほか十二篇を「風車」に載せている。

 しかし、「風車」は昭和六年休刊になる。理由はわからないが、各人の意識にズレがでてきたことは想像できる。

 昭和七年、上林は「星を撒いた街」「風はユーカリ樹に」「薔薇盗人」を他の雑誌に投稿。前号でも書いた通り、これらの小説はプロレタリア文学の影響を色濃く受けている。

 改造社での経験がそうさせたのだと思う。

 上林は「遅れて来た青年」であった。


 大方文学学級「大形」290号(2016年1月)掲載。一部加筆。
 5回連載










 

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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