上林暁と幸徳秋水(5-終)

 「改造」は大正九年、山本実彦が「中央公論」に対抗して創刊した総合雑誌である。大正デモクラシーの潮流に乗り、小説など文芸作品のほか、社会主義関係の評論、論説などの「進歩的」記事も広く載せていた。山本は「弾圧」「絶賛」などの言葉をはじめて使った人である。

 上林が改造社の入社試験を受けたのは、そんな「進歩的」側面に魅かれたというより、あくまで文学志望であったものと思われる。しかし、最初「現代日本文学全集」校正の担当をしたあとは、「改造」編集記者となる。「當時最も急進的であったこの雑誌の記者になった時、僕は一種の興奮を感じたものであった」と、のちに書いている。

 作家だけでなく学者、社会運動家など各界著名人との交流が始まる。もっぱら下っ端として、原稿とりが中心であったが。作家では正宗白鳥、宇野浩二、川端康成など。入社早々、徳富蘆花の葬儀手伝いにも行かされた。蘆花はかつて「謀反論」で幸徳秋水を擁護した。

 昭和四年、文芸評論の懸賞募集において、宮本顕治「敗北の文学」と小林秀雄「様々なる意匠」の二編が選考に残り、編集部メンバーで決選投票をしたさいは、「當時指導理論とかイデオロギーとかいふことがやかましかったので」、宮本顕治に投じた。

 葉山嘉樹、林房雄、中野重治らプロレタリア文学を代表する面々とも原稿を通じて接触した。

こうした環境の中で「遅れて来た青年」も影響を受けないわけにはいかなかった。昭和七年発表の「星を撒いた街」「風はユーカリ樹に」「薔薇盗人」は、その表れである。

 中野重治は金沢四高出身の同年で、東大でも同時期に在学していた。しかし、最初に会ったのは改造社入社後で、筑摩書房を介して親しい関係になったのは戦後から。

昭和四十一年、上林暁全集が同書房から刊行されたその第一巻月報のトップを飾ったのが中野重治「無尽蔵を見せてもらう約束」であった。

 中野重治出身地の福井県丸岡町(現坂井市)の図書館に中野文庫があるというので電話で問い合わせてみると、重治所蔵本展示の中央に上林暁全集が座っており、ほかに「過ぎゆきの歌」など十四冊、うち「迷い子札」「御目の雫」には上林のサインがあるということだった。

 一方、あかつき館の上林所蔵本の中にも中野重治全集(筑摩書房)のほか中野単行本が十一冊あり、そのほとんどに著者謹呈しおりが挟まれており、うち「むらぎも」「小林多喜二と宮本百合子」には中野のサインがあった。中野全集十三巻月報には上林が「中野重治の印象」を寄せている。

上林長女の伊禰子さんによれば、芸術院会員だった上林が中野を同会員に推薦したこともあった。また、中野の家の庭のくちなしの木を分けてやるというので、伊禰子さんがその苗をもらいに行き、天沼の家に植えたことも。

二人は「文学仲間」を超えた関係だったようだ。

 上林全集十七巻月報、門脇照男「あれから三十年」によれば、昭和二十二年、上林居住東京杉並区の区長選挙に評論家でアナキストの新井格が出馬したさい、上林が街頭でマイクを握り応援演説をしていたのを見たという。

 また、上林の長男育夫の中村高校同級生だった松本秀正氏(小説「子の世代」のモデル)が昭和二十九年、法政大学に入学し上林の隣家に下宿した。当時の法政はマルクス主義経済学の大内兵衛総長であった。松本氏によれば、上林は法政大学の状況、とりわけ大内総長がどんな話をしていたか聞きたがっていた。また、同大学教授で文学者の本多顕彰が戦中戦後の知識人の都合のいい行動変化を指摘した「指導者―この人びとを見よ」がベストセラーになったさいも強い関心を示していた。(松本秀正氏、あかつき館での講演「上林暁の人と文学」、平成二十七年二月)

 こうした戦後の上林の様子からすれば、安保条約改定の年の昭和三十五年二月、地元高知県の坂本昭参議院議員(社会党)からの誘いに応えて、坂本清馬を支援する「大逆事件再審請求実行委員会」に足を運んだのもうなずける。

 上林に昭和二十二年「幸徳秋水の墓」という随筆がある。上林が秋水を知ったのはいつの頃かわからないが、その「禁断の墓」が中村にあることを知ったのは昭和十年頃であり、裁判所裏の芋畑の中にあったその墓を初めて訪ねたのは昭和二十二年であると書いている。また、昭和三十三年の随筆「土佐の中村」ではこうも書いている。

 「中村の自慢の種は、一條公さん(神社にも祀られてゐる)と四萬十川と、それから幸徳秋水ということになろう。秋水では、戦争前まで肩身の狭い思いをした市民も、戦後では逆に看板にしてしまった。中村で天下に名高いものと言えば、幸徳秋水よりほかにないからである。中村を訪れる文化人で、秋水の墓に興味を持たないものはない。」

 上林にとって秋水も清馬も同郷人であった。しかし、それだけで大逆事件犠牲者の名誉回復運動に協力したのではない。彼らの思想、正義に共鳴をしたからである。

 あかつき館の上林所蔵本の棚に、幸徳秋水処刑一週間後出版(明治四十四年二月一日)のボロボロに黒ずんだ秋水「基督抹殺論」を見つけたときにはドキリとした。

 私はこれまで上林暁は純粋に文学だけに生きた人だと思っていた。しかし、彼はエミールゾラ(フランス)や広津和郎のような行動をとっていた。

 私はそこに「知識人」上林の良心と見識を発見することができ、溜飲を下げた思いである。

 (終)

 大方文学学級「大形」291号(2016年3月)掲載
 5回連載

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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