軍港宿毛湾

 5月28日、西南四国歴史文化研究会(通称よど)の年次総会が宿毛市文教センターで開かれた。総会後記念講演会があり、興味深い内容であったので紹介したい。

講演は、宿毛市立歴史館矢木伸欣館長による「太平洋戦争下の宿毛湾の防衛について~橋田庫欣先生の研究成果から~」というものだった。

宿毛湾は奥深く入り込んで、かつ水深も深いことから、天然の良港とされており、いま鯛の養殖等の漁業が盛んであるが、それだけに一方で、戦前、日本海軍による軍港としても利用されてきた。

郷土史家の故橋田庫欣先生の研究成果とは、真珠湾攻撃にも参加した特殊潜航艇の最後の秘密訓練の場所が宿毛湾の隣の御荘湾であったというものだが、続いて宿毛湾周辺を日本海軍がいかに重視していたという話に広がった。

宿毛湾は、広島の呉軍港から豊後水道を経て太平洋に出る途中の(太平洋から帰るさいも)格好の位地にある。そのため、戦艦大和などの艦隊がたびたび宿毛湾に寄港停泊している。橋田先生が防衛庁資料室で調べたところ、大正9年~昭和17年の間だけでも32回に及ぶ。うち14回は連合艦隊である。

それぞれの長官は、加藤寛治、米内光正、永野修身(土佐出身)ら有名な顔ぶれの中に、山本五十六の名も2回ある。

戦艦大和の写真がある。これは、呉で建造された直後、全速力走航訓練を宿毛湾沖でおこなったときのもの。多くの戦艦がここで同様の訓練をおこなったという。

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戦艦長門以下がずらり並んで停泊している写真もある。物資の補給や隊員の休憩に宿毛湾を使ったものである。

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いまの宿毛新港の隣、宇須々木地区には、敗戦間近のころには、四国太平洋岸防衛(本土防衛)のために指令基地がおかれていた。そのころ魚雷倉庫や壕の跡がそのまま戦争遺跡として、いまもたくさん残っている。

橋田先生自身もこの防衛部隊に召集されている。その体験は先生の「宿毛風雲録」に、戦争がいかにおろかなものだったかの反省を込めて書かれている。

なのに、いま再び、宿毛市は宿毛湾を自衛隊拠点として誘致しようとしている。人口減少などが進むなかで、地域振興の切り札にしようとういうものである。これまで米軍艦船が入港した際も歓迎行事をやっている。地元商工会議所が熱心で、行政もこれに追随している。

なんとも情けない話である。地域振興は自らがおこなうもの。地域住民の自主的な底力が試されるもの。なのに、主体性がないまま国にすがりつく。税金のおこぼれをあてにする。国策の原発を誘致することにより、地場産業が滅び、地域が空洞化しているのと同じである。

宿毛湾に自衛隊や米軍の艦船、潜水艦が頻繁に寄港するようになれば、海底の砂を巻き上げ、養殖漁網も切られていまい、漁業が甚大な被害を受けることになる。

かつての宿毛軍港につては、勇壮な戦艦の写真を見て、ノスタルジックに語られる向きがあるだけに心配である。

平和な時代のいま、過去の亡霊を追っかけるという愚をおかしてはならない。

 

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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