幸徳秋水と女たち(1)

 このほど大阪の管野須賀子研究会が「管野須賀子と大逆事件ー自由・平等・平和を求めた人びと」(せせらぎ出版、342ページ)を発行した。これまで「妖婦」とのイメージで伝えられてきた須賀子の真実の姿に迫ろうと、この間の研究成果をまとめたものである。この中で、幸徳秋水について私が書いた部分を2回に分けて紹介します。


  幸徳秋水と女たち (原題:幸徳秋水 第7章4節の一部)

 幸徳秋水は初期社会主義運動の理論的主柱であり、管野須賀子が最終局面において、最も深い関係をもった人物であるが、そのあたりのことは、すでに本書でも書かれているので、ここでは須賀子に至るまでの秋水と女性とのかかわりについて、書きとめておきたい。

 幸徳秋水(伝次郎)は、一八七一(明治四)年、土佐中村の商家(薬種問屋)に生まれたが、二歳の時父を病気で失う。秋水は母多治の手一つで育てられた。以後、秋水にとって母は父でもあり、絶対的存在であった。それは母の意に従順ということではなく、常に意識の底を母が支配していたということ。自分の主義と、母に心配をかけたくないという思いの葛藤、相克の上に揺れていた。秋水は最期の獄中まで、母に手紙を出し続けている。処刑の前、母は秋水に面会を果たした後、郷里に帰り病没(自殺説も消えない)。このことによって、秋水はじめて母から「解放」された。

 秋水は幼少の頃、漢学者木戸明の私塾で学ぶ。格調高い漢文体の文章はここに基礎を置くが、思想的には、当時土佐で流行していた自由民権にあこがれ、わずか一六歳で単身上京するという早熟な民権少年であった。その後、一八歳の時、大阪で中江兆民に出会ったことが秋水の運命を決定づけた。兆民から雅号秋水ももらう。

 秋水は二三歳の時、兆民の口利きで自由新聞(板垣退助主宰)に入り、ジャーナリストとしてのスタートを切った。二六歳の頃、東京に母を迎えて同居し、最初の結婚をしている。母に負担をかけたくないという思いから、兆民の意を受けた同門の友人から紹介された相手を、顔も見ないまま「君にまかせる」と応諾した。

 その娘は西村ルイ(別名朝子)と言い、明治維新後の士族授産事業であった福島県国営安積開墾事業に参加していた旧久留米藩士西村正綱の娘で、当時一五歳の幼妻であった。

 しかし、秋水は結婚式の日、奇怪な行動をした。初夜を迎える新妻を置いて吉原の遊郭に遁走した。かくて、結婚は一年をおかず破綻。秋水は美人至上主義者であり、また新婦が無学で自分を理解できないことに不満であった。一度実家に帰ってゆっくりして来いと、上野駅まで送ったあと、離縁状を送りつけるという、むごいものであった。

 こうした秋水の行動は、小泉三申の後日談により伝えられているものであるが、最近わかったところによれば、西村家は福岡県八女郡黒木町で江戸時代から続いた素封家で、藩から士分を与えられた名門の家柄であり、ルイは子供のころから相応の教育を受けていた。離縁の理由を、三申の言のみに求めるのは酷である。年齢差の問題もあったろう。現に、秋水の母多治はルイのことを明るくてかわいらしい嫁として気に入っていた。

ルイは入籍されないまま、一年もたたないうちに離縁されたが、すでに身ごもっており、その後、秋水の子(ハヤ子)を生んだ。しかし、秋水も母も、そのことは知らないままであった。(続く)

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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