幸徳秋水と女たち(2)

 その三年後、秋水は二度目の結婚をした。相手はやはり兆民が介在した師岡千代子であった。千代子の父師岡正胤は平田派の国学者で、その門下生の一人が兆民とも交友があったことから縁談がまとまった。結婚式は、正胤の死後まもなくであったため、兆民は両家の父親代わりとして出席した。秋水二九歳、千代子二四歳。

 しかし、秋水はその夜、またも吉原へと、同じ失態を演じた。今度は見合いを経ていたが、見合いの席では相手が顔を伏せたままであったので、実際を見ると期待はずれだったというもの。ここまでくると、異常の域を超えている。これも三申の後日談であるが。

 千代子は国学者の娘だけあって教養は申し分なかった。父からのきびしい薫陶を受け、国文だけでなく、英語、仏語もできたほか、日本画も描いた。秋水の執筆を手伝い、清書などもしている。晩年、秋水との生活の思い出を書いた『風々雨々』は、内容、文章ともに、その教養の深さがにじみ出た珠玉の作品である。それでも秋水は、千代子は地味で病弱、おとなしい性格であったこともあり、自分には向かないと、不満をもらしていた。だからであろう、二人の間に子はできなかった。

 満たされないながらも、一〇年間の生活の積み重ねで築いてきた堤を切らせたのが管野須賀子であった。何事にも情熱的な須賀子は、ルイや千代子とは全く違ったタイプであり、何よも革命の同志でもあった。秋水はズルズルと引き込まれていく。千代子には強引に離婚を迫り、判を押させた。秋水三七歳、須賀子二七歳。 

 秋水は、それでいて郷里の母には、千代子は名古屋の姉のもとに一時的に養生に帰らせたものであり、心配しないようにと言い訳の手紙を書いたり、忠告に来た木下尚江には、「しかし、君、僕の死に水を取ってくれる者は、お千代だよ」と、弁解がましいことを言っている。

 しかし、これは秋水の本音でもあった。須賀子と二人で滞在していた湯河原から、須賀子が換金刑で入獄したら、すぐにその頃大阪にいた千代子に、須賀子とは手を切るのでよりを戻したいと手紙を送っている。

 千代子は秋水の身勝手さに悶々としながらも、結局は秋水逮捕後、差し入れ等の世話をするようになる。この手紙を獄中で予審判事から見せられた須賀子は嫉妬のあまり、同じ獄中の秋水へ絶縁状を送りつけた。

 秋水は早熟な民権少年であり、人間の自由・平等・博愛から、社会主義へと思想と行動を深化させていったが、こと女に関しては常に「拙い」。私はその裏に母の存在をみる。 

 秋水が恋愛感情を持って女性に自ら接近したのは須賀子が最初で最後であった、ことだけはな間違いないであろう。(終)

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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