渡川合戦の真実

 長宗我部元親の土佐統一と石谷頼辰の役割 ― 石谷家文書にみる渡川(四万十川)合戦の新知見 ― 

地元郷土史家、東近伸氏(元中学教員)による、西南四国歴史文化研究会(通称よど)中村支部主催の郷土歴史講座が、10月8日、中央公民館で開かれた。

この講演で、これまで知られていなかった渡川合戦の真実が明らかにされた。

渡川(四万十川)合戦とは、天正3年(1575)、土佐一條家4代一條兼定が長宗我部元親に敗れ、長宗我部による土佐統一がなった戦いである。

これまでの通説では、一條兼定はわがまま勝手な「暴君」であり、家の将来を心配した家臣たちが長宗我部を頼って、息子の内政を擁立して、父兼定を追報した、とされていた。

しかし、この説は、江戸時代、長宗我部の支配を正当化するために書かれた「元親記」や「土佐物語」の記述にもとづくものであり、疑わしい面もあったが、ほかに記録や資料がないことから、兼定=暴君(無能)というイメージができあがっていた。

ところが、このほど新資料が見つかった。岡山の林原美術館が所蔵していた石谷(いしがいけ)文書である。石谷頼辰は将軍足利義輝の側近で、京都の朝廷・公家などにも通じていた。

頼辰は長宗我部元親の義兄(妹が元親妻)でもあったことから、渡川合戦の最中、たびたび元親と書状のやりとりをしている。その書状が石谷文書の中にあった。

これらによれば、驚くべきことに、長宗我部は京都の一條家本家と通じていた。頼辰を通して、両者は合戦の情報を共有していたのである。

東近氏は言う。一條家本家は、このままでは土佐分家の存続は危ないとみて、勢力拡大中の長宗我部との和解策(妥協策)を考えた。兼定に代わって息子内政をたてることによって、元親を内政の後見人として、一條家の名はを残してもらうかわりに、実質的には元親の支配を認めるというもの。

実際、京都本家の当主一條内基が合戦直前土佐に来ている記録があることは以前から知られていたが、石谷文書により、これが和解策の交渉のためであったことが、今回はじめてはっきりした。

兼定は、本家の意向もあって、不本意ながら退位させられ、義父(妻の父)である大友宗麟の豊後(大分県)へ身を寄せた。そこで義父のすすめもあって、キリストの洗礼を受けた。

ところが、こうした和解策に不満をもつ旧臣たち(特に中村以西宿毛~伊予)が兼定を担ぎ出して旧領回復をはかったのが渡川合戦であった。

通説では、兼定軍はたちどころに敗れ、伊予方面に敗走したとされていた。ところが、実際は、長宗我部は苦戦を強いられ、一進一退、戦いは長期化した。このため、元親は大津御所(現高知市)に移していた内政を中村の陣に立たせ、旧臣を懐柔することによって、ようやく勝利を収めたのである。

渡川合戦は、長宗我部によって分断された親子の戦いであり、土佐一條家の正統性を問う戦いであった。

それにしても、元親の調略はしたたかだ。一條家は摂関家であり、土佐の国主であった。豪族出の長宗我部とは格が違う。京都からは、元親は一條家の家臣と見られていた。

そんな元親はまともに兼定と戦うことはできない。そこで、一條家本家を取り込んだのだ。本家は本家で、分家の名を残すために元親と手を組んだ。兼定は本家からも見放されたのである。

兼定は、最後は宇和島沖の戸島に逃れ、敬虔なキリシタンとして死ぬ。私は3年前、2年前と2回、戸島を訪ねた。墓(廟)はキリスト風にステンドグラスで飾られていた。

兼定は無能な暴君ではなかった。有能ゆえに元親に恐れられ、家臣の信望篤かったがゆえに、リベンジの旗頭にかつがれた。そう思いたい。

 なお、追記ながら、明智光秀の重臣齋藤利三は石谷頼辰の実弟であったことから、元親は頼辰を通して光秀とも通じていた。石谷文書の中で見つかった書状から、光秀が本能寺の変をおこしたのは、信長による長宗我部征伐を阻止するためであったという新説が注目を浴びている。

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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