作州 津山 平沼騏一郎

大阪から丹波、但馬、因幡と日本海をぐるりまわり、作州(美作)の津山に着いたのは、10月25日夜。

津山は、以前転勤で岡山にいた3年間、仕事で毎月通ったところ。以来24年ぶりだ。

いつも岡山からの日帰りであったため、泊まるのははじめて。翌日はゆっくりと、鶴山城や、以前お世話になった取引先周辺の「思い出さがし」でもしようかなと思っていたが、大逆事件サミットからの帰りでもあったためか、ふと津山は平沼騏一郎の出身地であったことに気づいた。

東京多磨霊園に平沼の大きな墓があることは知っているが(行ったことはない)、ネットで調べたところ、市内にも平沼墓があることがわかった。ホテルで地図をもらい、翌朝一番で訪ねた。

旧出雲街道に沿った、城の西側には寺が収集中している一角があった。この寺町に踏み入れたのは初めて。以前は、仕事だけのとんぼ返りであったし、平沼と津山も結び付かなかった。

寺町の高いところに平沼家菩提寺の安国寺。門を入って、すぐ右の植え込みの中に、その墓はあった。1基だけポツンと。「平沼騏一郎墓」、右側面「鶴壽院殿法勲機水日騏大居士」、左側面「昭和廿七年八月廿二日薨 享年八十六」。植え込み入口には、「元内閣総理大臣平沼騏一郎墓」の新しい標柱が建っていたが、元総理の墓にしては、こじんまりとしたものであった。

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戒名の意味全てはわからないが、「法勲」だけはわかる。それは「大逆事件」のシナリオをつくり上げ、司法とは名ばかりの暗黒裁判で社会主義者を撲滅したという「勲」である。

平沼騏一郎は、慶應3年(1867)、津山藩士の家に生まれた。5歳で上京、帝大を出て、司法界に入る。幸徳秋水逮捕時の大審院次席検事兼民刑局長。元老山縣有朋、首相桂太郎の意を受けて、社会主義者を一網打尽にするために、「平沼独裁の捜査本部」(神崎清)が容疑のフレームアップを画策、逮捕の網を全国に広げ、センセーショナルな一大事件に仕立てあげたのだ。

平沼はこれをステップに、翌年検事総長に。さらに、貴族院議員、司法大臣、昭和14年(1939)には、第35代内閣総理大臣に登りつめた。

しかし、戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンへ。手記の中で、大逆事件は社会主義という「思想を裁いたもの」であったことを認めている。獄中では、深夜に泣き叫ぶなど奇行が多かったという。病気仮釈放直後、昭和27年没。満84歳。

寺の住職によれば、「戦犯のため」分骨は容易には認められなかったが、先代住職(父)が奔走して、ひそかに持ち帰った。当時も、いまも、墓を訪ねる人は、ほとんどないという。本堂の裏庭は「石林園」と呼ばれる、市指定需要文化財になっているというのに。

住職が門の外にも先祖墓があると教えてくれた。

平沼騏一郎は生涯独身であったので、兄淑郎(元早稲田学長)の曾孫、赳夫を養子とした。この現平沼赳夫代議士が、分散していた墓を近年一つにまとめ、四角に仕切った壁の中に「平沼家墓」をつくったという。騏一郎標柱もその時建てたものであろう。

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「平沼家墓」にも訪ねる人はほとんどなく、代議士地元秘書が彼岸などに花を差しに来るぐらいとか。

また、住職から、まちなかに平沼家住居跡があり、資料なども展示しているらしいという情報をえたので、鶴山城下の観光センターに立ち寄って、詳しい場所を聞いた。

ところが、窓口の若い女性はわからないという。上司を通して調べてもらったら、それは「知新館」のことだろう、ということになった。

しかし、そこは普段は閉められており、見学を希望するなら、管理委託先(福祉団体)に連絡してカギを開けてもらう必要があるというので、そうしてもらった。

やっとたどりついた「知新館」は、昭和13年、平沼古希の祝いに、地元有志が旧居跡地に生家を武家屋敷風に復元し贈呈したもので、戦後、平沼家から津山市に戻されたもの。

昭和63年まで市立郷土資料館として使われていたが、新しい資料館ができてからは、地域の集会・打ち合わせ等に供されているとのことだが、最近は使われることも、私のように、よそから見学に来る者もほとんどいないそうだ。観光センターの対応からも、それはうなずけた。

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入ってみると、座敷、床の間、廊下に庭と、なかなかの風格があった。白壁土蔵もあり、ほこりをかぶったガラスの中に、平沼兄弟の書と写真などが展示されていた。弟騏一郎の書(「尚而和」)は几帳面で窮屈だが、兄淑郎のそれ(「天絵」「楽道」)は、自由、豪快で好対照であった。

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 幸徳秋水と平沼騏一郎。

秋水の墓にはいまも全国から訪れる人が絶えない。記帳ノートには多くのメッセージが寄せられる。毎年墓前祭もおこなっている。生家跡、記念碑(絶筆碑)、資料館、資料室も、同じだ。観光案内等にも、それぞれ紹介。つい先週は、市(行政)と秋水顕彰会の共催で、秋水史跡めぐりを開催した。

それに比べて平沼騏一郎はさみしいものである。地元の総理大臣でありながら、市民に忘れられてしまっているというよりも、避けられている。市観光パンフ等にも、紹介されていない。「知新館」にいたっては、市のお荷物施設になってしまっている。

歴史の審判は明確である。

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No title

大変興味深く読まさせてもらいました。秋水は死刑の前「100年後に誰かが自分の無実を晴らしてくれる人が現れることを願う」の意味の言葉をのこして散っていいきました。古来、歴史的大逆転とはこういうことを言うのでしょうか。正に天が下した「最後の審判」と言えるでしょう。

”百年の霜露耐えて地に眠る 巨星秋水 今甦る”

秋水先生以て瞑すべし。

No title

平沼は、ショックで精神錯乱をおこしていたのでしょう、毎晩のように刑務所の中で深夜に泣きさけぶなど奇行が多かったと伝えられています。さぞ辛かっただろう、逃げ出したかっただろう。しかし、彼が積み重ねてきた悪業がそれを許しませんでした。終身刑の彼は、その後、死ぬまで6年の長きにわたってこの監獄の中で、もがき、苦しみ、泣き続けたのです。

「空蝉の 虚栄きわめた 老獪は 巣鴨の檻で 夜泣き叫ぶ」

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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