作州 津山 朝日茂

 津山では、もう一人の墓も訪ねた。「朝日訴訟=人間裁判」で国を訴えた朝日茂。

寺町の一角、作州民芸館に入り、ガラスケースに並んだ地元民芸を見ていたら、その一つに、朝日訴訟の記録資料を展示したものがあったので、驚いた。他の展示とはおよそ異質の内容だが、朝日茂はここのすぐ近く、津山市京町の出身ということで、展示していると書かれていた。

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そうか、朝日茂は津山生まれだったな。以前、右近俊郎「小説朝日茂」を読んだことがあったので、思いだした。

係の人が、墓はすぐそこの本行寺にありますよと教えてくれので、行くと「人間裁判 故朝日茂氏墓所」の看板がすぐに目に入った。「朝日家累代之墓」の脇には、訴訟経緯を解説した記念碑と、「守れ 憲法二十五条」の石柱も。

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昭和33年、重度の結核で国立岡山療養所(都窪郡早島町)に長期入院していた朝日茂は、当時の生活保護基準は低劣で、憲法25条で認められた、健康で文化的な生活を営む権利=生存権を侵害するとして国を訴えた。

朝日茂は、療養所で生活保護給付金月600円をえていたが、兄からの仕送り1500円入ると、これを停止されたうえに、差額900円を医療費自己負担分として国に拠出するよう求められた。

東京地裁の一審では生存権を認める画期的判決(浅沼判決)で全面勝訴。しかし、高裁で敗訴、最高裁審理中の昭和37年、原告死去により、高裁判決が確定。

しかし、その影響は大きく、一審後、生活保護水準の見直し、引き上げが行われた。この裁判は、人間らしい生きかたとは何であるかが争点となったことから、「人間裁判」とよばれ、日本の社会保障運動の原点となった。

「法勲」の戒名を持ち、司法を踏み台に総理大臣になった平沼騏一郎と、底知れぬ司法の壁に挑んだ朝日茂、この二人が同じ津山出身というのも、まぎれもない日本歴史の痕跡なのだろう。(ちなみに、作州といえば、社会主義者片山潜も津山の隣、久米郡出身である。)

「思い出さがし」が目的で今回津山経由を選んだのであったが、予期せぬことで、2人の墓を訪ねることになった。

いま、日本国憲法の価値がするどく問われている最中だけに、この巡りあわせを大切にしていかなければならないと思った。

そんなことで、時間がなくなってしまった。鶴山城(津山城)は、下から石垣を望むだけとなった。しかし、この城は、このほうが風格ある。

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さっと通った裏道の旧出雲街道沿は、風情のある古い町並みと吉井川を活かしたまちづくりが進んでいた。だいぶ雰囲気が変わったな。

以前仕事でお世話になった先も外からサラリと眺めただけで、備中高梁をめざした。

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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