葛根廟事件

12月4日、道の駅「よって西土佐」で、シンポジウム「葛根廟事件を考える」が開かれた。

同事件とは、太平洋戦争中、満州内蒙古葛根廟でおこったソ連軍による「日本人大量虐殺」(約1300人中、生き残り130人)のこと。

昭和20年8月9日、ソ連が参戦。戦車部隊が満州攻撃をはじめる。満州国興安総省首都興安にいた日本人は、男はほとんどが召集され、老人、女、子供が中心だった。集団で避難途上、8月14日、ソ連軍の追撃を受けた。

生き残りの1人、当時10歳であった大島満吉さん(81歳、興安街命日会代表、東京都)が生々しい体験談を、声を詰まらせながら話してくれた。

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同事件のことを私はほとんど知らなかったので、事前に本(大櫛戌辰「炎昼 私説葛根廟事件」)を読み、大島さんにも質問し、わかったこと。

連合軍(米・英・ソ・中)はソ連の参戦を決めていた。日本軍(関東軍)はそれを察知し、その場合、負けることはわかっていたので、満州国首都新京以南に撤退することを、密かに決めていた。興安でも突然、関東軍が消えた。

避難民の中には、在郷軍人(軍OB)もいて、銃をもっていた。関東軍を追撃するソ連軍は、避難民の中に日本軍がまぎれこんでいるとみて攻撃した。避難民は逃げた関東軍の盾にされた。

軍人(現地召集者も)は、シベリアに送られたものの、大半が生き残って日本に帰れた。死んだのは、女、子どもたち。

西土佐(旧江川崎村、旧津大村)からも、開拓団が満州に送りこまれ、多くの犠牲者を出したが、葛根廟とは遠く離れており、この事件には関係していない。西土佐の犠牲者は、避難途上の飢餓と病気によるものが大半で、一部現地人襲撃もある。

なぜ、西土佐でシンポジウムが行われたのか。
西土佐では、満州犠牲の記録を残そうと、資料展示室(権谷せせらぎ交流館)をつくっている。また、引き揚げ者の2世、3世などを中心に、「西土佐の満州分村を語り継ぐ会」も結成されている。

そのことを聞いた、葛根廟事件生き残りの1人で、事件の追跡調査をしている大櫛戌辰氏(福岡市)が関係資料を西土佐に寄託した。また、四万十市中村には、本人は日本にいて無事だったが、父親を事件で失った青木浩さんがおられた。(高知県関係者犠牲者は16人)

道の駅が会場になったのは、「・・・語り継ぐ会」会長の林大介さん(父が満州引き揚げ者)が、道の駅駅長をされている、から。

道の駅には、11月27日~12月11日、大櫛氏から寄託された葛根廟事件資料の一部のほか、旧江川崎村満州開拓団資料も展示している。

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道の駅「よって西土佐」は、食べ物等の商品販売だけでなく、2階は会議等にも使える地域交流スペースになっており、情報も発信している。ここで、展示も行われており、シンポジウムも行われた。

満州開拓団関係の資料館は全国に2つ。ここ(せせらぎ交流館)と、もう一つは、長野県阿智村。

11月、天皇、皇后が、阿智村資料館を訪ねている。天皇のたっての希望だったという。その感想を、大島さんに聞いたら、「うれしい」と言われた。

戦争の記録はきちんと残し、後世に語り継がねばならない。道の駅が、今後もそうした役割を果たしてくれることを期待している。

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田中全(ぜん)

Author:田中全(ぜん)
四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃんです。

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