自由之碑 

 市内右山にある太平寺の下の道はいつも車で通るっているが、寺に入ることはめったにない。28日、久しぶりに階段を上って、庭の隅に立つ「自由之碑」を見てきた。

碑は明治24年11月に建てられたもので、私の背丈よりも高い2メートルくらいの石に長文の漢字が刻まれている。といっても苔むしているためとても判読はできないが、「中村市史」に、その内容が載っている。

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明治22年2月、帝国憲法が発布され、翌23年7月、わが国最初の衆議院選挙がおこなわれることになり、政府支持の国民党と反政府の自由党が争った。

自由党は自由民権運動発祥の地高知で生まれた。だから、高知県では、両派の抗争は熾烈をきわめ、ついに死者まででた。太平寺下で両派乱闘となり、自由党側の27歳の杉内清太郎が短刀で刺されたのだ。相手はすぐに自首した。市史では「右山事件」とされている。

碑には、その死を悼む内容が刻まれている。長文の最後は・・・

 生愛自由 
 死為自由
 人貴自由
 碑表自由

「自由を愛し自由のために死ぬ人は貴い」という意味。
 
 竹内綱撰
 大江卓書

2人はともに宿毛の自由党員で、竹内綱は吉田茂の父である。

この「自由之碑」は自由党のシンボルとして、いろんなところで紹介されている。

幡多での両派抗争事件は、ほかにも「下田事件」「和田事件」「伊予野事件」(小筑紫)などもあった。「伊予野事件」では、逆に国民党派運動員が自由党派から銃で殺されている。

宿毛は自由党の牙城であった。しかし、中村は国民党のほうが強かった。

幸徳秋水母の実家の叔父小野道一(妻は安岡良亮娘の英子)は国民党派の県会議員で、議長もつとめた人であった。

なのに、右山事件当時、19歳の幸徳秋水は民権運動にあこがれ中村から出奔し、大阪で中江兆民の書生になっていた。

その後、秋水は兆民に従って東京に移る。続いて小野道一も政治を離れて、家族で東京に出てきたことから、独身の秋水は小野家にしばし同居することになる。

身内同士ゆえに、考えが両派に分かれていたとしても、日常生活においては大きな問題ではなかったようだ

しかし、明治28年、小野道一が急死したことから、秋水は別に家を構えて、最初の結婚をすることになるのだが(相手は元久留米藩士の娘西村ルイ)、私は小野道一および、その残された家族(安岡良亮娘と孫)について、いま興味をもって調べている。少しずつ、書いていきたいと思っている。

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昨年7月27日、地元の郷土史家と共に神戸新聞の記者とカメラマンに赤鉄橋の歴史を案内するついでに、私もこの碑を訪れました。その碑の建之に関係している人物竹内綱と大江卓の文字を見て驚愕したことを思い出します。こんな歴史的な碑があることを今まで知らなかった自分に恥じ入った次第です。四万十市民にもっともっと知ってもらいたい碑を歴史的いきさつを踏まえ紹介してくださり感謝です。
プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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