安岡良亮 一族の墓(1)

 安岡良亮(りょうすけ、別名亮太郎)は中村の人。幕末維新で活躍した幡多の勤王党リーダーの1人で、戊辰戦争では捕縛した新選組近藤勇を斬首に処した。

明治新政府に入り、今の群馬県、三重県を経て、初代熊本県令(知事)となったが、明治9年、不平士族神風連に襲撃され殉職した。安岡は幸徳秋水母の従弟であった。

私は、昨年4月末、地震被災直後の熊本に出向いたさい、熊本城近くの花岡山にある安岡の墓を訪ねたことは、当時ここに書いた。

 http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-256.html

墓は、草に覆われ、荒れていた。訪れる人もないようで、熊本の人からは忘れられた存在になっているように思え、寂しい気持ちで帰ってきた。

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しかし、忘れられているのは、地元中村でも同じである。幡多郷土資料館に展示コーナーがあり、市内丸の内の旧邸跡にも案内碑が建っているが、いまの市民で安岡良亮を知る者はほとんどいない。

最近、同じ中村の土佐勤王党で、先輩格にあたる樋口真吉については、いろんなところで紹介され、話題にのぼるようになった。

しかし、幕末から維新にかけての時代転換の局面で、歴史に刻まれた事績にかかわったという意味では、安岡良亮は樋口真吉に勝るとも、決して劣ることはない。

そのうえ、安岡の残された子、孫や兄弟たちも、中村の歴史に名を刻んでいる。さらに、遡れば祖先も、である。

そこで、私は昨年秋から、安岡良亮について、資料を集め、少しずつ調べている。安岡良亮の人間像を浮かびあがらせるとともに、その家族、祖先がどのように生き、どのように歴史にかかわってきたのか、一族の全貌を知りたいと思って。

まず、一族の墓を探してみた。

良亮の墓は熊本にあるが、先祖墓は中村にあるはずである。しかし、どこにあるのか、これまで聞いたことがなかった。

良亮は安岡家の長男であった。しかし、明治政府に仕えるため、家族を引き連れ中村を離れたことから、いまはその直系の末裔は地元にはいない。

地元で安岡家を継いだのは、弟良哲(よしやす)であった。その良哲のひ孫にあたる女性が市内にいるというので、訪ねて聞いたところ、先祖墓は市内2カ所に分かれているという。江戸時代の古い墓は間崎に、幕末以降の墓は羽生山に。

しかし、間崎の墓については、17年前、性根(霊)を抜き、土だけを羽生山の墓に移した。その時、墓石は倒し、以来放置しているというので、地元間崎で、代々墓を祀って(世話をして)きた家に頼んで、12月、その場所に案内してもらった。

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四万十川河口に近い間崎といえば大文字。墓は、大文字の送り火が焚かれている山の近く、集落の裏山3カ所に分かれてあった。

一番古い墓は、暗い林に覆われ、落ち葉と土に埋もれていたので、探すのに少し時間がかかった。

掘り出して土を払うと「安岡久左衛門良儀 享保八年十二月七日」の文字が読み取れた。享保8年=1723年。これが、あの「忠臣」とされる久左衛門かと、興奮した。夫人の墓と2基あった。

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安岡家の家系については、地元郷土史家上岡正五郎先生(故人)が詳しく調査をし、一部「中村市史」にも書いている。今回、図書館に保存されている上岡文書(資料)に目を通した。系図も整理されていた。

それによれば、安岡家の祖は藤原房前に始まり、丹波、鎌倉、紀州熊野を経て、淡路島にいた頃、慶長5年(1600)、山内一豊の弟康豊に従って来た安岡伝八郎良勝が、中村における初代である。

以降、久左衛門良次、八右衛門良延と続いたあとが、「久左衛門良儀」である。

山内一豊は、関ケ原の戦いのあと土佐一国(24万石)を与えられたが、中村だけは独立した中村藩(2万石、のち3万石)として弟康豊に分け与えた。安岡家は中村藩の家臣となった。

しかし、元禄2年(1689)、中村藩は5代山内直久の時、幕府若年寄に推挙されたにもかかわらず、これを辞退したことから、将軍綱吉の怒りに触れ、わずか89年で取り潰されてしまった。(その後、本藩=土佐藩に吸収された)

その時、久左衛門は江戸仕置役(30石)であった。主君のお家断絶という混乱の中、久左衛門は事後処理に奔走、特に藩借金の処理に身をとして当たり、主君最悪の事態を救った。

しかし、自らは他の家臣同様、録を失い、中村に帰ったあとは、浪人となり郊外間崎に移り住み、帰農した。

墓の二つ目は少し下ったミカン畑の一角にあった。やはり草に覆われていた。そこでは、久左衛門の長男貞助と、一代おいてその孫にあたる源治と恵助(早世)の墓が確認できた。

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貞助は、父久左衛門の江戸における事績などを家伝「白沙之記」として書き残している。身内以外には「知らすな」という意味であり、「安岡家覚書」として図書館に保存されている。

三つ目の墓は、その近くにあったが、名前の判読ができない状態である。

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間崎4代、最後の源治は寛政7年(1795)没と、刻まれていた。

間崎で確認できたのは、ここまでであった。

安岡家は、源治の息子隼太の代に、中村に戻って来た。隼太以降の墓は、中村の羽生山にあった。(続く)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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