安岡良亮 一族の墓(3)

 間崎、羽生山、2カ所の墓を訪ねたあとに、間崎の別のところにも安岡の名前が刻まれた墓石があるという情報が入ってきた。場所は間崎(地区)にある間崎家の墓所のそばで、安岡と間崎の名前が混在しているという。

間崎家といえば、その名前の如く、一條家時代から続く間崎(地区)の名門で、江戸期には大庄屋をつとめてきた家である。いま全国に散らばっている間崎姓のルーツは、ここの間崎家であると言われている。(初崎と実崎の間にあるから間崎という地名になった。)

幡多郡でも、下田、江ノ村、津野川、伊与喜などにも分家している。山内容堂に切腹を命じられた、かの土佐勤王党間崎滄浪は江ノ村の間崎出である。

すぐに、いまもある間崎家本家を訪ね、聞いてみると、確かにその通りだが、なぜ混在しているのか、うちで祀っていいものかわからないので、放置しているという。

ガソリンスタンド脇を入った、その場所に案内してもらうと、草、木、ツルに隠れていた。鎌で刈り払うと、2列に並んだ墓石の一群が出てきた。

数えると、なんと22基。内訳は、安岡7、間崎5、野波1、東1、識別不能8(戒名だけ)であった。

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それぞれ写真に撮り持ち帰った。安岡家系図、間崎家系図(ともに上岡正五郎文書)に目を通して、名前をチェックしてみると、間崎は特定できなかったが、安岡の名前の主はすべてわかった。

一番古い名前は、傳七真儀であった。傳七は、かの「忠臣 久左衛門久儀」の次男である。

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記録によれば、兄貞助良久が本家を継いだのに対し、傳七は間崎一族の家(津蔵渕庄屋=隣地区)にいったん養子に出た。しかし、橋上村(現宿毛市)庄屋に転じたさい、長男次平眞武に家督を譲り、本人は安岡姓に戻って橋上に移った。

しかし、隠居後、墓はもとの間崎(地区)につくった。橋上村庄屋職は次男久次衛門に継がせた。「宿毛市史」の庄屋一覧にその子孫たちの名前が載っている。

長男次平眞武以降の墓は、この間崎の墓の中にあるが、次男久次衛門以降の墓はないので、橋上村にあるものと思われる。宿毛歴史館に、場所を問い合わせている。

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疑問なのは、橋上村の次男久次衛門以降が安岡姓なのはわかるが、長男次平眞武以降は間崎姓であるはずなにの、墓名は安岡になっていることである。

間崎本家の墓群のそばに、安岡と間崎が混在した墓石があるのは、そんな複雑な事情のためではないか。現に、傳七、次平に続く名前は、間崎家系図の中にも載っている。(両家の系図に重複している)

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ところで、橋上村安岡家の流れ(祖=傳七真儀)に、安岡正篤(まさひろ、明治~昭和)がいる。著名な思想家、陽明学者であり、太平洋戦争終戦の天皇詔勅に筆を加えたことは、知る人ぞ知るところであろう。

安岡正篤は大阪の堀田家の出であるが、一高時代に、当時東京にいた安岡盛治の養子になり、東大帝大在学中、盛治の一人娘婦美と結婚している。

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盛治も養子(高知大西家より、妻光恵)であり、その父(養父)は安岡良純であった。良純は天保年間、橋上村生まれで、明治になってから高知県官吏を経て、東京に出て税務官吏を務めた。

東京では安岡雄吉(良亮長男)と親族交流があったようで、正篤の一高、東大時代の身元保証人には、雄吉がなっていた。

一部に、正篤は安岡雄吉家の養子であったと伝わっているが、これは誤りである。

安岡正篤と安岡良亮のそれぞれの流れを遡れば、正篤の8代前と良亮の6代前が「忠臣 久左衛門良儀」で一致する。そこで枝分れし、良亮、雄吉が中村本家筋、正篤が橋上分家筋ということになる。正篤の墓(安岡家墓)は東京染井霊園にある。

なお、「やさしい論語教室」などで、よくテレビ、ラジオなどに登場する安岡定子は正篤の孫娘である。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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