安岡良亮 一族の墓(4)

 墓の説明は以上で終わり、以下は、まとめとしたい。

私がいま安岡良亮について調べているのは、地元が生んだこの人物を広く知ってほしいためである。特に地元の人たちには。そのためには、自分自身がよく知らなければならない。

要するに、安岡良亮はどんな人物だったのか。

安岡良亮は、文政8年(1825)~明治9年(1876)、日本近代の幕開けとなる幕末維新期51年を生き、その後の時代の行方を決める象徴的な事件にかかわり、また人物に影響を与えた。

事件とは二つ。
① 倒幕運動に参加し、旧勢力のシンボルでもある新選組近藤勇を斬首に処した(命じた)こと。
② 熊本神風連の乱では、逆に旧勢力(不平士族)により斬り殺されたこと。

近藤斬首については説明はいらないと思う。神風連の乱については、明治9年、良亮はこの事件の犠牲になったが、神風連は制圧された。

乱後、政府は熊本に谷干城を派遣し、防備を強化した。もし、地元勢力である神風連が温存されていたら、翌年、西南戦争において、西郷軍に合流したであろうし、熊本城(鎮台)は落城していたであろう。そうなれば、全国の反政府勢力が勢いを増し、明治政府は瓦解していたであろう。

谷干城は同じ土佐人で近藤勇斬首をともに命じた盟友であった。谷は英雄となり、帝国憲法発布後の初代伊藤博文内閣で農商大臣、のち貴族院議員になった。しかし、良亮はその捨て石になった。

次に、影響を与えた人物とは、幸徳秋水と尾﨑咢堂(行雄)である。

秋水の母は良亮の従弟(いとこ)であったが、秋水が明治4年に生まれた時は、良亮は東京に出ていたので、二人は直接交わることはなかった。

しかし、先に書いたように、良亮が死んだことにより、家族は中村に帰ってきた。長男雄吉だけは、慶應義塾に入っていたので、東京に残った。雄吉は弟秀夫たちに、田舎にはない、珍しい絵本や雑誌を送って来た。「絵入自由新聞」「団々珍聞」などである。

秋水は安岡の家に入りびたりだったので、これらの本を読んで、触発された。秋水が中心になって、こども新聞をつくった。また、「自由」とか「民権」とか書いたのぼりつくり、町を歩いたりした。こうしたことは、秀夫の回想記「雲のかげ」に書いてある。

仮に、良亮が生きていれば、身内を引き立てていたであろうから、秋水は違った道を歩んだのではないか。

良亮の死が、のちの社会主義者秋水を生んだといえる。

一方、「憲政の神様」尾崎咢堂は、良亮から直接の薫陶を受けている。

戊辰戦争において、土佐の東征軍、板垣退助率いる迅衝隊は甲府から江戸へと進軍するさい、地元からも兵士を募った。その中に八王子近くで合流した尾﨑行正(咢堂の父)がいた。

良亮隊(半隊長)に属した行正は、よほど良亮に魅かれたのであろう、維新後もずっと熊本まで、影のように従った。良亮を支える公務についたが、家僕同然であった。

安政6年(1859)生まれの咢堂が、父に連れられ、明治元年、東京に出たさいは、駿河台にあった良亮の屋敷に落ち着いた。咢堂は良亮から七書の講義などを受けている。以降、家族ぐるみで、高崎、伊勢、熊本にも従っている。

ただし、咢堂は途中、慶應義塾に入ったことから熊本にはついて行っていないが、学校休みの時、熊本に家族を訪ねたことを、「咢堂自伝」に書いている。

良亮死後も尾﨑一家(妻、弟2人)は中村についてきて、安岡家にしばらく同居し(戸籍では同居人)、明治14年、以前いた伊勢に移っている。咢堂は、明治23年から昭和27年まで、衆議院議員25回当選の最長記録をもっているが、その選挙区が三重県だったのは、こんな事情によるものである。

良亮の長男雄吉は咢堂の5歳上であり、先に慶應義塾に入っていた。おそらく、咢堂に慶應をすすめたのは良亮であろうと思われる。


安岡良亮は、勤王倒幕に参加し、近藤勇、神風連との運命的めぐり合わせなどをみると、こわもての、強者(つわもの)のようなイメージがある。

確かにその通りであろうが、それだけではない。人心を掌握する能力にもたけていた。

「咢堂自伝」によれば、良亮は明治政府に入り、最初は「弾正台大忠から集議員判官、民部少丞」などについていたが、大久保利通の命で、高崎県、度會(三重)県、白川(熊本)県のトップとして、派遣される。いずれも難治(治めるのがむずかしい)の県とされていたところであり、良亮の力量を買っての指名であったものと思われる。

高崎、度會では実績をあげ、熊本でも硬軟両様を駆使し、不平士族との融和を進めていたところであった。

しかし、最後は命を落とす。陽が当たる中央官僚に比べ、現場まわりの地方行政官の悲哀、無念を感じる。

良亮は、家庭でも家族想いの父であった。次女英(ふさ)が晩年「八拾年の思出」に書いている。英が子供のころ、母の具合が悪いときは、父はつきっきりで看病し、やさしく食事も与えていた。また、次男秀夫も、高崎時代、家族で伊香保温泉に行った思い出を、先の手記に書いている。

安岡良亮は、そのような奥深い人物であった。

繰り返しになるが、その一族も、多士済々であった。

だから、多くの人に知ってほしい。

(終)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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