安積開拓と秋水妻(2)

 2日目は、あらかじめお願いをしていた久留米開墾報徳会会長の中島武さんにご案内いただいた。報徳会は久留米入植者子孫の方々の集まりである。

中島さんの車に乗せていただき、市中心部から南へ20分で水天宮へ。このお宮さんは、福岡久留米にある水天宮を分祀したもの。境内にはたくさんの記念碑などが立っており、脇には久留米資料館もあった。

安積開拓全体の顕彰会組織はほかにあるが、単独の会があり、単独の資料館をもっているのも9藩中久留米だけ。安積開拓において、久留米藩の果たした役割が大きかったことの証左だ。

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館内には、いろんな資料が展示保管されていた。開成館の展示よりも生々しい。詳細な年表、入植者名簿、歴代区長写真、当時の借金証書など。刀を鍬にかえ、慣れない農作業に苦しんだ、久留米藩士のうめき声が聞こえてくるようだ。

 
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ここらには、久留米公民館、久留米郵便局などもあり、地名も郡山市久留米(1~3丁目)であるが、いまはすっかり住宅地に変わっていた。農家はほとんどないというが、墓地は当時のまま残っていた。

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久留米藩からの入植者は多かったため、最初に入植したここらあたりだけでは、土地が不足してきて、途中からは、少し離れた北部に移った者も多い。その北部(旧喜久田村対面原)にも案内してもらった。やはり20分ほどかかった。

北部にも同じ水天宮が、さらに金毘羅宮もあった。遠くに白く雪をかぶった安達太良山を望むところで、南部と違い、一面水田や畑が広がり、いかにも開拓地という雰囲気を残していた。

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 一角に墓地があった。その中に太田榮(兄)と太田茂(弟)の墓が並んであった。2人は兄弟であり、さらに下の弟伝と3家族で入植をした。

3人の男の間には、妹千鶴もいた。千鶴は西村正綱の妻であり、ルイの母であった。西村正綱一家は、明治27年、最初の組の入植から16年も遅れて、ここに移住し、弟伝の家に同居したことは、戸籍記録からわかっている。しかし、伝の墓はなかった。

茂は久留米藩開拓のリーダー2人の中の1人であった。茂はもっぱら猪苗代湖からの用水開削を担当し、もう1人のリーダー森尾茂助は農地開墾のほうを担当したと、記録されている。

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この北部に来る途中、土佐藩が入植した廣谷原という地区も案内してもらった。一部は郊外流通団地になっているが、大半は農地のところである。豊受神社という土佐藩士が建立した神社には、土佐藩入植者の名を刻んだ記念碑があった。

安積は広い。土佐藩からは、合計101戸(久留米藩に次いで多い)入植したが、廣谷原に入植したのは75戸で、残りはだいぶ離れた2地区に入っている。

 (続く)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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