安積開拓と秋水妻(3―終)

 西村ルイ(秋水最初の妻)については、2つの謎があり、今回の安積訪問でその解明の手がかりを見つけたかった。

1. ルイの父西村正綱は、明治27年、最初の組から16年も遅れて、なぜ、どんな目的で、福岡県黒木町から安積へ移住したのか? 安積では何をしていたのか?

2. 幸徳秋水にルイを紹介したとされる、中江兆民同門の友人森田基(画家)とは、どんな人物で、西村家とどんなつながりがあったのか?

 今回の旅では2つの疑問とも明らかにはできなかった。しかし、それぞれの背景らしきものはある程度見えてきた。

今回、西村正綱の名前は、どこにも見つけることができなかった。入植者名簿にも、記念碑に刻まれた名前にも。また、案内をしていただいた中島さんから提供していただいた、「百年史」等のたくさんの資料の中にも。

資料は、入植初期についてはよく残されていたが、久留米開拓地が南部と北部に分裂して以降、特に北部については火事で焼失したこともあり、ほとんどないということだった。西村正綱が入ったのは北部(喜久田村対面原)である。

しかし、紙の資料が残されていないにしても、名前だけなら開拓記念碑に刻まれているはずである。しかし、そこにもないということは、そもそも西村正綱は開拓民(農民)として移住したのではない、と思わざるをえない。

現に、久留米開墾事業はすでに明治24年に終了していた。その頃は、最初の入植から続く生活苦の中で、地元高利貸、商人などから借金のかたに土地をとられるなどして、多くの開拓民が離散しており、半数も残っていなかった。

そんな時期に、この地に新たに移住することは考えられないことと、中島さんは強調されていた。

正綱妻千鶴の兄2人、太田榮と茂の墓が開拓地にあることは前からわかっており、今回現地を確認することができた。

新たにわかったことは、榮は明治16年、この開拓地(北部)を離れ、福島県官吏となり、同22年には、近隣の安積郡多田野村の初代村長になり(明治39年没)、長男陽太郎も明治41年から同村長(2代続けて)をつとめたということ。

茂も、同じ明治16年開拓地を離れ、やはり長野県官吏となった。しばらくしてから、帰ってきて同39年から喜久田村村長をつとめた。(昭和2年没)

茂については、東京在住の孫女性の連絡先がわかった。茂の息子は東京に出て、江東区でメリヤス事業を始めたが、昭和20年3月10日の大空襲で事業も家族3人も失ったという。しかし、西村家の情報は得られなかった。

榮の子孫の連絡先は不明。郡山周辺におられるという情報もあるが・・・

弟の伝も開拓地を離れた(時期は不明)ことが記録されていた。しかし、明治27年、西村家族が移住してきた時は、伝の住所に同居したことになっているので、その頃伝だけはまだ残っていたのであろう。

伝のその後の消息は、墓の場所も含めて全く不明である。

西村ルイは、生前、生まれ故郷の福岡県黒木町の思い出は時々話をしたが、安積のことはほとんど話さなかったという。いい思い出はなかったのであろう。そんな中、わずかに話したことの中に、一家で開拓地に入るさい、荷車に載せて運んでいる家財道具が立派だったので、道々羨望の目で見られたということ、また、父正綱は、酒好きで、開拓地でも玄関に酒を並べて飲んでいたということ、がある。

正綱はやはり開拓農民としてではなく、何等かの仕事(公職?)で招かれたのではないか。現に、正綱は視学官(教育行政官)をしていたらしいという話も残っている。

しかし、今回、教育関係資料が残っているという安積歴史博物館(安積高校内)にも行き、調査を依頼したが、追っかけ、そんな記録は見つからないという報告が届いた。さらに調べてくれるというが・・・何の記録も残ってないというのも、不思議である。

正綱は移住9年後の明治36年に没している。長男軍次郎(ルイの兄)は安積から東京深川に出たことははっきりしている。しかし、その時期は不明なので、正綱が没したのは安積か東京かは、わからない。軍次郎は深川では繊維関係の仕事を始めたという。

この仕事は太田茂息子兄弟(三男、四男)がやっていたという江東メリヤス合資会社と関係があるのではないか。母千鶴はよくメリヤス工場に出かけていたという話が残っている。このメリヤス工場のことではないだろうか。

私は、今回開成山神宮前にそびえ立っている「森尾茂助・太田茂開墾率先碑」を見て驚いた。この大きな顕彰碑は大正7年、2人のリーダーを称えるために建てられたものだが、いたみがひどくなったということで、平成13年10月、補修が行われていた。

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その補修費用を提供した人たちの名前が手前の石に刻まれているが、寄付者総数32人の中で、福岡県八女郡黒木町の見野幸子さんが総額の半分以上の50万円を寄付していた。

見野家は西村家と古くから姻戚関係にあり、同じ黒木町で両家の墓所は隣接している。西村正綱・千鶴夫婦の墓もそこにある。

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見野幸子さんは西村軍次郎の娘として生まれてから見野家養女になった人である。幸子さんは、自分の祖母(千鶴)の兄の顕彰碑のために、多額の資金提供をしたのだ。

幸子さんはいまもご健在であるが、ご高齢のため、そのあたりの事情や思いをおききすることはできないのが残念である。

今回の旅では、幸徳秋水とルイを結びつけた「森田基」についても、輪郭が見えてきたような気がする。

私は、森田基は中江兆民門下であったということから、同じ土佐人であり、この糸が近隣開拓地に入植していた旧土佐藩士のだれかから西村家につながったのではないかと、推測している。

今回、土佐藩主力が入植した「廣谷原」と久留米入植地(北部)の「対面原」とは比較的近い位置関係にある(車で10分ほど)ことがわかった。

また、太田榮は安積南部にある多田野村村長を明治22年からつとめており、同村の山田原地区にも、別の土佐藩20戸が入植していたこともわかった。

裏付けはまだないが、こんな事実を知ったことも、今回の旅の収穫である。
調査は今後も続けたい。

最後に、今回お世話になった久留米開墾報徳会中島武会長には、心からお礼を申し上げたい。

(終)

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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