大分へ(1)

少し前になるが、4月29日から3日間、大分県へ出かけた。

大分は私が昭和51年農林中央金庫に就職して、社会人としてのスタートを切ったところ。生まれて初めて飛行機に乗って、東京からドキドキしながら赴任(最初の転勤)したことを思い出す。

3年半勤務して、また東京に戻ったが、大分では多くの方々にお世話になった。そうしたみなさんに久しぶりに、ゆっくり会うために。

また、地元に帰ってから郷土史にかかわる中で、土佐一條家と大友家(宗麟)が姻戚関係を結んでいたことなど、豊後(大分県)と幡多、土佐とは歴史的に深い関係にあったことを知った。そうした史跡などもあらためて訪ねたいと思った。

 29日未明宿毛発佐伯行フェリーに乗るつもりであったが、船のエンジントラブルで突然欠航になったことから、急いで八幡浜まで走り、臼杵行きフェリーに滑り込んだ。

これも大友家のお導きなのだろう。臼杵は大友宗麟時代の居城があったところ。
土佐一條家4代兼定の母は宗麟の姉、妻は宗麟の娘であった。

兼定は長宗我部に追われ、臼杵の宗麟のもとへ逃げた。宗麟はキリシタンであったことから、兼定も洗礼をすすめられキリシタンになった。

兼定は大友の援軍をえて、失地回復をめざし再び四国に上陸、南予方面の豪族たたちもこれに加わったが、四万十川合戦(1575)で長宗我部元親に再び敗れた。宇和島沖の孤島戸島に逃れ、そこで生涯を終えた。

土佐一條家と大友家は、こうした深い関係にあることから、私は市長時代の6年前、公務で大分県に出かけたさい、中野五郎臼杵市長を訪ね、両市の交流を呼びかけた。そのさい、臼杵城跡にも登った。

今回はフェリーが着いたのは払暁の午前5時であったことから、薄暗い中、城跡は下から眺めて通った。

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大分が地元(本社)のジョイフルで休憩。モーニングサービスを食べてから、臼杵石仏前の国道を通って大分市に入り、月形、吉野を経由して、戸次(へつぎ)にある長宗我部信親墓を探した。

カーナビに従い、以前はなかったバイバスを通ると、道沿いに信親墓の標識が立っており、すぐわかった。

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長宗我部にとって、大友家は因縁の関係。四万十川合戦では敵として戦ったが、12年後の戸次川の合戦では一転大友の援軍として戦った。

長宗我部は一條家を押さえたあと、またたく間に四国を制覇した。しかし、すぐに豊臣秀吉に屈服し、土佐一国に戻された。

当時、九州では薩摩の島津が勢力を拡大し、秀吉に対抗していた。島津は北上し、大友の領地を脅かしていた。大友は秀吉に援軍を乞い、秀吉は長宗我部、十河(讃岐)に命じ四国連合軍を編成させ大友援軍として送りこんだ。元親、信親親子は自ら九州に乗り込み、戸次川をはさんで島津軍に対峙した。

この戦いで四国連合軍は大敗を喫した。元親嫡男信親は討ち死にした。元親はかろうじて土佐に逃げ帰ったが、長宗我部凋落はここから始まった。

信親墓は十河一族の墓と一緒に地元の人たちの手で祭られていた。まわりは公園のようになっていた。88体の地蔵も並んでいた。

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戸次川は長宗我部にとって因縁の地であることから、土佐史談会会員などがたびたびこの地を訪ねている。両地の交流も行われている。今月20,21日、高知市、南国市で開かれた恒例の長宗我部まつりには、大分県から大友鉄砲隊(保存会)も参加していたようだ。

私がいま住んでいる四万十市実崎の旧庄屋宮崎家の祖、宮崎勘兵衛は戸次川合戦の生き残りであり、私の家の墓と同じ山にあるその墓には、そんな記録が刻まれている。(続く)



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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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