太陽館 解体

中村最後の映画館だった太陽館の建物が解体工事中である。

太陽館の開業は大正15年(1926)。同じ年に四万十川橋(赤鉄橋)もできた。太陽館は中村近代化の象徴であり、文化の殿堂であり、おまち中村の賑わいのシンボルであった。

私の記憶に一番残っているのは昭和39年東京オリンピックの記録映画を八束小学校の授業の一環として貸し切りバスで見に行ったこと。6年生だった。その日は、学校はないし、バスには乗れるし、映画も見れる、ということで、みんなでワイワイ騒ぎならが、しかし、入館する時は少し緊張していたのを覚えている。

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当時中村には映画館が四つあった。東宝系の太陽館、東映系の末広、日活系の中劇、洋画系の北劇だ。この中で、私に一番なじみがあったのが太陽館である。「キングコング対ゴジラ」の怪獣映画を見たことも強烈に覚えている。

11月の一條さん(一條神社大祭)の時には、中村のまちは人であふれていた。神社にお参りをすませた後の楽しみは、相撲大会、サーカスを見るか、映画を見るか、だった。

そのころ、太陽館売店では椎の実を鍋で炒って売っていた。1袋10円とか20円で。みんな椎の殻を歯でパリッと割って食べながら、映画を見ていた。パリッ、パリッという音と、足下に捨てた殻を靴で踏むバリッという音が館内中響いていた。

太陽館には2階席もあり、両脇には座敷席もあった。1,2階合わせて800席もあったときく。それでも入り切れずに、立ち見の人も多く、入れ替え時の席の取り合いがすごかった。こどもにとっては、必死だった。

そんなに賑わっていた太陽館も段々と入る人が少なくなってきた。私も地元を離れてからは縁遠くなってしまった。しかし、それでも帰省したさい、前を通るといつも派手な看板が上がっていた。また、まちのあちこちに経営者澤田寛さん独特の字体の看板が建ち、それが中村のまちには欠かせない風景となっていた。

他の3館が閉館になっても、太陽館だけはずっとふんばっていた。最後のころは、毎日開けることはできなくとも、話題作だけ上映するとかして、高知県西部において唯一の映画の灯を守り続けていた。

しかし、澤田さんが高齢になり後継者がいなかったこともあり、ついに2005年以降は銀幕が上がることはなかった。同じ年に中村市もなくなり、四万十市になった。中村と太陽館は運命共同体であった。

太陽館には、中村市民みんなの思い出が詰まっている。それぞれの記憶の中に刻み込まれている。

私は、市長時代、太陽館の建物を保存し、おまち中村の再生のシンボルになるような施設として活用できないかと考え、ご家族に打診をしたことがある。しかし、すでに体調をこわされていた澤田さんとは、詰めた話にはならなかった。

私が市長をやめたあと、その年2013年に澤田さんは87歳で亡くなった。

私はその後も太陽館の前を通るたびに、この建物はどうなるのだろうかと心配をしていた。入口には看板、ポスターがずっとそのまま残り、郷愁を漂わせていた。

そんな中、先月5月23日、たまたま前を通りかかったところ、解体の準備がされていた。驚いた私は、建物の中に入り、写真を撮らせてもらった。ごらんの通り、過去の栄光は残骸となっていた、屋根の一部には穴が空いていた。

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市役所最上7階の議会フロアーの窓からは、赤く錆びた太陽館の屋根を見下ろすことができる。解体には重機が入れないので約1カ月かかるという。

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いつかはと思っていたが、突然消えてしまう。
なんとかならなかったのかという思いは強い。
ありがとうというには、まだ心の整理がつかない。

土地は天神社所有。跡地利用は未定と聞いているが、できれば中村の文化の伝統を受け継ぐような活用をしてほしいと思う。行政も積極的にかかわってほしい。
 
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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
FB(フェイスブック)もやっています。

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