青年団と太陽館

  太陽館は興行師だった澤田雅男さんが大正15年(1916)、中村で最初の常設映画館としてつくったもの。同じ年、四万十川橋(赤鉄橋)もできた。中村のまちが近代化され、賑わいが絶頂にあったころのシンボルであった。

雅男さんの息子が寛さんだった。寛さんは予科練に入ったが、松山航空隊に配属されていた20歳の時、敗戦となった。最後は特攻要員だったという。

中村に帰った寛さんは父の仕事を手伝うかたわら、青年団運動に没頭した。リーダー格の兼松林檎郎らとともに中村町連合青年団をつくった。

昭和21年12月、南海地震が発生。死者約300人、中村のまちは壊滅状態になった。支援物資の運搬、配給など、青年団は震災復興の先頭に立った。

青年団は被災した子どもたちの面倒もみた。150人ほどのこどもを一條神社に集めていたが、その後土地も確保し、バラック建ての急場の保育所をつくった。中村町青年団立愛育園と命名した。いまの市立愛育園の前身、場所も同じ。

青年団は、自分たちが学ぶ学校もつくった。幡多郡連合青年団立幡多高等公民学院。学校法人としての認可もえた。いまの中村病院の場所だ。

愛育園も幡多高等公民学院も青年団の自主運営だった。行政から一部補助はあったものの、青年団にはカネがない。その資金をどうつくるかが大きな課題であった。

そこで、太陽館が登場する。澤田寛さんの提案で、幡多郡各所で映画の移動上映会を開くことになった。

太陽館のフィルム、機械を持ち出して、各市町村の青年団がもちまわりで学校や広場で上映。各地とも大入りだった。

その代表が戦後最初の総天然色洋画、グレゴリーペック主演の「小鹿物語」であった。

戦後間もないころの 廃墟と混乱の中、青年団が果たした役割はめざましいものがあった。その活動を支えたのが太陽館であった。

以上のことは、1998年に発行された「青春の軌跡 ― 幡多郡連合青年団活動の記録」(同編集委員会)の中で、寛さんが書いているし、回顧座談会でも語っている。

太陽館は単なる興行だけの映画館ではない。中村に根差し、中村の文化をつくり、新しい時代を切り開いてきた。

寛さんは、太陽館を閉館した8年後の2013年、87歳で亡くなった。いまその建物が解体中である。残念でならない。

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Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市(旧中村市)在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。

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