たくぎん

今回の北海道行では札幌に計3泊したので、思い出の場所などを、あちこち訪ね歩いた。大通り公園も。

かつての職場、大通西5丁目、公園に面した農林中央金庫札幌支店も訪ねてみた。しかし、建物はそのまま残っていたものの、中身は近くの大通西3丁目、北洋大通ビセンタービルに、昨年移転していた。

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同ビルは北洋銀行本店ビルであり、かつてたくぎん本店があった場所。私は複雑な思いであった。

たくぎん(拓銀)とは、北海道拓殖銀行のこと。1997年11月、営業を停止。日本で最初の都市銀行の破綻であった。私が札幌で仕事をしたのは同年1月から2年間であり、その渦に深く巻き込まれたからである。

たくぎんは、明治33年(1900)つくられた国策銀行であったが、戦後、民営化され、都市銀行になった。北海道の金融界では、たくぎん王国といわれるくらい、絶対的地位を占めていた。

私が赴任した当時は、どの銀行もバブル期に積みあがった不良資産の処理に苦しんでいた。中でも、たくぎんの傷は大きかった。市場からも警戒され、株価が急落。生き残りをかけ、道内2位の道銀(北海道銀行)との合併話が持ち上がっていた。

そんな状況下ではあったが、私は、最終的には国が救済するだろうし、まさか都市銀行が破綻することはないという「神話」を信じていた。

むしろ、仕事上では、道内有力企業との取引を独占していたたくぎんの強固な基盤に食い込むビジネスチャンスだととらえていたし、その成果も上がっていた。

ところが、たくぎんの資金繰りは、もはや限界に来ていた。同年11月17日(月曜)朝、営業停止を表明。カネを引きだす人が殺到し、パニックになった。

その前日の夜は、日本のサッカー界悲願のワールドカップ初出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」で、私もTVの前に釘付けであったのに。朝出勤すると本店による抜き打ち検査も入っており、ふんだりけったりであった。

わが支店の隣が日銀札幌支店。あとでわかったことだが、前日には、たくぎんにまわす現金が大量に持ち込まれ、Xデー対策が徹夜で進められていたのだった。

たくぎんからの融資のパイプが絶たれたことで、道内企業、団体の連鎖倒産が続いた。当然、わが支店の取引先も含まれていた。チャンスがリスクに一変したのだ。その対応に走り回る日々が続いた。

たくぎんは道内3位の北洋銀行に営業譲渡(道外支店は中央信託銀行へ)されることになり、その移行作業等で混乱はその後も長く続いた。

当時痛感させられたのは、北海道の経済基盤の脆弱さ。それは歴史的に、国策により、つくられたということ。

道内には豊富な水産、森林、石炭資源などがあったが、明治の開拓以来、それらは本州(内地)資本によって「収奪」され続けた。道内に地場企業や産業を育てるという考え方は弱かった。だから、北海道は内地企業の工場ばかりで、地場製造業がほとんど育っていなかった。民が育たず、官依存の構造。

また、道民のルーツは自由な大地を求めて来た移民であるから、因習やしがらみがないかわりに、マイペースで、人と人との横のつながりや連帯意識に欠けるという「道民性」も背景にあった。

日本にとって北海道全体がリスクになっていると感じられた。「試される大地」という言葉が、さかんに使われていた。

私の札幌勤務は、そんな混乱の中のわずか2年であった。確かに、仕事では多忙を極め、なんでこんな時期にとうらめしく思ったのは事実だが、しかし、当時もいまも、北海道での生活は感動のほうが大きかったと思う。

南国育ちの人間にとって北海道は異国であり、見るもの、知るものすべてが新鮮であった。たくぎん破綻という歴史的事件に立ち会えたことも、貴重な経験であったと正直思っている。

北海道はその後流通業界では健闘している。ニトリ、ツルハが全国を席巻。わが四万十市にも進出してくるとは当時では考えられなかったこと。2社ともご縁があり、創業社長にも会ったことがあるだけに、感慨深い。しがらみのない北海道だからこそ、大胆な発想で斬新なビジネスモデルを創造できるという典型である。

北洋大通りセンタービルを眺めながら、中身の濃い2年間であったとつくづく思った。北海道に感謝である。

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プロフィール

Author:田中全(ぜん)
高知県四万十市在住。
幡多と中村が自慢のおんちゃん。
幸徳秋水を顕彰する会事務局長。
フェイスブックもやっています。

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